「やってみたい」を「やってみる」にするまでの難しさとかもやもやとか

明日はXデザイン学校の3回目だ。前回は仕事の締め切りに追われていたのと、その前の回の整理がうまくできていなかったのとで、集中してインプットができなかったように思う。他の人のリフレクションを見て気づかされたけど、肝心な「ビジネスに生かす」視点が全く欠けていた。
ただそれには、思い当たる節がいくつかある。たぶん、もやもやしたものを抱えながら明日の講義を聞いたら、また素直に聞けなくなってしまう気がするので、今のうちに吐き出しておこうと思う。

「自分事」にしすぎる怖さ

私の部署は自治体向けのシステム開発運用を行っているところで、自治体の業務というのは幅広く、入社してからはしばらく人事給与をやり、その後住民健康管理(健康診断とか)をしていた。一人目の復職後に、たまたま周産期の子育て支援に関する仕事の機会があった。私はそれをものすごいチャンスで、大げさでなく宿命だと思ったのである。というのは、自分自身が慣れない地域でひとり子育てをしてみて、ものすごい孤独と絶望感を味わい、こんな思いをする人を少しでも減らしたい、自治体向けの仕事をしている自分はそれを果たすのが役割だ、そう思った。お客さんとの話はトントン拍子に進んだのだが、肝心の調達の段になって、社内とお客さんの組織間の調整に失敗して(私個人でどうにかできる範囲を超えて)、仕事がなくなった。
会社に入ってあんなに悲しかったのは初めてで、確か帰り道に泣いた気がする。今でも悔しい。
それからしばらく、子育て支援関係の仕事の話はあったけれど、急に怖くなった。思い入れが強すぎる仕事は、失うかもと思った時の傷つきも半端ない。前回の講義で、ビジョンが自分事になっているものは強い、と聞いた。それは確かにそう思う。でも、そこからビジネスにつなげるまでの過程を、どうしていけばいいんだろう。自分は何を身に着けるべきなのか。

ステークホルダ至上主義になりきれない現状

Xデザイン学校の講義は、私にとってはそれ自体が「アート」のようなもので、整理された情報の提示や明確なメッセージに触れることだとか、ワークやリフレクションを通して得られる気づきとか、そこにカタルシスがあって、とても刺激的だ。いろんな業種の人がいて、仕事への取組み方があって、世の中って広い、自分の知らない世界がこんなにある、と子どものように思う。そんなキラキラを抱えて迎えた月曜日、持ってる仕事の現実がわーっと押し寄せてきて、げんなりする。
今やっている仕事は、スマートシティがらみのIoTプラットフォームに関するものだけれど、もうね、もう書いちゃうけど、これ一体誰がどんな風に得をするんだろう。それなりの年月関わってはいるので、意義や背景事情はわかっているつもりだけど、現場のお客さんと話せば話すほど、もやっとすることばっかりだ。
ステークホルダ至上主義、住民目線の利便性向上。叶えたいのはそれだ。そこは揺らがないはずだけども、なんでいちいちこんなうまくいかないか、と思う。海外で成功している事例はたくさんあると聞いたことはあるけれど、現場サイドで聞こえてくるのは全然だ。
組織の縦割り、現場のニーズに合致しない、決定の押し付け合い。
書いていったらきりがない。ビジョンも共感も無い仕事は空しい。
一見「なんでもできる使い勝手のよさそうなプラットフォーム」は、実はなんにも使えなかった。とりあえず使えそうなものを入れてみたけれど、これじゃなきゃいけない必然性がない。
良いプラットフォームには、人が集まる。勝手に仕事が広がる。それはそこに必然性があるからだと思う。参加しない理由がない、というか。
私はプラットフォームに、自分の関わる仕事に意味を持たせたい。そして、ちゃんと関係者に合意を得るためのファクトが欲しいのだ。
UXデザインの手法を学ぶことで、それができるんじゃないかと思っているけれども、具体的に何をやってったらいいんだろう。

ファクトの集め方

この間はエスノグラフィだったけれども、どういった手法をどのタイミングでどれだけ集めていったらよいのか、リフレクションを見ていると既に業務で活用している人は関連付けていろんな気づきがあるようだったけれど、初心者の自分はどの程度をどう進めていったらいいんだろうか。たぶんそれこそ経験値をためていけば、判断に迷うことも減るのだとは思うが。
せっかく習っているのだから、自分でも実証していく機会を作っていきたい。やってみたいをやってみるに変えるには?それをずっと考えている。


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