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ドラマ『名もなき毒』を観て考えた、またしても雑記✍🏻
宮部みゆきさん原作、小泉孝太郎さん主演、TBS系列で放送されたドラマ『名もなき毒』(2013年)が、7/7(日)までTVer(ティーバー)で配信されていました。
地上波で放送されていた当時面白かったことを覚えていたので2回目の鑑賞をしました。
全11話の本ドラマは、第1話~第5話までが第1部、第6話~第11話が第2部と二部構成になっています。
小泉孝太郎さん演じる主人公・杉村三郎はふとしたきっかけから、人々の心に宿る毒が生み出す事件に巻き込まれていくんですね。
第1部は『誰か Somebody』(2003年)(杉村三郎シリーズ第1作目)。
第2部は『名もなき毒』(2006年)(杉村三郎シリーズ第2作目)の原作がドラマ化されており、
第1部は深田恭子さん演じる梶田聡美、
第2部は真矢みきさん演じる古屋暁子を中心に物語が展開していきます。
宮部みゆきさんの原作は読んだことがありませんが、このドラマを観て読んでみたくなりました。
余談ですが😊
再度観たことで、森崎ウィンさんがこのドラマに出ていたことに気が付き驚きました。
過去の作品を観る時は“当時は気がつかなかったけれど、今なら分かる”俳優さんの発見が楽しみの1つになっています。
さて、ここからはドラマを観てぐるぐると考えた内容になります。
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主人公の杉村三郎は、誰もが知っている大手グループ企業、今多コンツェルンの広報室で社内報の編集をしている。
杉村の妻は、今多コンツェルングループ会長の娘であり、杉村は“お婿さん”と呼ばれている。
本人が自身のことを「マスオさん」と表現する場面もある。
第1部は、会長の“車屋さん”として、会長から信頼が厚かった専属運転手・梶田信夫が自転車と衝突して亡くなったことから、
杉村は梶田の2人の娘と梶田家を巡る影の部分に触れていくこととなる。
第2部は、コンビニのドリンクに毒がもられる連続無差別毒殺事件が起こり、杉村は不思議なめぐり合わせにより連続毒殺事件のうちの1つに関わることとなる。
杉村は、お婿さんという役割を得るより以前に元の性質が善良な人間として描かれている。
もっとも、善良な人間だからこそお婿さんの役割を引き受ける覚悟を持てたとも思える。
物腰柔らかく、丁寧に人と接し、謙虚であり、野心がなく、笑顔を絶やさない。
そんな杉村を前に、深田恭子さん演じる梶田聡美も、真矢みきさん演じる古屋暁子も心を許し、本音を吐き出していく。
杉村の母親は木野花さんが演じているが、杉村曰く「口に毒がある」人だ。
嫌味を言わざるを得ないというか、何か一言文句を言いたい性分というか、本人に自覚があるかないかは別として、
毒を含んだ言葉を浴びせられる側は決して心地の良い気はしない。
杉村の父親はドラマの中ではあまり表に出てこない。
家の中で物理的に電気の光が当たらない暗い場所で背中を丸めている姿が映し出されている。
その両親のもとで育った杉村が善い人を演じている(ように見えた)のは、一種の防衛なのだろうか。
それはともかく、杉村は結婚を機に、人が持つ心の影の部分に自ら触れていくこととなる。
日常を生きていると心の中に微量の痛みが生じることがある。
その痛みは一瞬で命を奪い取る猛毒ではないが、
毎日1滴ずつ接種し続けていたならば、いずれ命をも奪い取る猛毒になり得るのではないか。
微量な痛みに名前を付けることは難しい。
そんな心の影が生み出す毒が杉村の心にも徐々に染みていく。
そこで、唐突だが、私は二面性のバランスのことを思った。
絶対、必ず、永遠などという言葉は全く信じていないのだけれど、
陰と陽、光と影、メリットとデメリットなどの二面性については、人間や物事において必ずどちらも存在していると思っている。
物事には両面、あるいは多面的に見た方が良いことが多くある。
どんなに明るく見える人でも、落ち込んだり悩んだりする時もあると思う。
逆も同様で、人生に絶望している人でも光が当たる暖かな瞬間があると思っている。
そのバランスの%は各々異なるとしても、どちらか一方のみということはないし、
人は誰しも色々な面を併せ持っていて、一面だけでは判断できない。
物理的にも光が強ければ強いほど影も濃くなるのと同様、放つ光が強ければ強い人ほど誰にも見せたくない心の闇を抱える人は少なくないと想像する。
その闇も自分自身だと受け入れ、共存することができるかどうかで光を維持できるかも変わってくるのではないか。
※人に迷惑をかける類の心の闇は除外します。
本ドラマにおける毒は光と影の影の部分に当たるのではないかと、そんなことを考えた。
(※ここから若干ネタバレを含むかもしれません)
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象徴的だと感じたのは、ドラマの登場人物で、祖母の介護を1人でしており、自身は喘息持ちで働くこともままならない青年の存在だ。
本人は“何で俺ばかりこんなに苦しい目に合わなければいけないんだ”と怒りと悲しみを抱えている。
そんな青年を心から心配し見守っている人の存在に気が付かないまま、青年は自分自身を毒に浸し切ってしまった。
その人の存在は青年にとって影の中の光だったのだと思った。
一方、杉村は全面的に善い人であり光側の人間として描かれているが、最後に彼の中にある影の部分が表れる。
むしろ影の部分、自分の中の毒を出さないと、盛られた毒に太刀打ちできなかったのだ。
私は杉村にも毒があって良かったと思った。
純粋すぎる人は、環境によってあっという間に悪にも染まりやすい。
ある程度の毒を持っていなければ一方的に毒を振りかけてくるモノにやられてしまう。
良い人ほどはやく亡くなってしまうとはよく聞くけれど、
元から話の通じないモノが一定程度存在する限り、自分にもあらかじめ微量の毒を持っていた方が自身と大切な人を守れるのではないかと、
このドラマからそんなことを考えた。
そして、人前では明るくふるまっている人が、落ち込んだり悩んだりしている一面を誰かに見せたとしてもガッカリされないよ!
“自分なんて”と暗い気持ちに押しつぶされそうな人がいたとしたら、良い面を見てくれている人はきっといるよ!
誰の内面にも出来事にも光と影は必ずあるよ!それが人間だよ!と伝えたくなった。