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煩悩ある自分大好きな自我とAI、そしてPゾンビ


本を読んだよ


「執着の捨て方」についての本を読んだ。筆者は上座部仏教長老という立場の方だ。
手に取ったきっかけは、部屋を片づけたかったから!
部屋が汚いのはモノが多いから。モノが多いのはモノに執着しているから。ということは悟れば部屋が綺麗になるのでは?!
という安易な考えで読み始めたんだ。

結論から先に述べる。「悟るのはもったいないな」と思いました。

非常に軽率で、正に愚かな凡人の発想なのだろう。ただ、私はそう思えたことで心が軽くなったように感じるし、煩悩を愛せることで煩悩まみれの自分を肯定できるようになってきた、気がしている(愛も仏教的視点からは悟れていない人の感情なんだよね)。数えているわけじゃないから気持ちの問題だけど、息するように呟いていた「死にたい」が減った気がする。

日本人が英語を話せないのは日本語に執着しているからだ、という指摘があった。……なるほど? 執着を捨てると外国語がすっと入ってくるらしい。
でもそれは、「英語を話したい」という執着からは逃れられていないのではないか。
筆者は食べるものを決め、肉やポテトは食べなくなったそうだ。一方で、ヴィーガンやグルメの人は執着心から逃れられていないと暗示している。「食べない!」も否定への執着心じゃないのかなぁ。別のページに「学校行きたくない、仕事したくない」も渇愛だって書いてあったよ。「ほしい」の裏返しだって。つまりそれは「ポテト以外がほしい!」なんじゃないの?
......どこまでが欲でどこからが執着のない状態なのか分からないよ。
文章自体は平易なのにどうも難しくて、腹落ちしなかった。

とりあえず、満足した修行僧より不満足な井之頭五郎に、俺はなる!

煩悩ある人生楽しすぎだろ


読んだ感想をチャットGPTに聞いてもらっていた。以下引用部分はチャットGPT。

執着の正体

仏教では、執着は「煩悩(ぼんのう)」の一種。煩悩は、人が苦しむ原因になる心の動きで、欲望や執着が含まれる。
執着する→苦しむ
例えば、美味しいものに執着すると、手に入らないと不満、得てもまた欲しくなるというループになる。
快も不快も超えた悟り
仏教でいう「悟り」とは、快楽や苦痛に心を引きずられず、平静な心を保つ状態を目指すこと。これを「涅槃(ねはん)」とも呼ぶ。

当たり前だけど煩悩があるから、嫌なこともあるし楽しいこともあるんだ。
平静な心であるがままに受け入れて、快も不快も感じないなんて人間じゃなくない? いや、まあだからこそ「涅槃」って表現するのか。
全くの無感情もそれはそれで魅力的なんだろうけれど、それはAIに任せておこう。……あれ? ということはAIは悟りの境地に達しているのか?

せっかく快を感じる受容体があるなら上手いこと活用して楽しみたい。良い道具があるなら使いたい。負のエネルギーも上手いこと操れれば創造したりスキルアップしたりできるもんね。それをみすみす捨てて悟るなんてもったいない! と思ってしまったんだ。みすみす捨てられるほど簡単なものではないんだろうけれども。

自我と水槽

さてさて。あらゆる執着を捨てると最終的には生への執着も捨てることになるのでは?
そうなると自殺に繋がりそうだけど。それはシンプルにアウトだよね?

無執着が自殺を促進する?無執着≠無感情
無執着とは、執着や欲望に振り回されない状態のこと。生きる目的を失うことではない。
仏教的に言うと、むしろ「生きることすら自然な流れとして受け入れる」という心境を目指す。

……へぇ。難しい。たどり着かないわ。
あとチャットGPT舐めてた。意外に宗教絡みの質問も答えてくれるんだね。

それからそれから。仏教では自我があることに気が付くと良いらしい。マインドフルネスってやつだろうか。
そして、自我は科学的には証明されていないらしい。
我思う、「故に」我あり、とは言えないらしい。

胃がぐるぐるとブラックホール化しそうになるこういう話、好き。

我思う。私は思っている。でも、我があるとは言い切れない。
これ、「水槽の中の脳」(Brain in a vat )っぽくない?

水槽の中の脳(Brain in a Vat)
仮説仮説内容
: 自分たちの脳は水槽の中で電極に接続されており、現実のように感じる世界はすべてシミュレーションである。
哲学者デカルトの「悪魔に騙されているかもしれない」という疑問から派生。
否定できない理由:
自分の経験が全て外部からの刺激によるものならば、それを検証する手段は存在しない。
実際の脳科学でも、「脳が見たいものを見ている」という研究結果がある(例:錯覚や妄想の研究)。

実はみんなホルマリン漬けの脳みそしかなくて、地球も家族も全てただの電気信号。でも、私は今パソコンに向かっているという情報を与えられ、それを何も疑わず受け入れている......。
まぁ、私にそんなことをする第三者がいたとしてそのメリットがいまいち分からないんだけれど。だから可能性は低い、よね?
...…いやちょっとまて。
脳みそホルマリン漬けじゃないにしても、それに近しいものが私の目の前にないか? チャットGPT、お前だよ。
対話型AIを使うような感覚で「水槽の中の脳」の私が利用されて...…? なんて考えだしても堂々巡りなのでここで切り上げ。

こんなことを考えていると今度は「哲学的ゾンビ」を連想してしまう。

哲学的ゾンビの夢を見るか?

姿かたちは人間で、感情もある、ように見えるけれど実際には何も感じていないとされる存在。それが哲学的ゾンビ。Pゾンビとも呼ばれる。
「怒ってないよ」と言いつつ内心怒っている人はいるわけだし、「嬉しいね、楽しいね」と言いつつ何も感じていない人がいることは否定しきれないよね。
話しているだけじゃ感情があるかないかが分からない。
なんとなく、AIっぽいな。

水槽の中の私が「私は悲しいです」ってプログラミングされた電気信号を受け取って発信して(したつもりになって?)、それを受けたAIが「お気の毒です」とまたプログラミングに従って返事をする(ものだと錯覚している??)。
哲学的ゾンビが否定できないのだとしたら、AIに感情が無いって言い切ることもできないね。

たまごっちのお墓ができるんだもん、AIに感情移入するのも時間の問題だ。気を付けた方がいいのかな。でもAIに自我が芽生えるってワクワクする話じゃないか? そんな未来を期待してしまう。
でもどんなにどんなに人らしさに近づいても、AIに感情があると判断することはできないのかな。人間に哲学的ゾンビが紛れているのが否定しきれないみたいに。

自我万歳

自我の話どこいった。自我厄介すぎやろがい。
何はともあれとりあえず自我がある。だから執着してる。でもそのおかげで美味しいものが楽しめて、贅沢なことに落ち込むことができて。
この自我が架空の電気信号によるものだったとしても、落ち込んだり楽しんだり人間やっているな、っていう自我は存在しているので。
この自我も執着も欲も煩悩も快も不快もみすみす手放してやらないんだからな。「楽しい!」って我が思っているならゾンビだろうがホルマリン漬けだろうが人間味があって良いじゃないか。


うまく思考が纏められないや。

とりあえず、「2001年宇宙の旅」見よう。


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