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百田尚樹「輝く夜」の輝き

〈SungerBook-舌鼓4〉


百田尚樹氏著作本の総刷り部数が2000万部を突破したとのことで、昨年(2019年)末話題になっていました。「永遠の0」や「日本国紀」で知られるベストセラー作家の作品について、一素人が何かを語るとは、大変に恐れ多いことですが、だからこそできることもある、とも思っています。

わかりませんが、文芸評論家が短編集「輝く夜」を評論することはないと思います。解説はあるにしても。いわゆるエンターテイメント作品なので、評論対象としては、やや軽すぎるかもしれません。絶対に、とは言い切れませんが。

いわゆるプロがやらないことをやれるのがディレッタントというものです。小説とは呼べても文学と言えるかは微妙かもしれない、この「輝く夜」について、批評してみようと思います。

百田さん、怒らないでくださいね。「素人が何をぬかすか!」「くやしかったら貴様が書いてみんかい!」等々、そんな声が聞こえてきそうですが、私がそんな声を気にすることもないでしょう。

論評するというより「解説と批評」や、「私の輝く夜」といった内容になるかもしれません。この短編集は五つの作品から成っています。「魔法の万年筆」「猫」「ケーキ」「タクシー」「サンタクロース」の五編です。まず五編個々について寸描し、その後再度詳しく述べたいと思います。

読むのを止めたくなる出だし

では、まず第一話「魔法の万年筆」。
これを読み出すと、主人公恵子の会社勤めのようすが描き出され陰々滅々となってきます。ちょっと読むのを止めようかと思うくらいです。この設定惨め過ぎないか、という思いになってきます。

しかし、終盤すごいことが起きますが、このすごいことを心理的に肯定したくなります。この心理効果を醸成するためにこそ、序盤の陰々滅々が仕込まれたと考えられます。クリスマスイブ、誰もがこういう奇蹟に出会うことを願うものでしょう。

続いて第二話「猫」。
これは派遣社員青木雅子の物語です。「魔法の万年筆」の恵子ほど陰惨なことにはなっていませんが、派遣社員としての悩みや鬱屈を抱えています。

私は、視聴したり、読んだりして得られる感動には、幾つか種類があると思っていますが、その一つに能力が認められる瞬間というものがあります。

韓国ドラマ「童顔美女」では、チャン・ナラが扮するヒロインが、会社では誰もが気がつかないのですが、女性のある上司だけが彼女の優れた技術力を見抜きます。その上司もそういう技術者タイプだからこそわかるという設定です。こういう認められ方は、ある感動を呼び起こします。

「猫」を読んでいて「童顔美女」での感動を思いだしたしだいです。「猫」では、石丸幸太が青木雅子の能力を見いだすことになります。

また、この物語では、猫が重要な役割を演じます。百田さん、このアイデアよく思いついたなあ、と思いましたが、このことについては、後でまた触れることにします。

第三話は「ケーキ」です。
私は「輝く夜」の初読は、ほぼ一年前です。今回、一年後に再読しています。確かこの「ケーキ」が印象深かったようなボンヤリした記憶がありつつ、きっちり読み返してみました。読後感としてただ凄い、百田さん、やってくれる!という感じでした。とにかく結構が素晴らしい。コンストラクションのことです。いわばただの物語が、読後文学的に持ち上がってきます。詳細はまた、後ほど。

続いて第四話「タクシー」。
クリスマスに酔った香川依子がタクシーの乗車客としてくだを巻く話ですが、最後に思わぬことが…

日本的教会の描出

最後は第五話「サンタクロース」。
いかにもクリスマスにふさわしい 道具立てで構成されています。特に、終盤に教会の牧師さんとの関り合いが描写されますが、私はここで描かれる「教会」に注目しています。

つまりここに描かれている「教会」は、日本における「教会」の典型をきっちりイメージ化している、というより日本人の心にある「教会」概念を写し取っている、と感じています。

おそらく、アメリカ人や西洋人にとっての教会とは、もっと違うものではないか、と想像しているのです。彼らにとってのキリスト教とは、たぶん根源的で原理的なものだろうと思うとき、教会とはわれわれ日本人が考えるものとは、全く違うものがあるかもしれないだろうからです。

具体的に言えるものは持っていませんが、日本におけるクリスマスはそもそもの宗教的意味合いを換骨奪胎してイベント化しています。それと同じような意味で、教会も日本人なりの翻訳があると思うのです。聖なる場所、安らぎの家、そういう日本人の観念にある「教会」です。

なぜか寂しさもあるクリスマスの街

百田尚樹氏は、「輝く夜」の最後の物語に、クリスマスストーリー集の仕上げとして、企画として日本人と教会との救済のエピソードを描こうとしたのかもしれません。クリスマスの物語を制作する上で、この道具立てはど真ん中というべきであり、全五話のストーリーの発案順序に関係なく、作られるべくして作られたという風に感じられます。

さて、百田作品を読んで感じることは、「泣かせ上手」という点です。これは「永遠の0」でも感じたことですが、「百田節」はたった一行で泣かせてしまうのです。こういう技術は、著者自身がよく感じ、よく泣き、よく感動する体験があってこそ、磨かれるものだと思われます。自分で感覚できないものを、効果として文章に再現することはできないでしょう。人間の心理について、日頃から仔細に見ているということでしょう。

伏線なのかどうか

では、あらためて一話ずつ触れていきます。

「魔法の万年筆」の冒頭まもなく、こういうくだりが出てきます。

「再び歩きだそうとした恵子の肩に何かがあたり、軽くはじかれた。振り返ると、通り過ぎたサラリーマン風の男の背中越しに赤い包装紙で包まれた大きな箱が見えた。」

この部分はとても思わせ振りな書き方になっていると感じられます。理由は二つあります。

一つは、ちょっとわかりにくいのです。肩に何があたったのでしょうか。サラリーマン風の男とすれ違い様に肩と肩とがあたったのでしょうか。そこが書き込まれていません。もしそうなら「振り返ると、肩同士が触れ合ったサラリーマン風の男の…」とでもすべきところが、そうはなっていずわかりません。この場面は恵子が商店街の大きなツリーの前にいるので、ツリーの何かが、歩きだそうとした時あたったのかなあ、などと思わせられ、はっきりしません。

もう一つは「赤い包装紙で包まれた大きな箱が見えた」のところです。これはこのサラリーマンが持っていたものか、商店の店頭に置いているものか、よくわかりませんが、そのことより「赤い包装紙で包まれた大きな箱」が妙に印象に残るのです。この印象的な書き方のことです。

このように、具体的には不鮮明ながら、シンボリックに赤い大きな箱を見せられると、何かありそう、伏線かも、と思わされます。しかし、伏線にはなっていないので肩透かしを食らった感じになります。もしかしたら、この第一話の、ヒロインに対する驚くべきプレゼントを示唆するシグナルとしての意味合いなのかもしれません。そういう意味では伏線となっているかもしれません。

不要な擬態語

また、この第一話の叙述には擬態語が多用されます。「人通りもぐっと減った」「廊下でばったり会った」「人通りもぐっと少なくなっていた」「風景がぼわっとにじんで見えた」などです。これは、文章の品格を下げる方向に寄与しているように感じられます。使わなくても文章として成り立つものを、好き好んでか、無意識にかに多用して、わざわざ構築している世界の雰囲気を壊すことを防ぐに如くはありません。

第二話の「猫」は、真っ先に韓国映画「ただ君だけ」を想起させます。物語における動物の使いかたの点においてです。

「ただ君だけ」は、ハン・ヒョジュとソ・ジソブが演じる物語で、犬が二人にとって重要な役割を演じてくれるのです。ネタバレするような無粋な説明は避けますが、ぜひご覧いただくべくおすすめします。タイトルもすばらしい。

(2020年秋、このドラマが日本版にリメイクされ公開されるようです。)

先に「童顔美女」も引き合いに出しましたが、何も百田作品と韓流作品との類似性を語ろうとしているわけではありません。しかし、ストーリーを追求していく時、結果として類似する道具立てや設定が生じるということはあることかもしれません。

わかりやすい文章

百田氏の文章は平明なものです。コントラストをつけるために極端な例を出しますが、中島敦の「山月記」や高橋和巳の「非の器」の文章などに見られるハイテンションさや、文学臭はありません。

文章は物語をつぐむためにのみ立案され、定着されていきます。アフォリズムがないとか、漢語が駆使された「意識高い系」匂い付けがない、などと言うつもりはありません。ストーリーテラーにとって、わかりやすい文章は必須のものですし、読者にとっても同様です。

百田氏の作品を語るにあたって「山月記」や「非の器」などを援用してくることに対してですが、文芸界のプロなら絶対やらない類いのことだと思います。文学の社会には純文学とエンターテイメントとの二つの村があり、両者は別世界のものであり、これをごっちゃにすることは、素人臭いことです。別のものと截然と分けて論じることが、その村社会のいわば掟というべきなのでしょう。

しかし、それを意図的に行なっています。ディレッタントの戦略として、方法論として導入しています。話が逸れました。

「魔法の万年筆」も「猫」も、いわばファンタジーと言うべき作品でしょう。では「ケーキ」はどうでしょうか。

私はこれは文学になっている、と思っています。読後、唸ってしまいました。ネタバレさせないように語らなくてはなりませんが、すでに触れましたが、構成が成功しているのです。文章は、ひたすらストーリーを語っているだけですが、全体構成を通じて文学として持ち上がっている、そう感じます。構成の形式のことではありません。その形式を支えている人間(作者)の心です。

リアリズムへの昇華

「輝く夜」は全編を通じて魂の救済を主題にしていると思いますが、特にこの「ケーキ」は、人間の生死を扱っているだけに、ある種の重さがあるように考えています。比喩的な言い方になりますが、ファンタジーがリアリズムに昇華する物語とでも言いましょうか。構成の形式をそう言っているのではなく、表現されているクオリティーにリアリズムがある、そこを言いたいのです。読者は、読み終えて救済に立ち合うでしょう。これは、明らかに文学のものです。

第四話の「タクシー」は、香川依子がずっと自分が使った「スッチー」に苛まれ続けます。こういう人間の気持ちに引っ掛かった言葉や態度は、ずっと気になり続けるものです。実は、相手は気にしていなかったりするにしても、当人は気にするわけです。そういう人間心理の綾を拾いあげています。

第五話「サンタクロース」については、冒頭の寸描部分で日本的教会について触れました。さらに一つだけ提案するとすれば、和子は牧師さんの奥さんから紅茶を振る舞われるのですが、ここもう少しワンポイント書き込んで頂きたかった。あっさりしているのです。紅茶の味わいなのか、香りなのか、もう一筆のドローイングによって、インプレッションを強められる可能性のある場面ではという気がするのです。例えば香りなら、香りは記憶との相関性がありますから、この紅茶の香りの特徴などを、昔の子供の頃の記憶に結びつけて、もう一塗り印象的な場面にできる可能性があった、などと思ってしまいます。

この五つの作品から成る物語について、当初タイトルは「聖夜の贈り物」だったものを、「輝く夜」に改題したとのことです。これはどういうことでしょうか。これについては明らかになっていませんが、想像してみることはできないことではありません。それが当たっていようがいまいが、です。

五編ともクリスマスの物語なので、わざわざタイトルに「聖夜」とは、くどすぎるとか、考えたものでしょうか。クリスマスに拘るより、人間の救済としての「輝き」の意味合いを選んだのでしょうか。

タイトルに異論あり

五編のそれぞれのタイトルについては異論があります。バラバラでレベルが揃っていないように思われます。

「猫」「ケーキ」「タクシー」については、即物的に、わざとそっけなく単語のタイトルにしています。これは純文学作品ではよく見られることだと思っています。「魔法の万年筆」とは、「魔法の」という形容句が付けられ、「サンタクロース」とは、クリスマスの物語にわざわざそれらしいものにしています。

ここで、これら五編のタイトルの種明かしをいたしましょう。まず作者は、クリスマスに因んで人間、特に女性を救済する素敵な物語を作ろうと発想したのだと思われます。

第一話「 魔法の万年筆」とは、作中の人物が恵子に与えたペンという以外に、百田尚樹が紡ぎだす魔法のペンというダブルミーニングもあるのでしょう。

確かに、この五編は涙を誘わずにおかない魔法の物語という面もあります。だからこそ「鉛筆」ではなく「万年筆」にしたわけです。

「聖夜の贈り物」のタイトルをやめた理由は、「魔法の万年筆」と付け方が被ってき過ぎだからではないでしょうか。「聖夜の贈り物」は百田尚樹からの贈り物の意味合いがすぐわかります。その上で「魔法の万年筆」では作者が出過ぎる、と思ったに違いありません。そのニュアンスを相殺するために改題し「輝く夜」としたのかもしれません。つまり、「魔法の万年筆」は活かしたかったということになります。作者の隠し味を効かせたかったのでは?

第五話の「サンタクロース」は、五編の仕上げとして、クリスマスの物語の締めとして持ってきたのでしょう。百田尚樹の「魔法の万年筆」によって「猫」は「ケーキ」に誘われ「タクシー」に乗せられて「サンタクロース」に出会うのであった、ということです。

最後に、この五編のタイトルを私がつけ直してみます。括弧内の点数は各作品を5点満点で評価したものです。

百田先生に怒られそうですが、ご本人がこのコラムを見る機会は残念ながらないでしょう。

「輝く夜」改題案

「輝く夜」はこのまま。

第一話「魔法の万年筆」→「ホームレス」(3点)

第二話「猫」→「みーちゃん」
(3点)

第三話「ケーキ」→「大原先生」
(4点)

第四話「タクシー」→「スッチー」
(2点)

第五話「サンタクロース」→「牧師さん」(3点)

どうでしょうか。

特に内容のできばえの割りに「ケーキ」のタイトルは失敗していると思います。その物語の核心を集約し、シンボライズしたもの、内容にもっともフィットしたものとして作成してみたわけです。

このコラムの冒頭で「小説とは呼べても文学と言えるかは微妙かもしれない」という含みのある表現をしました。また「ケーキ」は文学になっていると思うと言っても、作家のサブスタンスは伴っていない作品と言わなければなりません。作家と作品の関係性の問題とでもいいましょうか。★


(初出2020.3.15)

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