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右の畑も左の畑も「お花畑」は、良い畑 ①

〈SungerBook-カラーグラス999〉「お花畑」が戦争を招く⑧ 

先日、社会学者の宮台真司氏が襲撃されるという事件がありましたが、早々に復帰されているようです。この記事で氏のことに触れるのは、その事件のせいではないし、関係もありません。もちろん、犯人が捕まりその真相がわかり、深いところで何らかの関わりがある、といったことはないとはいえませんが、事件の事柄を扱おうとしていないということを、始めにお伝えいたしておきます。

以前の記事で私は、岡崎トミ子(故人・出生は福島)、石垣のりこ氏、宮台真司氏(二人は仙台出身)の三人を、萩の月・牛タン・ずんだ餅を持ち出して、批判的に取り上げました(*)。岡崎の東北放送出身も含め三人とも仙台に縁のある方々なのです。宮台氏については、批判を誘うような言動はあるのですが、本当にそうか?という気がしています。「本当にそうか?」とは、批判的に見る自分に対してのものです。この問題は、思想的な色分けだけで論ずるわけにはいかない要素があるように思われ、氏の思考が深いところから発信されていることとも繋がっているように考えられます。氏をどう捉えるかは自分が問われることに返ってくるし、以下は、今現在の私の「まとめ」ということになります。

「お花畑」の品格

そもそも「お花畑」とは、非現実的な理想主義や、何の思慮もない脳天気などのことをアイロニカルに表わしている言葉と理解しています。本ブログではシリーズ企画として「お花畑」を批判すべきものとして、そういうネタとして扱ってきています。しかし、今回は
「お花畑」を少し敷衍して捉えてみたいと考えます。
10月に投稿した「日本の良さが弱みになる時」で、私は柳澤協ニ氏の著作「亡国の集団的自衛権」を批判しています。氏は、いわゆる防衛官僚として政権下で仕事していた方ですが、安倍政権批判をしています。よくこういう方が政府の官僚として仕事できるものだと思いますが、与党は清濁併せ呑んで運営しているということなのでしょうか。かつてのモリカケ問題の際に前川喜平というが方おられましたが、そのことを踏まえると、さもありなんという気がしてきます。「清濁」とは必ずしも的確ではなく、どちらが「清」で「濁」なのかなどは、見方を変えたら、判定がしようもないのではという気がしてきます。ここは、「左」「右」で捉えた方がわかりやすくなるのかもしれません。

左の扉か右の扉か、どちらに行くべきか?

「左」「右」とは左翼、右翼のことです。右翼、左翼とは、保守と革新の思想的な立場の違いです。「右」「左」が、正面から議論されることはあまりありません。しかし、思想的な立ち位置として、「右」「左」を明らかにすることは、わかりやすくできる面が確かにあります。とは言うものの、このことが、むしろ、本質的なものを見えにくくしてしまっている面があるようにも思うのです。複雑なこの世は、二つの色分けだけで分割できるほど単純ではありません。わかりやすさの補助として扱うのは利便性がありますが、それがすべてではないので、取扱い注意ではないでしょうか。

さて、宮台真司氏を知ったのがいつか、もうこれは思い出せません。おそらく、「朝まで生テレビ!」だったろうと思います。十年ぐらい前までの間に、TBSラジオの「荒川強啓デイ・キャッチ!」では何回か氏の発言を耳にしました。数年前までの間には、「日本の難点」を読んでいます。しかし、その著書の内容はあまり頭に入っていません。むしろ「難点」というタイトルにずっと引っ掛かっていました。「難点」をタイトルに使うかな?という感覚です。どういう風に言うか難しいのですが、「難点」というワードは、どちらかというと貧弱というか、精彩がないというか、私の感覚ではタイトルにもってきようがないジャンルの言葉に属しています。でも、氏は小説家ではなく、文学者でもなく、言葉の審美的要素にこだわるのではなく、社会学者として、真実を追究し、追及し、追求しているのではないか、という気がします。その結果の「難点」なのでしょう。

そう思ってみると宮台ワールドに頻出するボキャブラリーである「カス」「クズ」「トンマ」「ヘタレ」「ケツナメ」「クソ」等々意識的に用いていることは明らかです。「難点」も同様なベクトルでの敷衍でしょう。下品であろうと、ズケズケと指摘しないことには気が済まないのでしょう。ドクターが内臓を煩ったクランケの病巣をターゲットとしてそこに見極めをつけ、まずそこを白日の下に知らしめる。「そこが患部なのだ!」と思い知らせるためにこそ、あえて不快感に満ちた語彙を採用しているのでは、というように私は捉えています。

西行は松島で童子との禅問答に敗れたという

あの学者は日本語をなんと思っているのか、下品を世に撒き散らしている!品格を欠いている!などと言う声が聞こえてきそうですが、いやいや、そうまでしないことには、何も反応しないところまで不感症になり、底が抜けてしまっている、それが今の日本ではないか。たぶん、そんな思いがあるのではないでしょうか。皮相的な批判こそ「お花畑」ということになるのではないでしょうか。

「お花畑」のつくり方

最近の事例から「お花畑」現象を見てみたいと思います。まず、女優の真木よう子氏ですが、彼女は今年2022年11月中旬の報道では、韓国メディアのインタビューに対してのコメントが炎上したようです。
そのコメントとは「(日本が韓国に対して行った)過去の出来事をすごく謝りたいと思った」「自分が日本人だという事実が恥ずかしいと思った」( Business Journal 2022.11.16より)ということです。炎上したとは、このコメントに対して保守系言論人から批判があったということで、一般国民からもツイッターなどで批判が寄せられたということになりましょう。竹田恒泰氏は、韓国併合について正しい日本の教科書で学んでいないせいだとして、偏った教科書で学ぶ愚に対して注意を喚起していました。ここで私が注視したいのは、日頃政治的色彩を帯びた発言などしない方が、そこに至った動機というか、気持ちというか、発言に潜む心模様についてです。「左」寄りになった彼女の発言をいじろうとしているわけではありません。政治的立場に還元してどうこうしようというのではなく、政治的色彩あるいは左右を顧慮しない方がコメントする、そこに何かがあるのかもしれない、という気がしています。

ここで、私の思料ではおぼつかないので、専門家に依拠してみたいと思います。精神科医の堀有伸氏著「日本的ナルシシズムの罪」にヘルプして頂こうという魂胆です。この場合も、引用の際に「我田引水」となって私がなじられるのはまだ自己責任として、「他田」の文脈を無視して「我田引水」すれば曲解となってしまいますので、慎重さが必要でしょう。堀氏は、「ナルシシズムは、他者の目に映る自分が、理想にかなった賞賛される姿であることを強く求めます。」として論を展開されています。真木よう子氏は、日韓併合の真実を知らないから「日本が悪いことをした」と思っていることになるものの、知らないということは必要条件であっても、それだけでは十分条件ではなく、それを表現するアクションには至らないだろうと私は考えます。

堀氏がその著書でナルシシスティック・パーソナリティについて叙述されているところで、こんなくだりが出てきます。
「歴史を振り返れば、日本にも良い面も悪い面もあると考えるのが当然ですが、悪い面には目を向けず、『わが国は優秀だ』と考えます。その一方で、日本及び日本人を過剰に劣ったものと捉える人もいます。日本の歴史の悪い面にだけ目を向け、現在の日本社会についても悪いものだと主張したがります。
方向性こそ違いますが、どちらも見方が極端に偏っていることでは同じで、これも『日本的ナルシシズム』の現れです。」(p101)となっています。

道徳心が芽生えて日本人の代表として自分が謝罪すれば、日本のファンも同意してくれると思ったのかもしれません。
「日本では、一体感で結びつけるような対象こそが、自分たちの道徳や倫理を規定する権威の源泉なのです。」(p78)というわけです。

奥に行き詰めれば、建前と本音は一致するか?

ここまでくると、もう一つの事例が浮かぶのですが、それは2006年に大江健三郎氏が中国共産党に謝罪しに行ったという出来事がありました。私はこの行為にはぶったまげてしまいました。この時ノーベル賞作家を動かしたものは、真木氏の場合と同じように、対立や葛藤ではなく、情緒的な道徳心であって、オモテ(建前)ではなくウラ(本音)で話せばわかる筈だという思いです。おそらく、こういう行為が日本のためになると思え、自分の自尊心に響くため、アクションに至るのでしょう。当然に政治的外交的なものではなく、そこには西欧的なロジカルな思考はなく、極めて情緒的道徳的な日本的ナルシシズムがあるのではないでしょうか。これは真木氏の場合と共通の心性です。
このことは、堀氏の言説に基づいた私の仮説であり試論です。堀氏は著書の中で真木氏や大江氏を特定する文脈で語っているわけではありません。堀氏の見解を、私が両氏を批評する視座として援用しているものです。

さらに、思想や考えの方向が「左」だから「右」だからと、そこを批判するものではありません。「左」「右」を超えて、あるいはその奥にあるものを見据えなければという思いです。ここに登場頂いた二人の著名人の行為はいわゆる「反日」となりましょう。その意味で「左」に分類されるでしょうが、大江氏はともかく、真木氏についてはこの一事をもって「左」の方とは言いにくいとは思いますが、ただ、「左」「右」とは、個別問題について生じる面があると思われます。つまり、「左」「右」だけを目印にしてその人を批判できないケースが有るでしょうと言いたいわけです。とは言っても、「反日」を外国政府に加担して日本を貶めようとする動きを採っているとしたら、これを認めるわけにはいきませんが…

堀氏の指摘されるように明治以降、教育勅語の影響により情緒的結びつきを大切にする日本人の心性を、私は敷衍して「お花畑」として見ているということです。

「お花畑」という病

もう一人歌手の加藤登紀子氏ですが、今年2022年12月3日付けツイッターで以下のようにつぶやいています。
「何度でも言います。『防衛政策転換』て、おかしい。憲法違反なんだから。選択可能な政策のように書かないでください。憲法によって選択が禁じられているから。」
これは、敵基地攻撃能力の保有を自公が合意したことを、朝日新聞デジタルが
「政府、防衛政策転換へ」
として報道したことに対してのもののようです。政府の意思決定を朝日が煽って「防衛政策転換」と大きく舵を切ったように書き立てていることを、これを加藤氏が「選択可能な政策のように書かないで」と指摘することは、朝日が狙った効果を台無しにしてしまう解釈となって、朝日も苦笑していることでしょう。おそらく朝日は「大変だ!大変だ!」と風を吹かせたいのでしょう。加藤さん、心配無用です、あなたたちは「同じ穴の狢」です、内ゲバはいりませんから。

報道に公正さの輝きはあるか?

さて、この加藤登紀子氏の発言も、堀氏の言われる「日本的ナルシシズム」にあたるものではないでしょうか。加藤氏は以前から「左」界隈の方として発言されてきたと思います。歌手で著名人だから発信されるのでしょうが、そこには何らかの影響力をもちたいとか、「発言する私」に、憲法を守るという道徳的に正しいことを行なう自分を投影しているようにも見えるのですが、いかがでしょうか。ここは、一般的な護憲批判論はやめて、堀氏の見解を紹介するのですが、突っ込んだ論となっています。
「日本人は、社会が提示する序列に敏感で、人間関係のトラブルにも、自分の社会的な地位に応じて行動しようとします。心理学的には『社会的役割への同一化』とされ、主体的判断を控えて社会的権威を参照する傾向には、自己責任による決断の回避という隠された依存が含まれています。」(p123)

日本の歴史的経緯や、そこで培われた日本人の国民性を抉っていると思いますが、今や有名人としての歌手加藤登紀子氏は、敵基地攻撃能力について、自己責任による判断は為されたのでしょうか。憲法という社会的権威を御加護として、自らは善き行ない、道徳的な善の振る舞いに勤しんでおられるのでしょうか?ここに、私はどうしても「日本的ナルシシズム」を見てしまうのですが、いかがでしょうか。すなわち、これも「お花畑」という病ではないのかと思うわけです。

私には、日本的ナルシシズムに安穏としていては、リアルな国際関係に太刀打ちできるとは到底思えない、と考えざるを得ません。素晴らしきかな「お花畑」!なんと素敵な畑なんでしょう!

ところで、冒頭で触れた宮台氏につきましては、自己設定している一記事当たりの文字数目処を超えてしまいましたので、次回の「パート2」に回すことにいたします。★

(「お花畑」が戦争を招く⑨次回投稿予定)

参考資料
・堀有信著「日本的ナルシシズムの罪」
     新潮新書 2016年6月
・浅羽通明著「右翼と左翼」
     幻冬舎新書 2006年11月




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