昭和100年の「主権」考
〈SungerBook-キャッツアイ7〉
ヘッド画像はペリー提督
最近、8月末から9月にかけて、また10月半ばにかけて、2回続けてすばらしい絵画に邂逅する機会がありました。せっかく芸術の秋のマイブームがはじまりつつあったのですが、そんな気分を台無しにしてくれる情報が飛び込んできています。幸い、韓流ドラマのようにふてくされて、机上の本や文具や書類等を、両手で一気に横に払いのけるアクションを行なうほどではありません。そんな瞬発力の方向ではなく、気持ちが一気にダークサイドのトーンに染まってしまうような隠微な感じです。せめて、文章でデッサンをとは思っても、最後のドローイングまで辿りつけるものやら·····
蔓延するウイルス
実際にウイルスが蔓延しているのではなく、「ワクチン問題」が一気に広がってきています。これこそウイルスと言うべきであり、日本中にシェディングが進行しているかのようです。
まず、今回の話題展開はレプリコンワクチンから始まったという印象です。しかも、この接種が先月の10月から始まるという情報と同時だから驚きです。念の為、レプリコンワクチンについて確認してみると、
となっていて、2023年11月28日に武見厚労大臣の会見としての記載があります。いつの間にか発表していたようです。
しかし、ちょっと待ってください。2020年武漢発で始まった新型ウイルス問題を、WHOがCOVIT-19
などと中国発を隠蔽するがごとき命名をし、これに対する医療対策として、アメリカのファイザー社とモデルナ社がメッセンジャーRNA(mRNA)と呼ばれるワクチンを開発。動物実験による成功例がないというのに、世界にばら撒かれました。わが国はこれをたっぷり購入し、国民に推奨したわけでした。2022年には、欧米はこのワクチンをやめているのに、今日本は、遺伝子ワクチンの自己増殖型であるレプリコンmRNAを世界に先駆けて、と粋がっているかのようです。
当初のmRNAワクチンの評価と検証はどうなっているのですか?このワクチンによる死者数は厚労省が認定しただけでも777人(※①)と言われています。あちこちで、これに苦しむ方々と、問題ありとの専門家の指摘情報が、日々ネットを駆け巡っています。
そんなことは全部すっ飛ばして、インフルエンザに備える体で、シレッと新型コロナワクチンを出してくる、これは全く理解できません。レプリコンワクチンについても、動物実験は行なっていないそうではないですか。「有効性・安全性が確認された」?こんなことだから、Meiji Seikaファルマ社の社員自ら「私たちは売りたくない」を出版することになるわけです。会社上層部はお上のお墨付きを得て、マーケットチャンスとばかりに増収増益確定を喜んでいるのかもしれません。同社幹部がずらりと揃って並んで、「レプリコン打ちましたよ」アピールは、会社人間としての「憑かれた」人々であるように見えます。
私が初めてレプリコンワクチンについて知った配信動画は10月4日放送のAbema newsでのことです。この中で、司会者以外にゲストとしてタレント等男女計4人、ほかにハーバード公衆衛生大学院卒の医師木下喬弘氏と、前厚生労働大臣の塩崎恭久氏が出演、主要な部分のコメントを担っています。番組としては、レプリコンワクチン登場に伴うトピックについて取り上げていて、街の市民感情の不安に触れつつ、ワクチンへの否定的な論調を抑制している印象を受けました。
国家の意向を受けたかのような番組企画と感じられ、女性タレントを交えシェディングへの不安を紹介し、それを木下氏が否定したり、塩崎氏に至っては当初のワクチンがあるから今の平温があり、メリットもあればデメリットもある、と語る様を見てあきれ、私はこの動画はアーカイブとして、5年、10先にも観られるべきと思わずにはいられませんでした。この医療の専門家や厚労大臣経験者も、私には「憑かれた人」として映っています。
家での話題はタブー
2000年代のSARS、MERSへ、対策ワクチン研究(米)を推進してきたものの動物実験は成功していないことが、伝わっていました。武漢発ウイルス発生前2019年の話です。この研究経緯から、このワクチンはぜひ使ってみたかったとも、語られました。こんなわけで、2020年コロナが蔓延しだしても、私はワクチンを打たないことを決めていました。
そこで、こんなワクチンと呼べないものの接種を家族、親戚にはやめるべきと推めたものです。ところが、後でわかったのは、一部を除いて無視されたようなのです。私は、なんて楽観的なのだろうと驚きました。しかし、こういうことは難しいことだ、とも理解しました。いちばん近い例えでは、選挙でA候補を人に推しても実際の投票はわからないことや、政治的な考えの左右の分かれ道に近いものがあると悟ったしだいです。私の言うことより、国の言うことを信じるというわけです。父親の威厳はダダ崩れと相成りました。
もともとは大昔からあるようですが、2019年の米国大統領選挙の頃から「陰謀論」が台頭してきました。コロナワクチンについても「陰謀論」が駆け巡っているのは、ご承知の通りです。私は、「陰謀論」という発想がすでに陰謀に加担していることであって、取り込まれているとみます。陰謀と言わずとも、大きな「腹」「思想」はあると思っています。例えば芸人さんなども、ハングリーを肥やしにジャパニーズドリームを実現し「功なり名を成し」富裕層入りしている方もいます。仮に貧乏人の私がありあまる財を入手できたとしたら、一体今世で何を為そうかと思案する時、自分の腹に据えた思想に殉じようと想像するだろうことは、わかるような気がします。
「陰謀論」問題について私が見出だしている結論は、人間が求める価値としての「富」「快楽」「名声」を得たあとには、世界や歴史に影響力を与えようと思うのはあることだろう、というものです。国際的な富裕層の思想的な情報も今に始まったことではなく、その歴史も語られているところです。ワクチン問題を医学的見地からだけで論ずることに無理があるのではないか、そう素人には思われます。もっと大きな力学の関与も視野に入れるべきではないでしょうか。医学が「科学の良心」に基づいて純粋培養される、できるものなら、こんなことを考える必要もないことです。人間自体を俯瞰する見方が求められているように考えられます。この時、医学から一歩離れて人間を捉える視点が意味を増すように思えます。「思潮の陶冶」の方向です。
この方向では、以前から私は林千勝氏や、最近では茂木誠氏に接しています。このような作家の見識を、十分な説得力を持って受け止めています。日本は昨日今日からターゲットになっているわけではないのです。淵源をたどれば、初めて世界の中の日本を自覚した黒船来航時にまで遡ることでしょう。明治になり近代化促進のため、富国強兵、殖産興業策の元、「お雇い」を入れまくることでの「受容」には同時に「混入」はあったものと想像されます。日清日露での勝利で、世界の見る目は変化したろうし、国内的にも産業や経済は成長し、勢いに乗っていったようです。他国の影響力の問題としてではなく、自国の問題として模索したいと考えています。二度の大戦と敗北を喫して後、経済成長を果たし、「NOと言える日本」への喝采はすなわちNOと言えない日本の実態を表現してしまっています。寺山修司が「裏現」の語彙を使っていますが、こういうことを指していたものでしょうか。
というような思考を重ねている私としては、その思いの片鱗を伝えたいと思い、機会に触れ家人に切り出すと、「陰謀論はお断り」と判で押したリアクションが現れます。やはり人には伝わりようがない領域の事柄があるのであり、こういった多面性の中で人間世界が営まれている、と呑み込むしかないことはしばしばです。
ブルータスよお前もか
mRNAワクチンやレプリコンmRNAについて、私が医学的根拠としてその論を支持している方々は以下の通りです。言い換えれば、警鐘を鳴らしている医学や科学の専門家ということになります。
私が接し得る方々とは、だぶんほんの一握りなのでしょう。いってみれば「ワクチン禍」第2ステージを迎え、下記以外にも何人もの医の専門家が警告を発する事態となっている現状です。
敬称略
・武田邦彦(元中部大学総合工学研究所特任教授)
・井上正康(大阪市立大学医学部名誉教授)
・宮沢孝幸(元京都大学准教授)
・上久保靖彦(千葉県がんセンター研究所部長)
・大橋眞(徳島大学名誉教授)
・粂和彦(名古屋市立大学教授)
・村上康文(東京理科大学名誉教授)
・新田剛(東京理科大学教授)
etc.·····
そもそも当初の騒動時から警告されている方に加え、今回のレプリコンに絡んで知った先生もおられます。特に、新田教授は論点を絞っていて、レプリコンは「ワクチンとは呼べない」ものだと語っている主張は、シンプルに説得的と思われます。私の意思決定は、自分の支持する医学の専門家や知識人の思考が支えになっているわけです。
「反ワクチン」という概念自体、ワクチン推進思想に取り込まれている、と私は思っています。対立概念の設定が、推進主張を際立たせる効果や二者択一誘導へ寄与するからです。その点では、「ワクチンVS反ワクチン」の構図を構築できた時点で、半分成功しています。そもそもワクチンではない、という視点に立つ時、初めてそれは理解に近づけると考えています。「陰謀VS陰謀論」もまったく同じ構造を持っていると思われます。
コロナ禍時、国会議員数十人も非接種の考えのあることを知っていました。そういう中で、財務省官僚OBの髙橋洋一氏は、接種に頓着しない思考を持っていて驚いたものです。理系の頭脳を持っている方で、データを駆使して怜悧に判断される方にしても、そういうことがあるのだ、と首を捻ったものです。今回のレプリコンが出てきても、その思考は変わらないようで、ただ、実際に「する、しない」は体調しだいと明言されていました。
また、堀江貴文氏もワクチン推進派だと知って驚いています。その動画の書き込み欄に「いくらもらっているんだ」とありましたが、気持ちはわかりますが、そういう方ではないでしょう。いずれにせよ、並外れた頭脳の持ち主にして、ワクチンを「厭わない」とは、腰を抜かしてしまいます。
高名なインテリに不躾ながら申し上げるとすれば、髙橋氏は理数系の思考が過ぎてデータ化できない人間の情念の領域を看過していて、堀江氏は科学への理解力と信奉が勝り自身に酔っておられる節があるとみるのは、言い過ぎになるでしょうか。ちなみに、「ワクチンではない」と論破している新田教授は、コロナワクチン7回の接種機会に対して全く応じていないとのことです。
率直な私の感想としては、髙橋洋一氏、堀江貴文氏の判断には、「ブルータスよお前もか」という気持ちです。それに引き換え、国会議員の原口一博氏は、ワクチン接種にての病気から寛解され、今回覚醒したかのように、わが国の有り方を諫めておられるのは、実に説得力があるように私には映ります。
安全とも安心とも思えない
東京都における豊洲市場への移転問題に関して、「安全だが安心ではない」との都知事の巧妙なレトリックに反応した繊細な心性は一体どこへいったのでしょうか。つい、7年前のことで、まだ耳新しい。「築地は守る豊洲は活かす」などという、あざといものもありました。このたびは、「コロナは危険、ワクチンが守る」とばかり、さすがにそんなフレーズは使われることはなく、インフルエンザワクチン並みに従前の季節対応のごとく、シレッとレプリコンを登場させてくる、これは一体何なんでしょうか。あの石橋をたたいても渡らない細心さは小池都知事だけのものだったのでしょうか。
また、かなり遡れば1977年ダッカの空港での、日本航空472便が日本赤軍にハイジャックされた際、犯人側の要求に対して「一人の生命は地球より重い」として福田赳夫首相が要求のすべて応じた、あの生命第一主義こそ日本のお家芸と刻まれたものですが、ことコロナに関しては、「ワクチンの生命は人間より重い」って感じになってしまっています。
ここで、先に述べた専門家新田剛教授のmRNAについて論点を絞った、「ワクチンとは呼べない」をかいつまんでみます。
ワクチンの評価基準には、安全性や防御作用とその持続性があるそうです。免疫学の教科書にあるらしい。安全性、防御作用とは、われわれ素人にもわかりやすいことです。これまでワクチンとされたものを振り返ってみると、結核にはBCGによって感染者を抑え、ポリオには生ワクチンを輸入使用して抑え、はしかに至っては生ワクチンで2013年(国内)には根絶したという実績があるとのことです。一方コロナでは、2020年から2023年の5類認定(現在11波)までに8~9回接種とともに感染者を倍増していて、死者は過去より5倍多く773件(※②)となっているとのこと。これ、直近の実績、目の前にある実績であり、過去のデータのことではありません。
すでに起きている事態を問題にされています。これからを懸念しているのではなく、明らかにすでに大いに問題でしょう。
mRNAについては、
1 無症状感染を防げるか ✕
2 効果はどのぐらい長く持続するか 3~6ヵ月
3 変異株に対応できるか ✕
4 集団免疫を実現できるか ✕
5 長期的な視点でみて安全か ✕
という評価となり「ワクチンとは呼べない」と結論づけています。繰り返しますが、新田教授自身これまでワクチンは一回も接種していないそうです。
私の見聞きしてきた医学の専門家には、「科学の良心」を感じます。新田教授の見解で代表させていますが、このような「知」に接してきている私としては、普段からインテリとして敬意を表する髙橋洋一、堀江貴文両氏の認識は理解できないと言わざるを得ません。
国民の生命大事のお家芸はどこへ行ったのやら?政治的対応では、生命の安全を重視しておきながら、このコロナの対応については、何故にこんな雑なことになるのか。2021年菅義偉首相はファイザー社のワクチン買い付けに交渉力を発揮したとされています。2022年時点の支出決定費用は1兆4500億円強とNHKが報道。日本は良い顧客となったことでしょう。ハイジャック事件の人質の中には、米国人の有力者もいたようです。豊洲で安心できないとして一瞬で踵を返すような慎重さが危ういものの、首相の大枚を叩く気前よさにも危うさが残ります。
8月、主権は薄かった
せんだいメディアテークには時々出向くのですが、8月15日に無料の講演会があると知り、マークしておきました。「8.15戦争を阻止する平和集会」だそうで、2度ほど翻意しかかりましたが、うろ覚えながら講演タイトル「日米地位協定の改定を。·····主権をとりもどそう」が気になり、出向いたものです。地位協定をひっくり返すような威勢のいい話が聴けるとも思えませんでしたが、開演間近に入ると結構聴衆客で席は埋まっています。入口ではすでに資料は完了していて、素手で席に着くことになりました。講師の猿田佐世氏は、あいにくコロナに罹患していて、リモートでの講演となったしだいです。
猿田氏は冒頭、日米地位協定のテーマ設定にやや否定的なようすでしたが、主催者の求めに応じてスピーチは始まりました。要はおもしろいものにならないだろう、と踏んでいたようです。「朝まで生テレビ」に出演しているとは、御本人からの説明ですが、いかにもそれらしい国際的なアクティビティと勢いのあるコメントを披露してくれました。政治家にも具体的な働きかけをしているようであり、こういう国際的な行動家は政治を下支えしているようでもあり、その部分は敬意を表するばかりです。当日の私のノートを見ても何も記載はなく、目新しい情報や、新視点の考え方がなかったのだと思われます。
講演者に対する主催者のオーダーの出し方が甘いように思われます。地位協定の現象面のトピックをいくら聞いたところで、学習にはなっても、聴衆者への影響力は出てきません。もっと地位協定を腑分けするなどして、論点を絞り、ご本人の主張を聴いてみたかったものです。地位協定の問題を知ったところで、必要なのはその先ではないか、どうにもできないのか、あるいはもっと大きな化け物のような問題があるのではないか。猿田氏はかなり知っている方とお見受けするので、そう思ってみると、事務局は現象的な問題を聞いて終り、そんなところでしょうか。
私の問題意識は「主権」であり、ここを深掘りしてほしかったという思いがあります。そのあたりに及ぶ気配もなく、講演終了後質問の気力も萎えていました。ひとえに、主催者の突っ込み不足を呪った会でした。そもそも「戦争を阻止する」に対して「主権をとりもどそう」とは、それを結びつけるには、千言万語を要する事柄のように思えます。猿田氏は、聴衆層を推定しあまり先鋭な話題を避けたのかもしれません。
国家の条件は、領域、国民、主権の三つとされています。四方を海に囲まれて、この国は領土を失うことのない環境は、恐ろしく恵まれた地理的条件と言えるのでしょう。「地政学」的観点からすれば、国民性、文化、歴史への影響は、様々に語れるものなのかもしれません。
黒船とは何だったのだろう
といって、外部の脅威がなかったわけではないことは、誰もが知るところです。
数年前に横須賀中央図書館で黒船のことを調べる機会がありました。浜辺で異人を出迎える日本人の数の凄さが、日本の驚きと緊張を物語っていて、イラスト(エッチング)による克明な描画で、迫真力をもって訴えてくるものがあります。外国船の渡来はそれ以前にもあったようですが、マシュー・ペリー提督の訪日こそ、この国の歴史を動かしたわけであり、日本人全員が「世界の中の日本」を自覚した瞬間ということなのでしょう。「たった四杯で夜も寝られず」とは、当時の人びとの気持ちをよく伝えてきます。ペリーさんは、自分の仕事を成し遂げるために、日本また日本人を相当研究していたようです。最初の来航から、日本側の主張を受け入れて一年待って開国実現を成し遂げるその周到さに、メイフラワー号で新大陸に入り込み、アメリカを健国した民族の覚悟と執念と戦略を想ってしまいます。
今、ワクチン問題がこの国を揺るがしていると思います。その騒動ぶりと、遠因が、私に「黒船」を思わせています。誰も「黒船」などという比喩で思わないでしょう。しかし、私はあえて「黒船」と穿ってみることで、日本の弱点を炙り出せるかもしれないと考えています。
ホワイト・インベージョン
「サイレント・インベージョン」はクライブ・ハミルトン教授が著し、奥山真司氏によって紹介されたと認識しています。「静かなる戦略」とは、オーストラリアが中国によって侵食される実態をえぐっていて驚かされたものですが、その時わが国への影響を懸念した覚えがありますが、しかし、それはとんでもない楽観で、とっくの日本の汚染に気がついて頭を抱えてしまうばかりでした。もっとストレートに言えば「戦狼外交」や「超限戦」と、それはピッタリ重なるものでしょう。ペリーの国とは違い、こんなにわかりやすく迫って来るのに、国会議員や大学教授やマスコミ等々社会的影響力のある人びとが、容易に侵されていて、その根の深さには、「美しい国、日本」などとは空々しく、虚しいばかりです。国家に白蟻が集っている様とは惨憺たる状態ですが、それはわかりやすいだけ、まだましなことなのかもしれません。少なくとも、当該国と何の利害関係もない国民としては、反射的に嫌悪感を持つばかりです。
「ホワイト・インベージョン」とは、必ずしも恐い形相をしているわけではありません。私が「黒船」と言ったところで、そもそもそれは「黒船」とは見えていません。むしろ「ホワイト」か「無色」かというほど、私たちの無意識に入り込んでいるのかもしれません。
今年西暦2024年は昭和98年ですから、再来年には昭和100年を迎えます。昭和元年=1926年を数えれば、2025年は昭和100年となります。このことを思うと、いま「ウイルス」は医学的語彙を突き破ってその意味を拡大しているように思えてしまいます。
私が横須賀中央図書館で資料を漁っている頃、時間的先後は曖昧になりましたが、横浜開港資料館をも訪ねています。それは、個人的な横浜赤レンガ倉庫への興味から派生していることでした。そこで知ったことの2点を上げると、先の大戦で横浜も大空襲を受けたことと、外国人居留地区があったということです。長崎、広島の原爆投下と東京大空襲は知っていましたが、大人になってからようよう横浜大空襲を知るとは我ながら情けない話であるものの、街作りへの興味のアプローチから「戦争」に直面してしまったわけです。
資料を見ているうち、焼夷弾にはゼリー状のガソリンが充填されていると知りました。夜空にガソリンへの点火によって、あれだけ発火するものらしい。そういう武器を、実験しいしい米軍は使ったようです。「ゼリー状のガソリン」という工夫に殺人者の悪知恵に得心したものです。当時の人々は、夜空の発光にどれだけ恐ろしい思いを感じたことでしょう。
また、横浜には外国人居留地区というのがあったそうですし、外国人遊歩道というのも出てきました。資料を見ていてさもありなんと思ったのは、私が訪れていた開港資料館自体がそもそも英国総領事館だったわけですし、明治の近代化の推進から大量に「お雇い」を入れたわけでした。欧米の知識や情報はわが国の発展に大いに寄与したのでした。この時、私はわが国に「ウイルス」が入ったと直感しました。何故か、そういう実感が伴ったのです。コロナ前のことであり、コロナと結びつけていたわけではありません。学ぶことの裏側に貼り付いている、負の側面、それは否応なしに両義的に伴っている性質のものです。欧米に学び、国や人を高めることは、同時に別の要素も入れなければならないことなのでしょう。「成長」や「発展」に不可欠な何か、その過程に脱ぎ捨てていくと同時に身につけていくものの裏側に貼り付いているもの、その「ウイルス」は不可分なのでしょう。問題はその「ウイルス」との付き合い方に翻ってくるように思われます。
それはペリー来航時に遡ることであり、地球に暮らすとはそういうことなのでしょう。「黒船」とは、未知の魅力と恐ろしい何か、そのシンボルとしての謂いです。その事自体を否定しているわけではなく、「ウイルス」との付き合い方に還ってくるのではないでしょうか。そこを自覚的に捉え、意識的に思考するスタンスが、問われるような気がします。
主権とは何か
せんだいメディアテークには、仙台市民図書館があります。ふと書棚を見ると後藤新平著「国家とは何か」が目に入りました。表紙に「人には人格があるように、国には国格があり、民には民格がある」とあり、目次を閲覧しましたが、「主権」は出てきません。晩年にも精力的に天下国家を論ずる姿勢は、尊敬に値します。現代、私利を離れて国家を論ずるインテリはわずかしか浮かびません。まして政治家や官僚に至っては、私利私欲優先で、どの国の人?と疑うような事例ばかりです。
さて、場所は図書館であり、百科事典に頼ってみることにしました。膨大な文字数にクラクラしますが、大胆に抜粋に挑戦してみることにしました。極力短く、3ブロックにして引用してみます。
[主権]
[主権]-本質
[主権]-国際法上の主権
主権とは何か、とそのものを問うていても、何か理屈の罠にはまりそうで、そんな理論的な追究ではない方向はないものか、と思ってみた上で、この国に主権はあるか、と考えてみたらどうなるでしょう。それは、昭和20(1945)年に置き忘れているのではないか、とその6年後生まれの私は感じています。と言って、それは単に昭和の問題ではなくて、遡ればペリー来航の嘉永6(1853)年にまで至るのではと考えてしまいます。
大政奉還があって明治となり、文明開化がやってきました。殖産興業、富国強兵が推進され、欧米の学問や技術を貪欲に吸収した時代がありました。「お雇い」を大量に誘致し、日本は欧米先生に師事した時代と言えるでしょう。横浜を例にとってみれば、下水道、港湾等この町の基はブラントンさんによって支えられました。日本はこの時、学問、建築、製糸、造船、鉱山等々、さまざまな面で欧米から吸収し、近代化の階段を登りだしたと言えるのでしょう。
明治時代には日清日露戦争に勝利し、その勢いはいかばかりかと思わせます。しかし、第一次大戦の後、昭和となって第二次大戦がありました。第二次大戦とは無機的な言い方ですが、太平洋戦争か、大東亜戦争か、その呼び名だけで、議論が生じ論議が起きるような性質の分野です。
平成、令和の元号の変遷は皇統を語り、この国の格別の文化として意義を感じつつも、歴史を俯瞰し、大きな論点で捉えようとする時、長期のスパンで今を「昭和」として思考することに、おおいに興味の惹かれるところです。
今を「昭和」の只中に居ると感じる時、すぐうしろに明治があるし、ペリーさんの姿も見えてくる。終戦の6年後に生を受けたわが身であってみれば、子供の頃の生活や、父親が復員帰郷したエピソードは、具体的な実感をともなっています。欧米文化をカッコいい良きものとして吸収してきた自分がいることにも気づきます。
そういう所与の空気は、自覚しにくいが、つまり無意識で吸ってきた空気に、すでに「主権」はなかったのかもしれません。それを「ウイルス」と呼んでみれば、避けて生きるわけにもいかない必要悪であったことは自明のことです。在職中友人が、私が知りたての日米地位協定の話題を出した時、「日本は植民地さ」の言葉は、ある種の気持ち悪さがあるのは何故でしょうか。
「日米地位協定から主権をとりもどそう」とは、
その意図を難詰しようとするわけではなく、取りようによっては短絡的に見えます。地位協定さえなければ主権がもどる、その思考が危ういものに思われます。本質に迫りたいだけです。
いまここに、「地位協定」と「主権」の二つのお題があります。
まず、単純に地位協定をはずせたとして、この国の防衛論を惹起してきます。要は日米安保条約が姿を現します。当然、そこに憲法も絡んできます。これだけでもう、餅が喉につかえそうになってきます。この辺りが先に「千言万語」云々と述べた意味です。私は今回「主権」をイシューとした時に何がどうなるのだろうとの方向で模索してきています。これも、多面的な論になるとは思うものの、もっと国民を護る観点で行使できなかったものかと訝ります。
アメリカでも、ベトナムでも承認されていないレプリコンワクチンを、何故にこんなに易々と承認するのか。アメリカで技術開発したものを、わが国の治験を経て日本が薬事承認する?Abemaでの木下氏のコメントでは、「日本には日本人のデータがあるから治験できる」と、意味不明の理由を語っていました。それを何故に世界に先駆けるかのような振る舞いに出るのか?ここには、ひとえに厚労省、日本国の意思決定があります。どこからか押し付けられたというより、世界を忖度して自発的に受容する。この時この国の領民の安全、安心は、どこへやったのでしょうか。これこそ、ペリー依頼、先の大戦依頼、増殖してきたウイルスというべきです。国民を護ろうという主権ではなく、憑かれたかのように推進しようとしています。
対内セキュリティーという視点
ワクチンによってもたらされている分断こそウイルスというべきでしょう。その淵源はペリーによる開国依頼この国に侵入している欧米の価値観や影響力等であると思われます。それは日本の発展のための学習効果として入ってきているそこに、
微妙さや危うさを伴っています。混入物が悪いと言っているのではなく、それを受け止める主体の側が問題のように考えられます。これは、昨日今日の問題ではなく、過去からの歴史的問題といえるのではないでしょうか。
わが国は神武天皇依頼、固有の長い歴史をもっていますが、こんにちの発展は他国の影響なしにはあり得なかったでしょう。特に、昭和に入って大戦での敗北を喫しても、その後の努力で経済的には一時登り詰めました。今や先進国の一つとなっています。しかし、敗戦に伴う米国の影響下にあり、日米地位協定やWGIPに支配されているかに見えます。
一体、この国に主権はあるのでしょうか。
コロナ11波と言われる最中、国によって推奨され、主権が問われていると受け止めています。それによって分断が生じているからです。国家としての強引とも思われるレプリコンワクチン政策が、様々な憶測を招いています。陰謀があるかどうかを問題にしているのではなく、それに呑まれることと同じ状態を招来していることになっているのではないでしょうか。国民を守ろうとしないことに主権のなさをみるのです。こんにち対内セキュリティ―のなさに、主権のなさが露呈しています。
対外的独立、自立の主権の他に、対内的な安全保障の観点から、国民を守る思想が求められています。こんな毀誉褒貶に満ちた、拙速のワクチン推進は国民を守ることから程遠い。繰り返しますが、対内セキュリティ―のなさに主権が霞んでいるようです。
温暖化、脱炭素、LGBT、SDGs、脱捕鯨、グローバリズム、夫婦別姓·····世界的価値観を拒否するわけではなく、しかしそれがマストであるはずもない。裏に意図がないにしても、あると同様なふるまいに晒されて気づけない日本人はさもしいと言わざるを得ません。皇統を女性差別などと語る不見識は病んでいます。また、世界遺産の認定に欣喜雀躍する心性も、どうかしています。承認欲求に前のめりになり、自国を滅ぼすことなかれ。国格や国家観を鍛え上げねばなりません。それが民格になってくるのでしょう。
その一方で領民を守ろうとしないとは、主権国家とは言えないでしょう。子や孫に一体どんな国柄を残せるのか。長い時代のスパンでこんにちを捉えるとき、昭和100年の大山に大きなクレバスが見えているかのようです。★
註
(※①)777人
(※②)773 人
ワクチンによる死者数。厚労省のデータ採取時期の違いと推定。厳密にカウントされるでしょうから、グレー部分を入れたらどうなるか?