「WAKE UP」ー 抒情の意味
〈SungerBook-舌鼓3〉
「WAKE UP」は、他にもあるようなので、財津和夫氏の楽曲のことを差していることを予め申し上げるべきでしょう。何せ1979年(昭和54年)発売のヒット曲です。40年以上も前のことになりました。
同じ年にヒットした曲として「いとしのエリー」「いい日旅立ち」「みずいろの雨」などを挙げれば、どれだけ前のことか、イメージが浮かぶのではないでしょうか。続けて「ガンダーラ」や「きみの朝」や「愛の水中花」もありましたと言えば、テレビドラマのテーマソングでもあったので、ご自分の生活実感もリアルに甦るのでは、と思います。
さて、なぜ「WAKE UP」を持ち出すかと言うと、自分の聴きたい音楽の一つとして、今なお耀きを放っていると感じられるからと同時に、特にここ数年来この楽曲に対する自分の見方が、ほぼ固まりつつあると思えるに至り、ぜひこの機会にまとめてみたいと考えているからです。
もっとも直接的には、楽曲をブログで取り扱うに際し、JASRACの著作権問題が気になっていたのですが、JASRACへの問合わせを通じて、曲によっては許諾契約をしているブログであればクリアできることがわかったことが、おおいにわたしの背中を押してくれました。(初出時点では、はてなブログを選択投稿。その後noteへ移行)
わたしはこのブログで「WAKE UP」に対する私見を述べようとしています。この記事を書くにあたり、ネット検索をしてみましたが、わたしにすれば『いやいや、それは違うでしょう』という解釈しか見かけません。わたしの申し上げる解釈は、言ってみれば抒情の咀嚼と歌詞の解読といったアプローチであり、酒井順子氏が「ユーミンの罪」(講談社現代新書)でとっているような、歌詞に女性の生き方と時代を重ね合わせるという文学的な、高邁な視点とはほど遠いレベルのものです。
また、あくまでテクスト論ですので、財津和夫氏の意図とは関わりありません。もちろん、そのような意図を知る由もありませんし、また、わたしが記述するような視点がすでにあるようであれば、それはそれでぜひ知りたいところではあります。
ネットでどのような解釈があるか見ていて、十ぐらいの記事に触れて驚いたのは、曲調と歌詞に違和感を感じるという指摘があったことです。わたしと同じことを感じている方が他にもいるとわかり、意外でもあり、仲間が見つかったようでうれしくもあるといった感覚になりました。
ということは、「わたしのWAKE UP論」は、この違和感を解消するプロセスにもなるはずです。
この曲が抒情に満ちていることは、誰もが認めるところでしょう。しかし、この哀切な情感と、歌詞が語る意味に微妙なズレというか、かすかなアンマッチを感じてしまうのです。
この歌詞に対する解釈は家族愛とする見方が大方のようです。歌詞に登場する「年老いた人」が、嫁ぐ娘の父だ、いや母だ、と二説あったりします。
しかし、わたしは、家族が娘を思う「愛」としては、その抒情がロマンチック過ぎると感じられます。もしそうなら、もうちょっと違う曲調が挿入されて然るべきと思われます。わたしが音楽にくわしければ、ここを具体的に表現できるところなのですが・・・。
つまり、父親が娘を送り出すにあたり感じる哀切さとは、寂寥感はあっても抒情とは異なる感情ではないかと思われ、それは父娘の愛の感情であり、男女の感情とは似て非なる性質がある、と考えられます。ここに至って、母が娘を送り出す抒情との解釈はあり得ないと思っています。一般的にそれが皆無だと申し上げているのではなく、ここは私の完全な決めつけなのですが、『そういう曲調ではないでしょう』と思っています。しかし、そもそも抒情の色あいの違いを音楽的に描き分けられるものとしても、概念的な共通項があるとは思えないので、わたしの決めつけに説得力があるとも思えないのが、偽らざるところです。
抒情を構成するのは、広い意味での「愛」ではなく、もう少し限定的な領域の「愛」なのではないか、というのがわたしの意見です。メロディやリズムなどの音楽的構成要素による表現と、抽象度の高い概念との結びつけについて、万人が了解し得る普遍性があるかはわかりません。
もちろん、ドイツロマン派の詩人ヘルダーリンのように抽象的な哲学的な「愛」の世界もあるかもしれませんが、ここは楽曲に付される歌詞であり、ポピュラーなものではあるでしょう。
ここで、歌詞を振り返ってみましょう。
この歌詞は、嫁ぐことになった娘を見送っていることは一見、歴然としているでしょう。「嫁ぐ娘に捧げる歌」ということになりましょう。
ところが、
この歌詞が出てくると、娘が親に語りかけているものなのか、と戸惑ってしまいます。そうなると「嫁ぐ娘に捧げる歌」ではなく、「嫁ぐ娘が、父に捧げる歌」になります。
ここは娘の思いのパートとして、曲調を変えるか、歌い手をチェンジしなければ、娘の視点にはなりません。そういう構成にしていない以上、父なり母なりに「娘が捧げる歌」にならないことは、確定的と言えるような気がします。
このように親が自分で自分のことを表現するのは、奇異だからです。
違和感の第一は、この点にあると思います。一つの歌詞中で視点が変わることはあることでしょうが、父が娘に対する情感と、娘が父に対する気持ちを、同じトーンで歌い上げるこの部分です。誰が誰に歌っているの?と感じてしまいます。
では、そもそも、この歌詞には誰が登場するのか見てみましょう。「あなた」「あのひと」「年老いた人」の三名であり、「あなた」とは娘のことで、「あのひと」とは娘が嫁ぐ相手のことで、「年老いた人」とは娘の父、歌詞から素直に受け止めればこれ以外にはないでしょう。
ここで、歌詞内容と曲調との関係ではなく、と書きかけてみたものの、どうにも不分明極まりないのですが、歌詞の意味というジャンルと、メロディラインというジャンルの関係性について解釈を加えることは、わたしには手にあまります。メロディやハーモニーなどの音楽的構成要素という感覚的なものに意味を与えて言語化して表現することは、雲を手でつかむ類いのことでどうにもなりません。
そこで、こういうアプローチはどうでしょう。比較論にトライしてみます。
角松敏生氏の作詞作曲による「DADDY」という曲がありますが、これを参照してみようというわけです。この曲は、娘が父を思い、また父が娘をうたう内容となっています。
娘のパートをMay'sが歌い、父のパートを角松敏生がうたうデュエットになっていて、「WAKE UP」であったような「この曲は誰が誰に歌っているの?」という混乱や曖昧さはありません。
多用される二人がハモるところも美しく、曲調も情感たっぷりに聞かせるものとなっており、なかなかの仕上がりという感じがします。My Favorite Songsの一つに他なりません。
歌詞も曲調も明確に転換があり、歌っている主体が誰なのか、歌詞の意味においても、曲調においても、まったくスンナリと入ってきます。内容と曲調のミスマッチ感のようなものは、生じようがありません。
また、やや「バタ臭い」ニュアンスも感じられます。日本人の親子関係を逸脱した感覚が感じられるからです。
では「DADDY」と比較した時に、「WAKE UP」に制作上何か問題があるのでしょうか?
娘が父を思っている部分を女性歌手が歌えば良かったのでしょうか。そこまでしなくても曲調を変えるべきだったのでしょうか。
それとも、全体の曲調を家族愛にふさわしいものにすべきだったのでしょうか。
それは「否」と申し上げましょう。
そういう加工を加えた途端に「WAKE UP」 の良さは死んでしまうことでしょう。
また、「WAKE UP」の歌詞には、もう一つわからない点があります。
この部分のフレーズについてですが、また誰が誰に歌っている歌詞なの?という点です。
「Yahoo!知恵袋」では、この楽曲全体について、娘のお父さんが娘に対してや、娘のお母さんが娘に対してのものだという回答になっています。
しかし、冒頭から始まる「Wake up Wake up」 が、誰が誰に歌っているかなどには触れられていません。わたしは、実はここに鍵があると思っています。
歌詞中に登場する人物は三人でした。
「あなた」=娘
「あのひと」=娘の結婚相手
「年老いた人」=娘の父(あるいは母)
嫁ぐ娘に対して父や母が「Wake up」と言うのは、わたしにはかなり違和感があります。
また、嫁ぐ娘が親に「Wake up」というのも同様に感じられます。娘が自分自身にそう言い聞かせている、というのも無理があるようにわれます。
では娘の結婚相手からの視線である、という見方は下記ニ点で違うでしょう。歌詞中に「あのひとの写真」と出てきますが、自分でそのような表現はとらないでしょう。また、それ以上に結婚が決まっている男がこんな哀切なメロディで唄うことはないと思います。
すでに薄々感じている方はおられると思いますが、この曲には、娘の、父でもなく、フィアンセでもない、第三の男が存在しています。それは歌い手である財津和夫氏自身に重なる、この歌詞の虚構空間内の、歌っている主体「私」のことです。もちろん、歌詞中にそれは表現されないのですが、言ってみればこの歌詞を小説とすれば、書き手、筆者にあたる男その「私」です。
歌詞中に表れる三人を見ている存在、それらを歌いあげている存在、それが「私」です。小説の書き手自身です。「私」の表記を使う使わないに関わらず、いわゆる筆者自身です。小説では、一人称で書かれる場合日本語では主語としての「私」を記載しなくても成り立つとされています。
このように措定してみる時、歌詞内容はすべて辻褄が合います。わたしの推測を交え解説してみます。くれぐれも、これはテクスト論ですから、ここはご理解頂きたいところです。
書かれざる「私」と娘の関係は、おそらく幼なじみなのでしょう。娘は結婚が決まって実家に報告に来たのでしょうが、幼なじみで自分に好意を寄せている同じ故郷の「私」に別れを告げに来たのです。
「ごめんね、私、結婚決めちゃったの」などと語ったに違いありません。いや、言わなかったかもしれませんが、要は「私」が察知したのでしょう。この曲の哀切さの本質はここから生じている、と思います。この楽曲を通じて表現されている音楽世界は、要は失恋バラードなのではないでしょうか。
親が娘を手放す切なさ?違うでしょう。このメロディラインに表現されている哀しさは、まぎれもなく、ロストラブのもの、とわたしは信じて疑いません。だからこそ、「Wake up Wake up」と必死に「私」は自分に言い聞かせているのです。「Wake up Wake up」と言い聞かせながら「今 愛がつきぬけ」てしまうので、そこに切なさがうまれてきます。
この視点から、歌詞をもう一度見返してみてください。
(上述引用ご参照)
どうでしょうか。
こういう視点でこの曲を捉える時、曲調と歌詞内容のベストマッチングとして感じられることと、歌詞中のやや曖昧なフレーズも説明がつきます。
まず歌詞のテーストがすんなり入ってくるように感じられます。父親がそう言う?という疑問が解消すると思うのは、ひとえにわたしの独りよがりでしょうか。
これは、あなたは、もう、この地に気持ちを引きずられることなく、「あのひと」へ心を100パーセント持っていっていいんだよ、ということです。
「年老いた人」とは、お父さんにしては年寄過ぎませんか。おじいちゃんが孫娘を見送っているという解釈も成り立ちます。
正にこれこそ、「私」の思いに他なりません。だからこそ「Wake up」と自分に言い聞かせなければならないのです。
このように解釈してみる時、歌詞は一貫していて、私目線から、彼女やその家族たちをながめているわけであり、その思いに切ない「愛」がいやましてしまう故に、このようなメロディが形成されるのは、蓋然性のあるクリエイティブと感じられます。
繰り返しになりますが、
は、「私」が自分自身に一生懸命に言い聞かせているのです。
特に歌詞中で「あなた」と言っている人は誰か、という疑問に対し、「私」という解釈が最もピッタリくると思われます。
ここに至って残る疑問は「あの人」が二人存在していることです。
まず、娘の結婚相手のことです。歌詞中に表現される「あのひとの写真」「あなたが選んだあの人」のことです。
もう一人は、「私」が想う相手すなわち「娘」のことです。
の「あの人」とは、「私」が「娘」に対して使っている表現ではないでしょうか。
「洗いざらしのズック」については、わたしの感覚に間違いがなければ、「きなり」に対する美意識が出てきたのはこの時代だったと記憶します。この歌詞の清潔感をシンボライズするフレーズだと思っています。
さすがに「動き出した汽車」は古めかしさを隠せませんが、当時、この曲に圧倒されたわたしらは、メロディの切なさと、新しい美意識に、目前に迫った1980年代という新時代と自らの青春を夢みていました。
カネボウ化粧品がレディ80(エイティ)シリーズを発売し始めるのは、もうすぐに迫っていました。日本の経済が躍進を続けていました。
この曲は、セイコーのCMソングとして流布された印象が強かったかもしれません。今40歳以前の人は、同時代的には知るはずもないことですが。
この楽曲のロストラブの情感に加えて、故郷という空間的設定と「私」の愛が過去のものになったという時間的な喪失感が、歌詞と曲調でよく表現されているのではないでしょうか。ここに「バタ臭さ」はなく、日本的な心象風景が展開されると同時に、財津氏の爽やかな歌声が、演歌の古風さから抜け出た、現代的な世界観を描出しているように思います。
このように歌詞の意味を捉え直し、抒情の意味と完全に一致した上で、あらためてこの曲を聞き直す時、わたしは無上の至福に浸ることができます。
あの当時の若過ぎてジタバタあがいていた時代の自分を、財津和夫氏のクリエイティブによって、これこそ癒されます。当時は極めて新鮮な曲調に無心に浸っていたのですが、今は、一つはもう一度四十年後に当時の思いに浸かるとともに、もう一つは当時の自分を今の自分が見ているという、二重構造で愉しむことになるわけです。
「おっさんが昭和の歌をなつかしがってるよ」と軽侮する青臭い声が聞こえるような気がしますが、まず四十年の歳月に腐蝕しない曲はそうザラにはないでしょう。また、多重性のある愉楽や、素人ながら楽曲に対して突っ込んだ分析は、「お尻の青い」輩には少々きびしいかもしれません。こういうことを言うこと自体がおっさんなのですが・・・。
わたしなりに勝手に言わせて頂けば、「 WAKE UP」と目覚まし時計が鳴っているというような、そんななま易しい事態ではないと思えます。それは、突然、踏切が目の前に現れて、警報器の音がけたたましく鳴り響き、無情に遮断機が下りてきた状態、そしてその遮断機は永遠に上がることはないのです。そんな感じがします。それが、「私」における心象風景ではないか、わたしにはそう思えて仕方がありません。
もし、以上のようなわたしの解釈が多少とも説得性があるものとすれば、その上で、最後に、この名曲の解釈について、臆面もなく申し上げましょう。
Wake up Wake up!
Wake up Wake up!
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(初出2020.2.15)