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国家を解体する大前ビジョン

〈SungerBook-カラーグラス6〉

─ 「お花畑」が戦争を招く③


大前研一氏については、その圧倒的な頭脳と智力で度肝を抜かれたものです。1980年代に私は知り、次から次へと出版を重ねていました。特に「企業参謀」に触れて、自分の頭が洗われるような体験をしました。この表現の字義通りに言えば「洗脳」ということになるのでしょうが、そうではなく当時自分が「革命が起きた」と何かに書き付けたくらいです。「戦略的思考」に触れて思考力が覚醒したといった体験をしました。通勤電車の中で読んでいて、まるで雷に打たれたかのような感覚は今でも覚えています。わかりやすく言うと、頭のいい人の論理に接して自分の頭もステップアップするような感覚を味わったのです。その後彼の著作をフォローするようになりました。しかし、冷静に振り返ってみて、これも一種の洗脳の範疇に入るものなのかもしれない、という気がしないでもありません。自分の中にストラテジックマインドさえ持てれば、どんな問題にも立ち向かっていけるような気になりました。

「悪魔のサイクル」は大前氏の処女作らしい

氏はマッキンゼーの前に日立で原子力開発に関わっていたようです。何せマサチューセッツ工科大学で博士号を取得、IQはどれだけのものかと思わせずにはおきません。記憶が違わなければ確か「悪魔のサイクル」にあったと思うのですが、原発の安全対策のしくみのことです。三つの異なる原理に基づくシステムにより、大事故は制御される、といった趣旨のことが記載されていました。この時から私は原発は大丈夫なんだ、と思うようになりました。何しろ大前研一が言うのだから間違いない、そう思ったものです。

また、「道州制」等新機軸のプランが打ち出されてきて、そのような構想でこの世を見ると現状の不具合が見え、氏の考えが実現できたらきっとましになるだろうと期待させるものがありました。インテリ層でこの国を変えるという具体的なビジョンを語る人を、今まで見たことがありませんでした。そのプランとそれに賭ける迫力において。政治家の発言等にそのような具体性や情熱を感じたことはありません。
1995年東京都知事選に立つに及んで、内心喝采したものです。しかし、都知事選はもとより、その年の参議院選挙でも「平成維新の会」は惨敗でした。「大前研一 敗戦記」も出るや否やすぐ読んだものです。氏の凄さを世が理解していない、と思っていました。

懐疑の芽生え

その後、なかなか「道州制」が受入れられるようすは見えてきませんでした。氏がマッキンゼー日本支社長を辞め自分で起業して「一新塾」や「ビジネス・ブレークスルー」を始めても、私はそちらにのめり込んでいくことはありませんでした。何となく距離をとったという感じです。
2011年3月に東北大震災が発生、福島第一原発事故が起きた時、自分の中で「大前研一は終わった」と確定しました。といって、氏が福島原発の設計に関わったわけでも、原発は絶対安全と語ったわけでもありません。氏が福島の事故に関して何ら責任があるわけではないことは明白です。この事故について素人が断片的に認識しているのは、津波を想定した敷地の高さを確保していないことや、注水手段の不備などです。特に冷却機能については、武田邦彦氏の解説によれば東電に問題があると指摘が為されました。

私の大前氏への落胆というものは、自分が雲の上の方と崇め奉った人を一方的に全面的に信じこみ、何かあるとその人のすべてを否定するような、その類いのことです。氏の名誉のために補足するのですが、補足しても消えないものが残るのも事実です。
2022年の今年になって、大阪の咲洲メガソーラー発電所の問題が表沙汰になってきました。*(この件については他の別記事で触れています。最下段にリンクあり)要は大阪維新の会や、橋下徹氏、竹中平蔵氏らが絡んでいることに加えて、橋下元大阪市長と大前氏との繋がりがあることもわかっています。そのような契機があって、私は大前氏のエクリチュールを見直してみようという気になっているのです。

解体と建設はよく似ている。しかし建設は解体なくしてあり得ない。

「革命」は「解体」を伴う

書籍のタイトルでよく「〇〇〇が日本を滅ぼす」との表現が使われます。少し誇張したものになっているのが実態です。私がこの記事のタイトルで用いている「国家を解体する」
とは、解体に繋がる懸念を言っているわけですが、「ゼロベースで考えよう」などと聞くと、解体ありきではないかという気もしてきます。氏の主要と思われる著書のタイトルを5点見てみましょう。(年号は出版年)

①「大前研一の新・国富論」1986年
②「地域国家論 新しい繁栄を求めて」1995年
③「『国家』の限界が見えてきた。 インターネット社会の『国家』と『個人』」1997年
④「21世紀維新 栄える国と人のかたち」1999年
⑤「クオリティ国家という戦略 これが日本の生きる道」2013年
(①②④⑤は大前氏の単著で、③のみ大前氏含む12人の著者による論文集)

これらを見ただけで、この国を変えようとの意志を感じるのではないでしょうか。新しい建設的な提案に溢れています。斬新で熱があって魅力的とさえ思えます。しかし、ここはその中身に籠められたものを見極めなければなりません。
「新・国富論」では、民主主義や、旧来の国家像などに対する疑問が叙述されます。時代が変わってしまったので、従来の思考を改め新しい思想でいこう、と提案しています。
「地域国家論」では、国家の新しいコンセプトが提示されます。そもそもこれは氏が英語で書いたものを、別の方が和訳して出版。英文のサブタイトルはこうなっています。「THA END OF THA NATION STATE」で、「国民国家の終わり」とでもなりましょうか。「新・国富論」から10年を経て「『国家』の限界が見えてきた」と語り、その2年後には「21世紀維新」を放ち、その14年後に「クオリティ国家という戦略」が上梓されるという具合です。これらのタイトルで語られているのは、これまでの国家のあり方や、国家のやり方ではダメだということであり、新しい国家像をできるだけ概念的に提示しようとしているようで、特に「地域国家」や「クオリティ国家」には如実にそれが表れています。グローバル時代のボーダーレス・ワールドにあって、今の国家を解体して新たな国家を建設しようとのポテンシャルを感じます。

捨象された国家観

「新・国富論」で大前氏は「すべての人々が豊かな生活のできるような国をつくることを『国富』の定義とした」(p 315)としています。このことに誰も異論を唱える人はいないでしょう。特に、氏は戦略的思考ブームをビジネス界にもたらした、と私は感じています。「塾」を通じて「著書」を通じて、サラリーマンは経営戦略論に踊ったのではないか、と思っています。本来であれば「戦術」と「戦略」を使い分けるべき場面でも、「戦略」と語られ、戦略バブルが起きていたような時代があったように思われます。この戦略論を経営に持ち込んだ時点で、経済優先、成長主義がセットされます。効果効率、合理性、功利性の追求が始まります。経営とはそういうものですから驚くにはあたらないでしょう。

経営戦略を国家経営に適用させた場合も同じことが生じます。氏が「新・国富論」で展開しているのも戦略的思考による改革といっていいでしょう。「革命」の表現を避けているかに見えますが、「維新」が多用され気分は「革命」といったところでしょうか。しかし、そこには「設計主義」があるような気がするのと、私には、何かが忘れられているように感じるのです。それは「国家観」ではないか、と措定してみます。そもそも私らは国家意識や国柄といったことに学校で一切触れることがなかったのではないでしょうか。それは、戦後葬られてきた類いのことだったのでしょうか。ここは日本なのにまるで「アメリカンドリーム」や、経済至上主義に罹患したかのように、日常的に老若男女に「戦略」は浸透しているかのようです。

あえて言えば「戦略ブーム」が成長主義を助長し、経営理念を書かせたが、国家理念や国家観を捨象した疑いを持っています。「戦略」とはそもそも軍事用語であり、クラウゼヴィッツを持ち出すまでもなく国家政治の延長上のことです。すなわち、そこには何らかの国家観があったと考えられるのです。ところが、軍事戦略を企業戦略、経営戦略に援用した時点で「国家」は遺棄されたのでは、との見方です。

企業理念の背後に国家理念があって然るべし

本来であれば、国家戦略にはもちろんのこと企業戦略にも、「国家観」を基礎とした見識があって然るべきではないかと思うのです。今の国際状勢下で、原料と格安のコストを求めてウイグル綿を調達したり、工場と店舗をC国に現地化したり、これは日本企業の問題として跳ね返ってくることになるわけです。世界一のアパレル企業になれればそれでいいのか、という問題です。

大前氏に国家観はないとはいいませんが、その方向と、改革志向の、構想の有り様について、問うべき視点があるように思うのです。
私は、国家像について触れる時に、①改革の方向だけではなく、②護るべき事柄、③混乱の回避ついても、同時に語られなければならないと考えています。全体観、大局観をさておいて、いじるところだけを問題にして議論の対象としても、重要な要素が軽んじられたり、不用意に影響が及ぶ恐れがあるのではないか、と懸念するものです。この国に「革命」は不要だと考えますが、今、明治のような「維新」の起きるポテンシャルはないと見ます。むしろ、戦争の方が杞憂されます。

「改革」にひそむ「お花畑」

①大前氏は専ら成長を志向しています。グローバル化の波に乗って、戦略的思考によりさまざなアイデアを駆使しているように見えます。しかし、そこが、それでいいのか、という疑問です。
2009年、京都大学教授の佐伯啓思氏は、「大転換 脱成長社会」、2015年に「さらば、資本主義」を著しています。氏の言わんとすることを取りまとめれば、脱成長であり、欲望の最大化の見直しであり、資本主義・市場主義・グローバリズムとの訣別と言えましょう。この趨勢は概念的に提示しにくい性質を含んでいるかもしれませんが、経済的富裕一辺倒ではなく、豊かさの内容を考える時ではないでしょうか。拡張主義の方便として「経済や情報、文化の相互依存が安全保障を向上する」(「新・国富論」p317)とは、安易過ぎます。お互いが民主国家であればの条件が飛んでいないでしょうか。

②護るべきものとして、皇統、歴史、伝統、文化、日本語、日本民族、国土などを挙げておきましょう。国家レベルの運営に関わる改革をプランする時に、概ねこれらは俎上に載ってきません。つまり、そのことによって改革に伴って不用意に悪しき影響を及ぼさないように、護るべき事柄を明確に意識しようということです。例えば大前氏のプランに、これらのことが触れられていませんが、新たな国家観を提示する場合には本来必要だろう、ということです。そこが「隙」であり「お花畑」と言いたいわけです。そこが蹂躙されて経済成長を果たしたところで、とても豊かな国とは言えないでしょう。具体的に、ウィキペディアによれば大前氏は移民政策や、選択的夫婦別姓支持を主張しているようですが、これらを別立てにしておいて国富や「地域国家」を論じても、国家の全体観、大局観がわかりません。

わかり易い「お花畑」があれば、秘められた「お花畑」もある

③もうひとつの視点は、上記の事柄が明記されないこととも関係しますが、改革の有り様がドラスティックに進められる場合、混乱や、傷や、痛みが伴うために分断を招き、それがC国に付け入る余地を与えるということです。これも「お花畑」です。
すでに、大阪の咲洲メガソーラー発電所の問題は、C国の国家政策である一帯一路の具現化事例として、入り込んでいます。当初大前氏は維新の会に関して、橋下徹氏へレクチャーを行なっているようですし、ウィキペディアによると、C国遼寧省経済顧問(2002年就任)、重慶市経済顧問(2010年就任)、C国中央電子台顧問(2011年就任)など、大前氏自身パイプを持っているようです。
大阪市がC国の片棒を担いで一帯一路に協力するとは、売国行為です。地方自治に関わる者が「国家観」のないことは、大阪に限らず本当にひどいものがあります。松井市長や吉村知事は大阪の判断事項ではない口振りです。これを「お花畑」と言わずして何と言うべきでしょうか。

まもなくC国のトップが3期目に入りそうな予想があるなか、台湾への侵攻懸念が高まっているように感じます。これに関してわが国は
ガタガタつまり何も準備が為されず、とんでもない「お花畑」状態に思われます。自らの意志を持たず、首相の看板だけの岸田さん。C国への属国化へ邁進するかのような沖縄県知事、テレビで「国家観」もなく世論を誘導する役まわりを与えられた橋下さん。すでに安倍晋三は亡き人となり、この国の先行きに気が滅入ってきます。大前さん、どうか国民に対し「国家観」を撹乱することなく、あるべき日本国のコンセンサスをとる方向でのエクリチュールをお願いしたいものです。★

(「お花畑が戦争を招く④」次回投稿予定)

 参考文献
佐伯啓思著
・「大転換 脱成長社会へ」2009年 NTT出版
・「さらば、資本主義」2015年 新潮新書

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