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右の畑も左の畑も「お花畑」は、良い畑 ②

〈SungerBook-カラーグラス999〉「お花畑」が戦争を招く⑨

2023年1月上旬現在、社会学者の宮台真司氏を襲った犯人について、なんら手がかりが得られていないようです。警察はどうしているのでしょう?と思わずにいられませんが、おそらくは捜査中のことについて、曖昧な発表などできるものではないのでしょう。

誰も書かなかった「お花畑」

上記の文面をそのまま、安倍晋三元首相について当てはめてみることができます。と書くと、とっくに容疑者が捕まっているじゃないか!という声が聞こえてきます。
しかし、この暗殺事件について、謎は深まるばかりで、私は合点のいく真相説明に接した覚えがありません。警察庁長官を一人更迭して幕引きをしているようにしか見えません。ネット時代のこんにち、熱心に検索しなくてもさまざまな動画が出てき、死因となった銃弾と容疑者の発砲との関係が疑問視されています。また、一個銃弾が見当たらない等も謎です。私が知る限りこの不可思議なことについて、二人の方が追跡しているようです。

まして、容疑者の存在を、とにもかくにも前提として、それに絡めて統一教会と自民党の関係ネタに世論を形成するマスコミの歪みまくった報道には、呆れています。世間一般の国民は、それを何ら疑いもなく染み込ませ、マスコミの音頭に乗せられて「踊る大捜査線」の舞いを踊っているようにしか見えません。

「レインボーブリッジの封鎖」忘れてない!?

奈良県警の対応、特にSPの行動をなじる識者がいれば、もう一方でひろゆき氏は拳銃の知識を開陳するとともに、独自見解からSP批判の浅薄を非難していました。
おそらく警察内は大変なことになっているのだと想像されます。安倍晋三暗殺について、米国の警備を参照したりもして、警護の見直しは公表しても詳細な真相発表ができず、また、宮台氏襲撃事件についても、何ら手がかりを出せず、警察本部では地団駄を踏む姿が見えるかのようです。路上設置のカメラでの映像が公開されてもなかなか情報がない、ということは、犯人はこの時のための服装スタイルを準備でもしたのでしょうか。ということは、計画的となりますが、ここまでにしておきましょう。

こうした事件の捜査について世界の警察はどんな動きをするのだろうと思いますが、日本の警察は「お花畑」に入りこんでいるように見えます。警察が「お花畑」とは聞いたことがありません。昔の3億円強奪事件の時、その推理に松本清張が借り出されたという記事を読んだことがありますが、わが国のベストセラー推理小説作家たちが協力に及んでいるのでしょうか。
すでに暗殺については「迷宮入り」の臭いがプンプンしていて、これでは警察が「藪の中」ならぬ「お花畑」の中、と言ってしまうのはたやすいのですが、犯罪は予防や抑止の問題に行き着くと思ってみれば、その態勢の対象舞台として、そもそもの社会の問題、われわれ国民一般の問題と翻ってくるような気がします。民主主義が成り立つためには、責任と判断のある個人、そこに還ってくるように思われます。

「お花畑」の壁

事件の真相がうやむやのまま、容疑者は捕捉されていて、「左」の思想的立場の人々からは、悪しき社会の犠牲者としての彼に、同情が寄せられているかのようです。そのような視座から、映画「REVOLUTION+1」が制作されたかのように見えます。
ここで、「左」の思想的立場というのは、よき社会を作るためには現行の政治体制、政治家、マスコミ等を批判的に捉える考え方をとる立場、とこの記事では定義しておきます。

イスラム思想研究家の飯山陽氏が自らの動画番組で、宮台真司氏を批判していました。安倍晋三暗殺容疑者をモデルにした映画のトークイベントに参加した際の宮台氏のコメントについてです。
この映画については、足立正生監督が制作し、安倍晋三元首相の国葬儀の日(2022年9月27日)に合わせて緊急特別版を26日から公開したようです。その日、それを受けてトークイベントが催されたというわけです。それが、YouTubeで公開されています。

足立監督の作品を絶賛する宮台教授

飯山氏が批判しているそのトークイベントでの宮台氏の発言を、いくつか拾ってみます。

(宮台氏のコメント)
「日本には共同体がない、すっからかん、家族がないし…自立救済するには個人しかない」
「日本人国どこを切っても安倍の顔、からっぽな人間たちが無様に蠢いている」
「安倍の瓶のフタがとれたから起きたことだ。機能としては世直しになっている」
「容疑者の美化ではない。放置したマスコミや政治家が悪い」
······これらに対し、飯山氏は、
「世直しとして機能している、と殺人を評価している」
「世の中を変えるために肯定している」
「いい殺人、やるべき殺人がある、と吹聴している、啓蒙している、これは危険なことだ」

しかも、足立監督は元日本赤軍メンバーと聞けば、刑期を終えて後の映画監督としての活動を知っても、正直ちょっと緊張させられるものがあります。私もこのトークイベントの動画を確認しましたが、飯山氏の言う通り、宮台氏はこの映画を「本当にすばらしかった」と絶賛していました。それだけではなく、過去の足立監督の裁判に触れ、判事、検事、弁護士と比べ、足立正生こそが「法廷の星のような存在」とまで言い切っています。

そもそも、私のこの記事についてのプランでは、飯山氏の宮台氏に対する批判が皮相的で、「お花畑」の壁にぶち当たっているのではないか、と構成を企画していました。特に
「REVOLUTION+1」は映画でありアートです。容疑者は捕えられているにせよ、あるいは真相がわからずにせよ、制作者のモチベーションは点火され、アートは懐胎したのであり、所詮そのアウトプット表現についての議論なわけです。すなわち、表現についての議論という措定を看過して、容疑者を追い込んだ政治が悪いとして殺人を擁護する宮台批判とは噴飯物という見方が成り立つのでは、と考えていたわけです。

しかしながら、再度トークイベントを確認しましたが、宮台氏は必ずしも映画論として語ってはいないように見えます。映画はフィクションでありアートであることは追いやられ、意識的に現実批判のツールとして振り回しているようです。トーク中、映画の中での容疑者名と現実の容疑者名は、当然のように混交されます。宮台氏はアートとしての表現論の建てつけの中でこそ、学識や歴史を交え「アメリカでの大量殺人の摂理」や「権力が機能しない以上自力救済しかない」など容疑者擁護と受け取られ得るコメントをしているものと思っていましたが、どうもそこが微妙です。現実社会に対する憤りをたぎらせての発言は、今にも発言を超えて具体的なアクションへ踏み出しかねない勢いに満ちています。そう私が感じてしまう以上、社会学者宮台真司には緊張を強いられます。

つまり、宮台氏を盾としての飯山氏批評という構図を、私は破棄せざるを得ません。当初プランのまま宮台氏(左翼と措定)を批判する保守系の飯山氏(右翼と措定)を、宮台言論を上滑りする「お花畑」的批判という見立ては、そういう批判が私自身にブーメランとして返ってくることになります。それでは私が「お花畑」ということになります。宮台氏の思考に着いていきかねるものがあるのです。ここに至って私は「お花畑」の壁に突き当たっています。

「お花畑」の基礎知識

そもそも論になりますが、お花畑とは、たくさんのお花が咲き揃った畑が原義です。例えば、北海道の大地に一面に広がるラベンダー畑や、信州の丘を埋め尽くすコスモス畑などと言えばイメージしやすいでしょう。文字通り百花繚乱です。これをAとするなら、この美しさから派生した直喩として、お花畑のように美しい「理想」に例えるとしてこれをBとします。さらに、このBから、何の疑いもない「脳天気状態」のメタファー導きだせばCとなります。Aから導かれたBをフィルムの陽画とすれば、Bから発展させたCを陰画ということもできましょう。BからCへの変化を大袈裟に言えばディコンストラクション(脱構築)ともいい得るかもしれません。批評的視点を付加したとも言えるでしょう。

宮台ワールドの先に何があるのか?

言葉遊びはこのぐらいにして、前回記事で触れたことですが、宮台ワールドで展開されるボキャブラリーの「カス」「クズ」「トンマ」「ヘタレ」「ケツナメ」「クソ」等は、今、底が抜けてしまったこの国に、安穏と散文的に「お花畑」生活を続ける国民にカンフル剤を投与するドクター宮台の荒療治ではないか、という気がします。一部の言葉は、一般にも特にネット界隈では感染するかのごとく浸透しているように思われます。この宮台氏の語用をパラフレーズすると佐伯啓思教授著「現代社会論」の叙述が当てはまるのではないか、と考えています。引用は「第二章 遊戯的知識論」中の小見出し「ポスト・モダンの戦略」のところの部分です。以下、引用

「·····ポスト・モダンは本来、建築、デザイン方面の言葉である。装飾と無駄を極力排し、合理性と機能性だけをひたすら追求した味気ない近代主義(モダニズム)建築に対する批判から、それは出発したことを確認しておこう。禁欲的に機能を追求する近代主義に対し、ポスト・モダンが対置したものは、象徴的表現、自由な発想、遊びや思いつき、大衆とのコミュニケーションといった要素である。それは近代主義に対する全面抗争というより、むしろ、それに対する反語(イロニー)であった。」

ウィキペディアで「対米ケツナメを右だと考える馬鹿右翼と、護憲平和を左だと考える馬鹿左翼」という宮台氏の言説が紹介されていますが、イベント中のトークでも宮台氏は、
「西欧化推進は強国になることではあっても、日本でなくなることではないか」とのことから、「戦略的対米追従」すなわち、「軍事は米国に依拠して軽武装とし、経済に邁進した筈が、いつの間にかすべて米国追従としてしまった!」と憤怒を語ります。これが「ケツナメ右翼」となるわけです。

宮台言語を下品などのレベルで忌避する自由はあるけれども、受けとめる当方の構えが問われるところであり、今時流行りもしないポスト・モダンを援用して解釈しようとするのは、氏の学識が知的営為を引寄せるところがあるのです。そもそも、学問的に人間は変わっていないのであり、宮台氏はトマス・ホッブズやキリストをトーク中に引用しているし、佐伯教授も言説にソクラテスを現代の人のごとく参照している、そういう時間的、歴史的パースぺクティブにこそ学ぶべきと考えます。

「お花畑」が日本を滅ぼす

さて、このトークイベントでは、監督や宮台氏などのいわゆるパネラー以外に一般客も参加していて、司会者はその方達のコメントも拾っていましたが、おおむね思想的に同じような傾向の人々の集会になったと、感じさせるものがありました。ただし、一人だけ「テレビや新聞の報道をなぞっただけで、勉強にならなかった」と率直に語る方がいて、この映画を絶賛する宮台氏へのカウンターが一発めり込んだように感じました。

この映画の短縮版ではなく本編の上映が始まっていると思いますが、私自身は上映されるエリア外に在住しているため、自分で直接確かめられず映画自体については、隔靴掻痒で批評すべきではないと思います。したがって、映画自体ではなく、それに関わるコメント、言論に注視しているわけです。

小説中、三島が焼いたものは何だったのか?

この映画制作が意図されたのは、もともと社会に対する批判的心情をマグマ溜まりと化させているところに、格好の題材が炸裂して現れたので、とっとと映画に仕上げたという感じではないでしょうか。この意味で、反社会的題材を扱いながらも、芸術の領域まで昇華できているものか、観てみたいところです。この文脈で言えば、国宝の放火という事件を
己れの美学で換骨奪胎して「文学」に創造した「金閣寺」と比較されてしかるべきでしょう。一流のアートは「人を傷つけるものだ」とは、宮台氏の言説の一つですが、作品がそういう機能をもった後に、立ち現れる大きな創造世界に呑み込まれるといった感動(カタルシス)があるものでしょうか。

特に、宮台言論は独特の世界を構築していて、ある意味わかりやすい話し方ではなく、学術的な知識と論理で大きな構造を描いて見せるため、全部通して聞くと全体像がわかる、そんな話し方になっていると言えましょう。この動画を3回観るうち、私はどうやら彼の言わんとするところに辿り着いた気がしています。記事中、私は、宮台氏が、この映画を社会批判のツールとして使っていると書きましたが、終始、映画論、アート論に徹せずの感じでした。権力者たちを批判、いや罵倒しまくりという印象です。「安倍の瓶のフタがとれて、自民党と統一協会のズブズブが出てきた。音楽、映画、オリンピック、電力、大学、どこも上を忖度するばかりで、どこを切ってもアベの顔·····」しかし、このイベントの終盤に至って、「この映画にはカタルシスがある、娯楽になった」とコメントがありました。今の時代背景の文脈がこの映画を成立させているという、そこを宮台氏は強調しているのですが、私には、さんざん安倍批判をしておいて、取って付けたように、急に映画論に話を落とし込んで見せたようにも映りました。

今回、宮台氏に密着してみて一つわかったのは、どうも三島由紀夫が憑依しているのではないか、ということです。頻度は多くなくとも、トーク中三島を参照していることはすぐわかります。一つは「からっぽ」という表現ですが、これは1970年に三島が憤死する直前にエッセイで述べた日本を見据えたワードです。三島を知っている方ならすぐわかる部分です。飯山陽氏は「からっぽ」について、宮台氏を「何わけのわからないこと言ってんの?」という感じでしたが、たぶん三島の言説を知らないことをさらしてしまっているようです。
それはともかく、思想的に三島の水脈は宮台真司に通じている、と以前から感じるものがあります。言いたいことは、宮台真司の論理と迫力は、一体、赤軍派の残党を率いる思想的牽引者たろうとするのか、あくまで言論人としてのスタンスをとるのか、そこどうよ、に行き着きます。暴力革命に加担しようとするのか、どうか、そう問いたくなるものがあるのです。宮台真司が左翼であろうが、右翼であろうが、そこは本質でないでしょう。

対立軸としての「右」「左」の面からだけ捉えても、「お花畑」になる可能性があると思います。宮台氏を「右」「左」に当てはめることが肝心ではなく、そこで指摘されている日本社会を見据えなければならないし、現体制をやむを得ず是認しながらも、そこに埋没できるものではありません。

「お花畑」も山のにぎわい

「お花畑」の日本とは、他国から見て国際関係上、これほど組みしやすい国はないということになります。国際的に国家を牽引するリーダーを欠くことを、「世直しとして機能する」?今ほど、この国の安全保障が問題になっている時期に、「瓶のフタがとれて全部出てきたではないか」?自由で開かれたインド太平洋戦略からクアッドまで、ここまで安全保障の瓶のフタを閉めてきた、それをはずしてどうするのですか?対外的脅威の高まりによって、国内社会の連繋、再構成の可能性もあったかもしれない。「愛」によって共同体を再編成し、還るべき「ホームベース」づくりも進展させなければならないでしょう。この国を憂う視座から怒鳴り散らすのもいいけれど、この国を憂う視角からもっと先に行かなくては。日本中咲き乱れてしまったこの「お花畑」を乗り越える方向でこそ模索したい。私は、何らプランを語れるものではないけれども、イロニーとして「お花畑」を良きものと表現して、決してそこに安住できるものではありません。★

(「お花畑」が戦争を招く⑩ 次回投稿予定)

参考資料
・佐伯啓思著「現代社会論」講談社学術文庫
    1995年
・浅羽通明著「 右翼と左翼」幻冬舎新書
     2006年
右翼・左翼は、突き詰めて何かに収斂するものではない、という感じがします。あまりに多義的で多様で有り過ぎるのです。対立軸だけにとらわれてはならないと考えていますが、わかりやすさに資する面もあるように思います。








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