神話としての「永遠の0」
〈SungerBook-舌鼓9〉
─ 「英霊」という記号についての試論
「永遠の0」について語ろうとする時、漠然と、作家の意向とは無関係に「テクスト論」で縦横に論じようと描いていましたが、改めて考えてみると、作家の臍の緒と、これほど繋がっている作品もないと思い至り、それは放擲しました。
先日、この夏の陽ざかりのなか、戦死した叔父のことが気になっていて靖国神社を参拝しました。たまたま「永遠の0」を読み返していたこともあり、何の疑いもなく、私の中で「靖国」と「0」は直結するとともに、ある考えが立ち上がってきました。
今年、八月十五日の靖国での戦没者追悼国民集会で、百田尚樹氏はビデオメッセージを伝えています。その中で「自分の父は戦争から無事生還したが、亡くなった多くの人々があってこそ、今このわれわれがあり、日本がある」といったことを述べています。別の場面で、なぜ小説を書き始めたのか、と問われて答えた内容は、上記の叙述とぴったり重なるものであり、あとは、自分が歳を重ねる中で、何かできることはないか、と考えて小説制作と向き合ったと語ったことを付加すれば十分かと思います。
私が「永遠の0」を読んで思うことは、百田尚樹という小説家の、小説を書こうと意図したその思いがそのまま詰まった作品であり、作品の制作モチベーションと、作家をめざす動機が、再帰的に表れていると感じています。
俳優以上作家未満
今回テキストにした講談社文庫「永遠の0」では、読書家の児玉清氏が解説を書いていますが、解説が作品のストーリーをなぞってみせるという、陥りがちなことになっています。ストーリーは読んでわかることですから、それをリピートすることは解説者の仕事ではないように思えます。
本文の構成が難解なので流れを要約してみたという必要性はそもそも不要ですし、一読では気がつきにくい隠れた意味にスポットをあてるや、登場人物の設定や場面場面での会話の巧拙など、解説は解説としての固有の「論」があって然るべきだと思います。解説者が作家未満になっているのです。
純文学の領域では批評性をもって作家を相対化することが行なわれますが、どちらかというとエンターテインメント系に属すると思われるこの作の「解説」の場で批評は難しいことかもしれません。それならそれで、全く新しい側面から評価するなど、「一粒で二度おいしい」という意味で、さらに解説で楽しませてもらいたかったとは、ないものねだりと言われてもしようがないかもしれないことではありますが…。
私が以下に述べる「永遠の0」についてのある論は、すでにどこかで語られている可能性はあります。しかし、私自身はその類いの言説に接してはいません。
さてMythologyには、物語としての神話と、神話の研究の二つがあると説明されています(ウィキペディア)。この謂いに沿って言えば、新たな「物語としての神話」になるであろうと、「永遠の0」を捉えています。「すでにどこかで語られている可能性」とは、このことを指しています。
「永遠の0」を概観すれば、大東亜戦争での航空兵の行動のリアルな再現であり、かつ、真珠湾から始まり、ラバウルやガダルカナル等、各戦線の死闘の広がりも押さえています。しかし、これだけでは戦記物に過ぎないわけですが、孫が祖父のことを訊ね歩くという小説の結構は、極めて自然な展開ではある一方、私には、ここにすでに宮部久蔵が憑依しているように思えてなりません。「血」や「宿命」などと語彙を広げてみれば、少し伝わるものがあるかもしれません。もっと言えば、宮部久蔵は自分の妻や子が生き、自分に連なる後世の誰かに、自分の思いが伝わることを、私は確信していたと思えます。そういう思いで彼は米空母に突っ込んでいった、そう思うのです。
宮部は兵隊たちの代表
また、宮部久蔵は生きて還ることにこだわった兵隊として描かれます。その点は、作中、そのことを批判する人物も登場しますが、百田氏は人間の本音を強調したのだろうと思います。そのこだわりがあったからこそ、大石賢一郎に託す発想を生んだのであり、この設定はこの小説の重要な核心になっていると言えます。小説の構成に引き寄せて語らずとも、この生きて還りたいという思いの一方で、残る家族を、ひとびとを、そして日本を守るために、自分の死を受け入れるという思いは、兵隊さんたちそれぞれが、皆同様に内に秘めた心根だったのではないでしょうか。この意味で、宮部久蔵を兵隊さんたちの代表として描いていると考えられます。
宮部久蔵のような兵隊さんたちは今、英霊として靖国神社に祀られているわけですが私は「永遠の0」を読み返している時期に重なるように、記号論に関するある著作に触れています。唐突ですが、私はここから「永遠の0」と記号論を繋ごうと思い立っています。これが冒頭で述べた「ある考えが立ち上がってきた」とは、このことに他なりません。
言語学とも関わるようですが、そんな腑分けはどうでもよく、深い人間理解につながるような気がして、そんな思いに動かされています。ソシュールやバルトを通じて、日本人の魂を語ることができたらおもしろい、そんな思いでのことです。
宮部久蔵については、作中で臆病者だったり、天才的なパイロットだったり、多角的に批評されています。すでに私は、宮部久蔵は兵隊さんたちの代表、と指摘したわけですが、もう一つ彼を「英霊」というワードで解けないかと思っています。
靖国神社には英霊が祀られている、という言い方をします。実際には宮部久蔵は実在していませんが、彼のような戦闘機乗りは事実存在したわけであり、大東亜戦争で戦死したおよそ246万柱の、すなわち英霊たちの魂が眠っています。
石田教授を読んでみた
ここで参照するテキストは、石田英敬教授著「記号論講義 日常生活批判のためのレッスン」(ちくま学芸文庫)になります。
記号論で「永遠の0」を解いてみようと思ったきっかけは、下記の引用部分辺りから始まっています。記号の学のそもそもを確認しているくだりです。
(以下、同テキストからの引用)
「ところが二十世紀初頭の知の革命は、認識の視点自体が、認識の対象(=客体)と認識する意識(=主体)の双方を、徹底した関係性の場において構成していくのであって、この関係性の場を刻々と生みだしているものこそ言語や記号の次元なのだ、と考えることから始まったのです。」(p63・64)
例えば山を実体論的な認識で言えば、まず実体としての山があって、認識をその山についての意識の働きと捉え、その実体と意識をつなぐものとして言語や記号を考えるスタンスでしたが、それを実体論的な認識から関係論的な認識へ、転換を行なったことが要点になっているようです。
ここでまず「宮部久蔵」を記号として取り扱ってみます。小説中のことなので佐伯健太郎の立場で考えてみます。特攻隊員としての祖父(久蔵)は孫健太郎にとって実体論的な対象としてあるわけですが、記号論では、認識の対象(久蔵)と、認識する意識(健太郎)の双方を、徹底した関係性の場において構成していくのであって、この関係性の場を刻々と生みだしているものこそ言語や記号の次元、と考えるということになります。
これはどういうことかと言うと、認識の対象(久蔵)は、『いかなる対象も一瞬たりともそれ自体では与えられていない』(p66)と認識するものであり、記号の場とは関係性においてしか定義できないと考える、としています。
つまり、記号としての宮部久蔵とは、佐伯健太郎の意識との関係性で成立する、と私は理解します。仮にこの理解が正しいとすれば、この小説中における特攻隊員としての祖父と、孫健太郎との魂の交歓を、これほど的確に語るものはありません。記号論って、こんなにすごいものなのと思ってしまいます。
さらに著者は、
「二十世紀の知の革命は、視点自体が対象─および主体─をラディカルな関係性(=相対性)において構成していくのであって、その関係性の場を刻々と生みだしているものこそ記号の次元なのだと考えることから始まったのです。」(p68)
とリピートにより強調し、解説しています。
記号論から構造主義への展開は自然な流れなのでしょうが、文脈上以下引用します。
「L・イエルムスレウによって提唱され、R・バルトが発展させた『コノテーション(connotation)』の理論が、そうした複雑で重層的な記号体系を扱うさいに一つの手がかりを与えました。イエルムスレウによればコノテーションとは、記号化されていない体系を記号表現(イエルムスレウのいう『表現質料』)にもつ『デノテーション』に対して、すでに記号化された実質を記号表現(『表現形式』)とする二次的な記号体系のことです。」(p96)(図A)
二次的な意味作用
ということで、図Aは参照テキスト97ページからの引用ですが、それを踏まえて「永遠の0」を当てはめ図Bを作成してみました。
要は小説中のでのミヤベ キュウゾウをデノテーションとし、小説としての物語を通じて「さらに上位の神話的形象との関係におかれ、(中略)二次的な(つまり神話的な)意味作用が生みだされることになります。」(p96)
と語りたいと考えています。著者は、図Aの説明として
『神話』(MYTHE)は、一次的な記号(3.signe)をシニフィアン(Ⅰ.SIGNIFIANT)にもつ二次的な記号作用(Ⅰ.Ⅱ.Ⅲ.)の『コノテーション』である。(p97/図Aのキャプションより)と記しています。
私が「神話としての永遠の0」と言わずとも、「永遠の0」のような小説が神話とアナロジーされるのは、ありがちなことだと推察します。私が驚くと言うか非常に興味深く感じるのは、記号の論の体系の中で、正に「神話」が語られるというこのことです。R・バルトには「神話作用」の著書があるくらいです。私はいまだ驚きのさなかにあり、ここに起きている符合を客観視できていません。ひょっとしたら、「永遠の0」のような小説を紡ぎだすそのことが、言い伝えであり、伝説化であり、神話化である、そこに契機があるのかもしれません。しかし、記号論と符合すると思うその事情の精査は、おそらくバルトを読まなければ答えは出ないのでしょう。
私が図Bで設定した「ミヤベ キュウゾウ」をシニフィアンとし、「特攻隊員」をシニフィエとするこの置き方が、記号論的に正しいかはわかりません。しかし、「宮部久蔵」を記号実現と見るとき、二次的な意味作用すなわち、コノテーションを成立させているとともに神話的意味を構成しているのではないか、と思うのです。さらにこの関係は、ひとつの小説内のできごとを大きくはみ出して、全く無理なく一般化できる事柄だと思います。私が叔父を想い靖国を訪れる時に限らず、すべての国民に起きていることに違いありません。これを現象として見るとき構造主義の領域に足を踏み入れている可能性がありますが、それは私の手に余ります。
引用が多くなりますが記号の論との結びつけが趣旨ですからやむを得ません。
健太郎は日本人の魂のシンボル
「ここで重要なのは、文化という次元が、まさにこのような二次的な記号活動によって成り立っているということです。(現代ロシアの記号論グループ『モスクワ・タルトゥ学派』によれば、文化とは、『二次的な言語活動』であるとされます)。そして私たちの意味活動は、デノテーショナルなレヴェルだけでは決定されず、つねに二次的な意味作用とのかかわりにおかれている。その高次な意味作用はたえず変化を引き起こしていて、それが私たちの意味活動の文化的無意識をつくりだしていると考えられるのです。」(p98)
要は英霊を参拝したり、拝むことは、文化なのだ、そう私は理解します。もはや、一小説を逸脱して日本人一般の意識の事柄に敷衍されます。この意味では、佐伯健太郎は日本人の魂のシンボルと言うことも可能でしょう。
後世が先祖を想うベクトルだけではありません。英霊を「記号」と置いて見るとき、宮部久蔵にとっての英霊という視点もあります。「永遠の0」では宮部久蔵が米空母に特攻する際の心理描写はありませんが、記号としての「英霊」を想起していたはずです。「英霊になる」や「靖国で会おう」といった思いかたです。
この時、宮部久蔵にとっての「英霊」を記号論的に言えば、「実体論的な認識の図式の否定であり、関係性においてしか定義できない記号の場」(p66)と認識するわけですから、「英霊」という実体があるわけではなく、宮部の視点のみが「英霊」を構成するというわけです。
つまり、宮部の魂に宿る「英霊」とは宮部との関係性において構成され、また、健太郎においても「英霊」を彼の視点との関係性において構成しているということです。
この時、健太郎は英霊=宮部久蔵という図式で見ていますが、宮部は健太郎を知る由もないことです。
しかし、「英霊」という記号によって、宮部の魂に意味作用を為したものは、宮部においても「英霊」を、彼の視点との関係性において構成しているということです。
何を言おうとしているかと言うと、「英霊」という記号を通じて、結局両者(久蔵と健太郎)の魂が繋がっているのではないか、ということです。私が記号論で得た一つの到達点はここです。冒頭まもなく、私が「健太郎に久蔵が憑依しているのではないか」と記したのは、このことです。しかも、これは小説の中のことではあるものの、日本人の精神の中に脈々と息づいている文化なのです。この意味で「永遠の0」は神話と言えると、私は考えているわけです。
すなわち「永遠の0」には、命を賭けたということを超えた、特攻隊員の精神的な物語を通じて、日本人の精神文化が描かれている、と言えるでしょう。だから数百万部も読まれるし、今後も読み継がれることと思います。百田尚樹氏は、日本人の神話を創作したということです。
さらに「英霊」とは、後生の人間が先祖を想うベクトルだけではなく、実は死に赴く人間が、自分に連なる後世や、日本人や、日本国を想うという双方向性を含んだ言語であり、記号といえます。そして、これは日本文化を語る上で象徴的なことと言えましょう。
最後に、これもどこかで言われていることかや、作家本人が言っていることかも聞いたことはありませんが、タイトルを「永遠の0」としたのは、もはや明らかであり、すなわち日本人の永遠の原点ということに他なりません。★
(初出2020.9.15)
後記
石田教授の「記号論講義」を100%正確に適用できているかは、正直わかりません。理解や解釈が恣意的になっているのではないかという危惧は拭えるものではありません。
しかし、一方では記号論を用いずとも、特に「コノテーションの図式化」図以外は、論理化できるとも思っています。