韓流「商道」は面白いか?
〈SungerBook-舌鼓10〉
─ 批評の動機
韓流歴史ドラマ「商道」(サンド)については、4~5年前に一度観たことがあります。もう少し前だったかもしれませんが、メモを録ったはずのノートを紛失したのではっきりしません。ですから、今回二度目のことになりますが、また観始めているわけです。回によっては、こんなストーリーあったかと思うぐらいの時もあり、何かの都合で飛ばして観たか、記憶が飛んだか、逆に興味深々と新鮮に映ります。
韓国での放送が2001年のこととは、随分前のことになっています。私が最初、はまった韓流時代劇が「トンイ」(2007年)ですから、なんとなく「トンイ」が先だろうと思っていたのはこれは大いなる勘違いでした。「トンイ」にはそう思わせる強烈さや、完成度があり、「商道」が派生的に作られたものという気がしたのですが、それは単なる私の思い違いに過ぎなかったことになります。
批判と解説
さて批評というと、文芸批評や映画批評がよく知られていると思います。言葉の語義そのものは別にして、私は批評を「批判」と「解説」に分けて捉えています。批評の対象としては漠然とドラマや小説や論文などを想定しておきます。
「批判」は、見る側・読む側に違和感やそうかなぁと、何らかの否定的感情をもたらし、「おかしくね」や「違うでしょ」と思わせ、それが動機となり、指摘し、酷評したり、反論させるに至るといったことです。
一方「解説」は、対象が視聴者・読者サイドに何らかのおもしろさを感じさせる感情を呼び起こし「笑える」、「泣かせる」、「すごい」などと感動させ、それが動機となり、そのおもしろさを他の人に伝たい、教えたいと思わせてしまうことです。
否定的な感覚をもたらされた場合の「批判」の仕方もいろいろあり、全体について反論せずとも、この部分については「おかしい」と指摘したり、逐一が合理的にまとまっていても全体の方向性について「同意できない」といったことが起きたりします。
批評というものに立ち入って考えてみると、「批判」から「解説」までの幅があるとともに、「批判」を展開する以上詳細に論ずる必要から「解説」性を帯びたり、「解説」を行なう過程で「批判」性が混じったりすることがあります。通常、これらを取りまとめて批評と言うと思いますが、私はそこに発生する批判的要素と解説的要素を少し強調してみたいと考えているわけです。
そういう意味で、小川榮太郎著「作家の値うち」(*)は、対象作品に対し、批評に加えて点数採点もあり、とてもおもしろい試みだと見ています。批評文が評者の分析を通しての評価だったり批判だったりの、定性的指摘のもう一方で100点満点での定量的評価も添えるという企画で、読者にとって評者の評価実像が見えるという意味で、理解しやすさにつながっていると考えられます。文章ではかなり批判している割には採点がいいということもあったりします。
「作家の値打ち」は現存する作家の採点簿であって、ノーベル賞作家でも0点の作品があったり、名前が売れている割には作品の評価が低かったり、過去に新人として水際だって登場してもその後の創作がパッとしなかったり、文学界の現況地図が一覧できます。もちろん、自分の印象とは違って、意外に高評価の作家もあり、さまざまな発見があるという具合です。
この「作家の値打ち」にも、当然ながら「批判」があれば「解説」も出てきます。「批判」は、作品に対する評価軸が強調されるのに対して、「解説」は高評価が生み出す評者のおもしろがり方や、ほだされ方に、作品の魅力がクローズアップされることとなります。
「商道」を批判してみる
「商道」(サンド)は、18世紀にチェ・イノ
という作家が創作したとのことです。原作があったわけですね。主人公のイム・サンオクも実在した交易商人をモデルにしているとのことです。あのイ・ビョンフン監督が演出していることは、「トンイ」を観ている方にはすぐわかるでしょう。カメラワークや画面構成や音楽など、美意識が貫通しているからです。これは、安穏と同じ手法をリピートしているということに過ぎません。手法が同じということは、同工異曲ということです。
もし原作を読んでいれば、小説で表現されている世界と、テレビドラマ化された表現との比較で、より多面的な批評があり得るでしょう。特に、原作者の思想がどれほどドラマに反映しているのか、興味があるところです。ドラマではサンオクの生き方として、そこが単に装飾品、演出ネタとして感じられところがあり、そこは私の韓流に対する先入観や偏見なのかもしれません。原作にあたればそこが確認できるものでしょうか。
イム・サンオクは通訳官を志すのですが、曲折があって朝鮮一の商人をめざすようになります。その商人として、のしあがっていく様が物語の主軸になっています。当然に商売仇となる松商があり、サンオクの湾商は、敵方に何度も窮地に立たされます。ストーリーはこの攻防の展開です。明け透けに言って、話としては「攻防の繰り返し」でしかありません。視聴者としては、早くサンオク側に勝ってほしいと気持ちは急くのですが、なかなか勝ちには至りません。仮に勝ってもすぐ次なる危機が訪れます。これは当たり前のことです。主人公が勝ってしまったら、そこでストーリーが終わってしまうからです。韓流時代劇のひとつの定型であって、飽きもせずこの方法に執着しているというほどに使われます。ドラマツルギーというか、制作方法とでも言いましょうか。エンターテイメントに価値を置いていることからくる当然のことなのかもしれません。ちなみに「トンイ」の物語展開も全く同じ構造です。
ストーリーに関して、主軸に対して恋愛軸も施されています。男女や時代を問わず、万人の興味の対象であり、視聴者を獲得するには必須のセオリーと言えるかもしれません。
「商道」の物語の内容として、主人公が商いを成功させてのしあがっていくように、テレビドラマ「商道」もエンタメに徹し、大衆に迎合し、ビジネスを成功させるべく多くの視聴者をつかもうとするのは、当然のことなのでしょう。その角度から見る限り、山寺の和尚の教えなども哲学的意匠に過ぎないと感じられてしまいます。ドラマの味つけです。そこを見極めるには、主題としての軽重や、全体への波及程度等、もっと深掘りしてみる必要があるかもしれません。
特に、超美人揃いの韓国芸能界のことですから、この恋愛ストーリーでは、女優の魅力が
200%表出されてきます。特に、意図的にヒロインの台詞を控えめにして、表情での演技を多用します。この部分は女優冥利に尽きる部分でしょう。自らの美を前面に押し出すことになるわけですから。
タニョンにしろ、チェヨンにしろ、ミグムにしろ、言葉少ない物静かな女性として描かれます。一方、三枚目として演じさせるホ・サムボの女房や、旅籠の女や、ソ氏は、とにかくおしゃべりで、軽薄さがこの上ありません。ここに韓国の女性に対する美意識が出ているように思うのですが、どうでしょうか。
近年、日本でも高学歴でIQの高い女性が動画サイトで露出するようになり、弁舌の背景に
エビデンスとなる専門的なデータベースを格納している方々が登場しています。無口であることが美人の条件であるような価値観は、アナクロニズムではありませんか。韓流に対して日本の観点から、また、時代劇に対して現代の状況からこのような批評はお門違いと反発されそうですが、逆に突っ込みを入れて韓国なら英語ペラペラのごとき先端的知的女性像を出してみたら、とでも言いたくさせるところです。
というのは、「商道」を観てすぐ思うことは、これは本当に時代劇なのか、ということです。たとえば、湾商がさんざん苦労したあげく成功して、役所から取引目標の割当て量を獲得できた時、サンオクがいわゆるガッツポーズをする場面があります。私は、こういう場面では白けてしまいます。また、松商のタニョンをはじめとして、美貌の女性陣たちのメイクが現代的なのです。特に、アイシャドウの使い方にそれを感じます。では、この時代の化粧はどうだったのか、ということになりますから、これは時代考証の問題に行き着きます。
メイクだけではなく、ファッション等についても同じような視点で見る時、どれだけ当時を反映しているのだろうと思うと、時代劇を装いつつ適当に現代スパイスをまぶすことでのディレクションを、イ・ビョンフン監督が行なっているのでしょうが、おそらく「リアリズム」の追求ではなく「エンターテイメント」をテーマとしているからこうなるのでしょう。ですから、厳密に「時代劇」とは言いにくいかもしれません。しかし、韓流に私のような見方を持ち込む方が筋違いであり、黒澤映画や伝統的日本文学のリアリズム志向に毒されている方が偏っているのかもしれませんが····
「商道」を解説してみる
この物語は全50話になりますが、1話が1時間ほどで展開していきます。今、40話まで観てきていますが、あっという間です。次はどうなる?と引き込むものがあり、 待ちきれない
気持ちを視聴者にもたらします。エンターテイメント作品として、十分に楽しませてくれるわけです。
ドラマの序盤で、サンオクの父親が不慮の死を遂げるわけですが、これが松商の大房パク・チュミョンの虚偽発言による濡れ衣が原因であり、視聴者はパクへの怒りと、サンオクへの同情へと一気に気持ちが引き込まれます。この冒頭のエピソードが、後々の話の展開の伏線として仕込まれています。この導入部分で主人公イム・サンオクへ一気に感情移入させることから、視聴者を巻き込んでしまうわけです。
サンオクは通訳官をめざしていた夢を捨て、商人として大成することに切り換え、父の仇としてパク大房へのライバル意識を奮い立たせるものの、このことがタニョンとの恋愛のハードルともなってきます。サンオクは商売仇の娘タニョンに熱い想いを寄せることになるわけですから。一方、タニョンは父パクの仕打ちによるサンオクに対する贖罪意識から、サンオクへの想いを禁欲する、という商売仇同士の結ばれぬ悲恋を形作っていきます。この時のタニョンの心中を表現する女優キム・ヒョンジュの表情の演技が見どころです。あの魅力的な目がうるうるするところは、男性視聴者のハートを鷲づかみにし、女性視聴者をタニョンと一体化させて泣き濡らすことでしょう。
サンオクは、商人として才能も能力もある仕事人として描かれ、しかも善行の魂をもっている正義の男です。そんな男が、父親の仇方の娘を好きになってどうするんだと、部下に諫言されても、タニョンへの想いに捕らわれ続けることが、この「商道」における恋愛の美を高めています。二人の愛が結ばれないことが、視聴者をヤキモキさせて、いっそうこのドラマに引き込んでしまうのです。
イ・ビョンフン監督はキム・ヒョンジュという女優を得て、実に完成度の高い画面を構成します。彼女が大写しになるカットは、美が横溢します。背景となるややボケた樹木や家並みとの構成は、スチール写真として究極のワンカットになっているかのようです。かっちりデザインされています。この時、女ごころを表現する切なく優しい音楽が、視聴者の気持ちになんとも言えない癒しを与えてくれます。それとはコントラストを為すかのように、サンオクの前向きに邁進する躍動する心中も、適切な音楽で盛り上げてくれます。この音楽のメリハリも効果的ではないでしょうか。
「商道」を観ていて感じるおもしろさとは、やはりサンオクのアイデアで窮地を突破していくことや、上司にあたる都房ホン・ドゥクチュに認められていくところではないか、と思います。現実世界でも、このように自分の努力が報われていくならこんなおもしろいことはありません。ということは、現実では思うようにいかないからこそ、自分をサンオクに仮託して観てしまうということでしょうか。
また、常識的には考えられない善行が、後になって、視聴者としては忘れた頃にそれが報われてくる場面では、ほんとうに和ませてくれます。清国のキーセンのチャンミリョンを大枚をはたいて助けるあのエピソードのことです。フィクションとわかっていても、こういう愉悦こそドラマの価値ということになるのでしょうか。女優さんでは、タニョンばかりフォーカスしましたが、チェヨンもミグムも、控えめの美は、なかなかに魅せてくれます。
「商道」の楽しみ方
「楽しみ方」などとして特に語らなくても、娯楽ドラマなのでいかようにでも味わえることでしょう。ただ、人それぞれですから、私の楽しみ方を表してみたということに過ぎません。いま、物語は終盤を迎え、利益を追う商売から逸脱して、「商道」の新たな概念的拡張に入っているかに見えます。というか、イム・サンオクは商売人から別次元に昇っていくのでしょうか。1度観ても適当に忘れているところがあり、2度目には新たに気がつくことが出てきます。現代劇とは異なり、ある濃密さが感じられるこの時代劇を、複数回愉しむ価値はあるのかもしれません。
終盤サンオクは所帯を持ってからも、タニョンを命がけで助けようとします。このあたりは、「トンイ」も王様を奪い取る女性の物語であり、韓流ならではの特徴が表れているような気がします。この点では「商道」は、サブストーリーが「恋道」なのでしょう。★
*「作家の値うち」
小川榮太郎著 飛鳥新社 2021年12月