故郷(ふるさと)防衛論
〈SungerBook-カラーグラス999〉「お花畑」が戦争を招く⑥
二三カ月前から気になっている本があって、そのタイトルは「日本の対中大戦略」という
ものです。なぜ気になっているかというと、
もし字面通り、対中大戦略論が展開されているとしたら、中国に対し我が国の手の内を晒すことになるのでは、と思ったからです。この本に限らず、映像番組等でも軍事的な話題の際、我が国の実情を平然と語るコメンテーターに、大丈夫なのか、と思うことはしばしばです。発信する方は、世間や国民への啓蒙や警鐘の意味で語っているわけで、そのことは我々もいわゆる「勉強」になるわけですから、大いに結構なことだという気がします。
このことについては、一度専門家に訊いてみたいものですが、素人考えでは、本当の機密事項は語られないし、「情報戦」という意味では自国も相手国もほとんど通暁していて、
何かが均衡しているから「実戦」へは踏み込まない、といったことなのでしょうか。浅知恵でよくわからないのですが、交通標識で自衛隊基地を表示案内したり、自衛隊基地の隣接地を外国人に売り渡すなど、能天気と思える防衛施設の開示に、国民には不可解であり、そんな国家に不審を抱くのは、当方の感覚がまともではないのでしょうか。
国家が近づいてくる
普段我々は特に「国家」を意識することはありません。生まれた時から日本にいるのであり、一存在としての自分の環境として、望むと望まずとに関わらず、また自由に選択できるわけでもなく、いわば運命としてこの国に
生を受けています(国籍は選べるかも)。国内で暮らしている限り特に日本を意識することは、オリンピック等スポーツの国際大会ぐらいでしょうか。その点、海外で暮らしている日本人の方は、日本というものへの意識は、かなりなものがあるようです。
しかし、かねてより、グローバル化による国家の垣根の縮小や、インターネットによる情報通信の往来等により、この国を一歩も出ない人々にとっても、外国目線でのわが国に対する意識に晒されることの機会増大や、他国のできごとといえど、この国への影響を考えないわけにはいかない、といった昨今となっています。
特に、今年2022年2月24日のロシアによるウクライナ侵攻は、おそらく江戸時代にペリー来航時に日本人が感じたであろうと思わせるような、国際社会における日本という視座を落雷させました。
もう、私は、なんの影響力もない無名の、なんの害もない日本国に埋没した一庶民として、その一生を完結させるという道は閉ざされた、と感じています。私には、私という個に国家が入り込み、覆い尽くしてしまっているかのようです。
単純に言って、隣国の仕掛けた戦争に触発されて、そこから派生する危機感に、国家意識がタケノコのようにニョキニョキと、私の中に生えたものでしょうか。いやいや、それは大きなきっかけではあったのは間違いないことでも、近年の国際状勢、特に中国の強大化は非常に「気持ち悪い」要素として、われわれの意識に忍び込んでいたことです。
「サイレント・インベージョン」が紹介された際、それはオーストラリアでのできごとであり、他国の事例として興味深く見ている脳裏では、チラチラわが国への侵食が気になってはいても、今後の影響を気にする程度だったと言えます。しかし、よく目を見開いて足下を見れば、これほど白蟻に食い荒らされている国家の状況を認識するに及び、とっくに腰は抜けてしまっています。「サイレント・インベージョン」を翻訳した地政学の奥山真司氏に関わらず、どなたかが「ジャパン・インベージョン」を著したなら、その虫喰われ具合に、(守りようもないので)アメリカは同盟国を解消してしまうほどではないでしょうか。
私が「国家観」という概念に接したのは、つい最近のことです。「人生観」は中学校の頃から耳慣れていますが、こんな馴染みの薄い言葉はない、という感じです。おそらく米国の占領政策の一環としてパージされてきた類いのことなのかもしれません。その結果、国家観のない学者・教師・議員・官僚・弁護士・ジャーナリスト・専門家・・・そして国民が、当たり前になっているということなのでしょう。義務教育の頃から国家について様々に論じてきていれば、こんな、よそよそしい言葉にはなっていなかったと思われます。
歴史が近づいてくる
先日、竹田恒泰氏の講演会があり、覗いてみました。多様なテーマを持っている方でありどんな話柄になるにしろ、昨今のウクライナ状勢にどれだけ触れるものか、一切触れずに
おもしろい展開も想定できるだけに、その点が気になっていました。いざ始まってみると
冒頭から国際状勢に触れる展開となり、聴衆を緊張させる暗いネタとなり、われわれに気持ちの準備を促すものでした。その日の演題は「誇り高き日本の未来」であって、その後は陽転しテーマに沿った竹田節となった、と思っています。ロシア、中国と隣近所に恵まれないわが国を認識させ、時間感覚は一気に戦後の時世に連れ戻されたという感覚です。そうです、これまでが平和過ぎたのでしょう。われらの父母や祖父母が体験したあの時代、あの忌まわしい時代が、昨日のことのようにリアリティをもって、そこに在りました。終戦から来し方の平和の有難味を、失って初めて知るその意義という感じで実感しているのは、私だけのことではないでしょう。
兼原信克著「日本の対中戦略」のような著作に触れるのは初めてのことです。こういう文体は、研究者でも、作家でも、ジャーナリストでも、おそらく書き得ないのではないか、と思わせるものがあります。外交を軍事を歴史を咀嚼して、これだけ躍動感あふれる叙述に接したことがありません。外務官僚として仕事してきていた方ならではの、アクチュアリティの世界であり、歴史を消化した上で今の世界に対峙しているところから生まれる、稀有の表現と思われます。特に、当該国家における歴史的な決断を人間感情にまで還元してみせるところは、説得力があります。専門家、研究者では絶対書けないリアルが脈打っています。
これは「対中日本防衛論」と私は読みます。このような感覚と、日本の首相や政治家のいかに遠いことかと、気が滅入ってしまいます。それにつけても、安倍晋三は狙われてしまった、と思わざるを得ません。「国家観」を放擲して、論理破綻した政府批判を飽きもせず続けるお馬鹿野党は言わずもがなで、何の戦略的政策も打ち出せない岸田首相など、不適材不適所ということでしょう。中国からの侵略に、支配に、これだけさらされているにも関わらず、何の危機感もないとはどういうことか。今は、すでに有事です。
「サイレント・インベージョン」は奥山真司氏と和田憲治氏による動画番組で数年前に知りました。「アメリカ通信」という番組名に関わらず、ホットで世界的な外交・軍事情報を提供してくれます。いわゆる情報番組ということになりましょうか。「情報番組」と規定するのは、兼原信克氏の叙述に接してみてより明確になるのですが、アクチュアリティがないのです。いわゆる座学というか、シミュレーションゲームに留まっているのではないか、ということです。解説的に新しい情報や視点は提供するものの、なぜか迫真性や臨場感が感じられないのです。今は2022年という、これまでにないステージに日本は突入してしまっている事態にどう向き合うと言うのでしょう。しかし、裏読みすれば、番組の企画・構成・演出上、あえてそうしている可能性があります。私が冒頭で懸念したような、わが国の軍事状況を開示しないための意図があるかもしれず、批判にまで高めていないから緊迫感がないと感じられるのだとすれば、私の指摘は取り下げるべきことなのでしょう。
また、いつだったか、和田氏から「国家の品格」は安全保障に触れていないということで、国家観を欠いている趣旨の指摘がありました。これは一理あると思うのですが、私は、藤原正彦氏が当該著書の中で武士道を説いていることから、ダイレクトではないにしても防衛につながる精神的基盤に触れていることは、より本質的なことだろうと見ています。
山河ありて国ありき
冒頭直後で私は「運命としてこの国に生まれてきた」と述べましたが、佐伯啓思氏は大部の著「国家についての考察」の中で「宿命としての国家」について言及されています。以下p27~p28より引用
「歴史的なものがもたらす経験、紐帯、堆積が個人と国家を結びつける。一つの空間に生まれ落ち、一つの時間を共有し、そこに共通の歴史を経験することによって、いやおうなく個人は『国』を負荷され、逆に『国』は個人によって実現されてゆく。」また、「個人と国家をつなぐものとしての歴史的なもの、そして心情的なコミットメント、つまり『愛国心』=『愛郷心』」
を重視するとしています。われわれは、所与の条件についてはあまり意識しませんが、これだけ狭くなった地球において、もっと国家に対する意識を高めるべき時なのかもしれません。
さきほどの、和田氏の国家観に安全保障が含まれるとの見方ですが「アメリカ通信」の中で一字一句違わずそう語られたかは、実は私の記憶にあやしいものがあります。正確には確認しようがないものの、「国家観」を考える視点を提供してくれるものがあると捉えています。兼原信克氏は「日本の対中大戦略」の中で、孔子の論語を援用して、信、食、兵から現在の言葉として、価値観、繁栄、安全を「国益」として導き出します。国家論の中で論ずべきは、「国益」でしょう。いかに「国益」に資するかのために検討されるのが国家論であり、その結果、描かれる像が「国家観」ということかと思います。やや粗雑に言えば「国益」と「国家観」はかなり近いものとなるでしょう。別の言葉を充てるとすれば、「国柄」であり、また「あるべき国家像・国家論」と言えるような気がします。狭い意味での「国家観」では、価値観がズームされるのではないでしょうか。
私の国家観の我流の定義としては、投稿済みのブログ「ならず者たちの相貌」で触れたように
〖歴史観・大局観に基づいた国家像・国家概念をもち、自国の歴史・文化や、国民の幸福を護持しようとする、教養に裏づけられた自立した見方考え方。〗
となります。しかし、今思うに「安全」の要素が希薄かもしれません。家を守るのに鍵をかけなければなりませんし、消火器の準備が必要です。この「安全」、そして「繁栄」を支える経済力とともにあってこそ、「価値観」が守られることに気がつきます。同時に家すなわち国土あっての国家です。あの山、かの川があってこその日本です。
神武天皇が即位されてから令和四年のこんにちまで、この国の来し方は海洋国家として恵まれた地理的環境にあっただけではなく、元寇を斥け黒船を契機に開国を果たし、明治維新を経て、日清日露と二つの大きな大戦後に経済成長を成し遂げました。われわれは今が当たり前としか思えませんが、この後安穏と同じように生活できるかは、全く不透明と思われます。戦後の泰平の中で緊張感を欠き、むしろ弛緩の洪水が全土に及んでいるとも感じられます。近代化に成功し繁栄する大国として国際的役割、特にアジアの中枢国家として、もはや自国のことだけに専心していればいいわけではなく、自国を守るためにも周囲への目配りが必要なことは自明です。だからこそ、安倍晋三元首相の「自由で開かれたインド太平洋」構想が評価され、クアッドが受け入れられているわけで、日本の国際的立ち位置の自覚表現という側面がありました。「安倍晋三が抑止力」と言われたように、この防衛力を望まない輩や組織があったのかもしれません。歴史的な事件について、迂闊なことは慎むべきことでしょうが…。
月刊「Hanada」9月号でE・ルトワック氏が
安倍晋三元首相の国際的な信認を語ってみせた一方で、冒頭ではこの暗殺事件について、
警察発表を鵜呑みにした捉え方を表明し、私は目を疑いました。E・ルトワック氏ともあろう軍事戦略の専門家がこのようであるとは、むしろ別の意図まで推測させてしまいます。たとえば、わかっていて敢えてそう表現した、というような、とかです。もちろん、これはわからないことですが…。
故郷(ふるさと)防衛とは
まだ侵攻の終わりを見せないロシア、狂ったようにミサイルを連射する北朝鮮、3期目の習近平かつ個人体制を迎えた中国、わが国の隣国は独裁政治国家に囲まれています。
このような不安からか、街を歩いていると拡声器から、やれ平和憲法を守れ、やれ戦争をする国にするな、と叫んでいるノイズが耳に入ってきます。また、「武力で平和は作れない」「軍拡をやめてくらしを守れ」「先制攻撃の為の敵基地攻撃能力」「戦争への道」など、ポスターの文面を見るに及び、どっと疲れが出る思いになります。この方々、私には歴史的な思想制肘に足元を掬われている人々と映ります。世界を時代をリアルに見通すメガネをお持ちではないようです。この有事にあって、ならず者国家が虎視眈々と狙っているのに、先様を利する自己矛盾に陥っています。「お花畑」満開とはこのことでしょう。
国内において、国家ないし政府に対する自らの立ち位置をとっているだけでは、本質が見えてきません。日本がすっかりコクーンになっていませんか。東アジアにおける軍事バランスや、国際協調世界の視点から、この国を捉え直すリアリズムが喫緊の課題です。どうか「お花畑」の外へ一歩踏み出すことをお願いします。それでこそ、国家意識、国家観につながります。
「国家意識の喪失とは、国家の存在と自己の存在との緊張関係についての喪失である。」(「国家についての考察」p16より)と、佐伯教授は述べています。国際社会における日本という立ち位置の認識は、繁栄(経済)においても防衛においても、必要なことです。価値観を共有する国家同士の相互連携は、経済においても防衛においても、果たされるべきことであり、最早国内視点だけで政府に甘えることは許されないでしょう。国民が国家意識を開眼させなければなりません。国内事情だけで右往左往して、選択を誤る暇はないのです。
歳を経るに連れて愛郷の念を自覚しています。愛郷心はすなわち愛国心と同義らしい。われわれは、国民の一人一人が自らの故郷(ふるさと)を守るために、わが国家の防衛を日常的意識にのぼらせるべきでしょう。郷国、故郷を守るとは、日本国民の国家観に帰せられることに、まっすぐつながっています。★
付記
昨日14日、街の舗道で自衛官募集のアンケートをとっていました。人員の不足は由々しきことです。また、ニュース記事で佐藤正久氏が「ふるさと納税があるなら、防衛納税があってもいい」と語ったと知りました。
国民が具体的に防衛に関われるという意味で、前向きに捉えています。
(「お花畑」が戦争を招く⑦ 次回投稿予定)
参考資料
・兼原信克「日本の対中大戦略」PHP新書
2021年12月
・藤原正彦「国家の品格」新潮新書
2005年11月
・佐伯啓思「国家についての考察」
2001年8月