世界にさらした日本人の民度
〈SungerBook-カラーグラス999〉 「お花畑」が戦争を招く④
(9月に投稿するも誤削除につき再投稿)
過日、繁華街を歩いていたら、スピーカーから喧しい国葬反対演説が流れ、参加メンバーがチラシを配っていました。信号待ちの際、チラシが私の手にも渡ったので、見もせず手提げに入れました。2日後、持っていたそのチラシを見ると、ジャーナリストの斎藤貴男氏を講師とした講演会の告知でした。開催日がその日で、開催場所も近く、しかも無料とあったので、覗いてみようという気になりました。タイトルは「安倍政治を検証する」。配布されたレジュメには8項目ほど小タイトルがありましたが、講演の大半は国葬反対論に終始し、レジュメの後半部分は時間切れで割愛されることとなりました。
この結果から言えば、国葬反対を最初からメインテーマとして掲げ、その内容項目を細分化した方がわかりやすかったのではないか、
などとレジュメの構成のまずさを指摘したくなるところです。特に、レジュメの最後にある「小日本主義」ついては、講演者の考える国家像が含まれている可能性があり、私が最も注視したかったところです。しかしながら、当然そんな時間はなく、その小タイトルをなぞっただけで終わりました。
国葬反対の意味するもの
斎藤氏の講演内容は、国葬反対と安倍政治批判でした。言ってみれば、国葬反対の根拠として安倍政治の評価を下げるという論理だったように思われます。この組み立てに、この講演会の意図が出ているのではないでしょうか。安倍政治、自民党の政治を貶めておきたいとの狙いが感じられるのです。
そもそも講演会主催者の事前説明では、「戦争準備が進められている」や「国民の貧困、格差が広がった」と安倍政治を紹介し、それ故に国葬反対という風にこの日の講演会に結びつけていました。
結局、国葬反対を切り口にした一定のイデオロギー集会だった、というのが私の感想です。運営費のカンパも募っていました。会場は見た目で七割ぐらいの入りで、高齢者がほとんどでした。「国葬反対」と書いたポスターを全員持たせられて、最後、かけ声に合わせてそのポスターを掲げるというイベントでした。もし、「国葬反対」と本気で中止させたいなら、批判の矛先は、それを決めた岸田首相に向かうべきだったのではないか、私はそう考えます。内閣府の閣議決定だけでは法的根拠不十分というなら、それを核にして岸田政権に詰め寄るべきだったのではないでしょうか。まあ、主催者サイドも「今から止めさせるのはできないだろうけど」とコメントしていましたから、自分たちの主義主張のシンパを増やしたかったというのが、本音でしょう。
斎藤さん日本をどうしたいの?
講師の講演内容に触れてみれば、政府の発表した今回の「国葬儀」とした理由を述べ、それを論難することで、国葬にふさわしくないと決めつけていました。政府の説明は4項目になります。
①最長の在任期間
②内政・外交での大きな実績
③国際社会からの高評価
④選挙期間中でのテロ死
これらが各々否定されるなかで私が特に気になったのは、①と④について斎藤氏が「旧統一教会のおかげ」と口走っていた点です。
それを解きほぐすとすれば、①については安倍政権の長さは旧統一教会との癒着があるからだ、と言いたいようです。しかし、それは旧統一教会の過大評価であり、そんな影響力はないとされています。安倍政治を引き下げたいマスコミの論調に乗せられているだけではありませんか。それを言うなら公明党と創価学会の結びつきが全く取り沙汰されないのは奇妙なことです。この点が、安倍元総理や自民党を貶めたいマスコミの意図を明らかにしているといえましょう。
さらに、次の点は岸田首相の対応も大いに疑問が残ります。「教団との関係を絶つ」とコメントしたようですが、そもそも政治家だって一人の人間として「信教の自由」があるのにそれをどうやって管理・コントロールしようとするのでしょうか。
④については、斎藤氏は「旧統一教会」と元安倍首相との関係が、惨劇につながったと言いたいのでしょうか。いやいや、そこは捜査中ではないでしょうか(未だに納得できる警察の説明はありません)。そこは、真犯人、動機という広大な闇の部分であり、迂闊に「旧統一教会のせい」などとは言えないところでしょう。元安倍総理の立場に立つなら、応援演説中の被弾であり、容疑者の供述をそのまま受け入れるなどとは、テロを擁護しているようにさえ聞こえてきます。つまり、旧統一教会と関係を持つヤツが悪いとでも言うように。
以上2点についてそうであるように、斎藤氏の4項目についての論難は精緻さに欠けていて、「国葬にふさわしくない」と感情的に煽ることに終始していました。「国葬」とは、
憲法7条と皇室伝播25条により「大喪の礼」がそれに当たります。安倍元首相に適用されるのは「国葬儀」です。天皇ではない方をどうして「国葬」にできるのでしょう。
配布資料中から斎藤氏の見解について冒頭三行を引用してみます。
「安倍晋三元首相の国葬に反対だ。氏の何もかもを国を挙げて賛美することになってしまう。非業の死を悼みはするが、だからといってモリカケ桜をはじめとする国政の私物化や、強行採決の連発で国会を無効化させた大罪まで“なかったこと”にされてはたまらない。」
講演は終始このようなトーンなのです。こういう論調はよく聞くパターンではありませんか。すぐ思い浮かぶのは、1959年から始まった安保反対闘争です。とにかく反政府で溢れています。
再帰するイデオロギー対立
京都大学名誉教授の佐伯啓思氏は、その著書「国家についての考察」の冒頭付近で、こう述べます。「国家についての議論が今この時点で日本のナショナリズムをかきたてるのではないか、という警戒感や危機感であり、この危機感を背景に再びあの短絡的な反応、すなわち国家についての肯定的言辞に対してはことごとく『ナショナリズムの復帰』というレッテルを押しつけるという情緒的な反応もまた回帰している。」(p21-22)この本は2001年の発行ですが、その21年後の現在読んでも、この国の思想的な状況は何ひとつ変わっていないどころか、戦後のこの国のまんまがブリ返していると思わざるを得ません。斎藤貴男氏は1958年生まれですから、初期の安保反対運動には参加していないと思いますが、講演会参加者の中の一部には、ドンピシャで闘争世代の可能性があるかもしれません。また、マスコミの幹部クラスが正にそれに当たるとは、よく言われるところです(そろそろリタイアか?)。ここで私が述べたいのは、「もはや戦後ではない」とは随分昔に聞きましたが、日本人の思考はいまだに戦後を引きずっているのではないか、ということです。佐伯教授の「国家についての考察」における基本的な問題意識のひとつは…「戦後思想の中軸を占めた左翼的進歩主義と、事実上、国家論を回避した保守的現実主義の果たした役割は大きかったといわねばならない。思想の次元でいえば、とりわけ進歩主義の側からするほとんど情緒的でかつイデオロギー的な反国家主義が、事実上、国家についての論議を麻痺させる決定的な役割を果たしたのである。」(p21)としています。つまり、これまでわが国は国家についての論議がまともに為されていない、と指摘されています。私は、21年前の佐伯教授の述懐を、21年後の今の今において、痛感するものです。ここは素人考えに過ぎないのですが、60年代安保闘争の頃と、2022年の今とは酷似した状況があるのではないか、と思いたくなります。先の場合は、戦後とはいえアメリカの従属から抜け出せない不安から政府への反撥と駆り立てられ、今の場合は、ロシアのウクライナ侵攻を契機に、懸念される台湾有事のわが国への影響不安から政府の軍国化への傾斜を警戒しているように思えます。戦争の残滓漂う状況と、戦争の予兆臭う状況の共通した切迫感、緊張感のようなものです。いずれにしろ、ともに欠けているものは、日本の国家像、国家意識をすっ飛ばして、おめでたく反撥だけしているお子さまではないのか、ということです。「日本が中国への戦争を準備している」などという杉並区議会議員はじめ、講演者の斎藤氏も憲法改正をはじめとして「すべて戦時体制のために」としてこの機会に安倍晋三崇拝を進めている、とまで述べています。この方たちは抑止力も防衛もその意味をご存知ないらしい。まさか、日米安保条約を当てにして、われわれ日本人は何もしなくていいとでも思っているのか。これは紛れもなく「お花畑」といえます。佐伯教授の言われるように「国家についての議論」を封じ込めてきたツケがきているのではと思われるのであり、「国家論」の不在が改めて顕在化しているのではないでしょうか。斎藤氏は「安倍氏の国葬は、彼の支配下で深まった市民社会の分断」と記述しますが、いやいや、分断を促進しているのはあなたです、と申し上げましょう。
安倍晋三の輝き
今回の元安倍首相の死に際して、私はある報道を期待していました。それは、2015年米国連邦議会で行なわれた演説です。政権の長さや、政策効果は、安倍政治評価のネタとして当然でしょうが、むしろ私はこの演説によって、大東亜戦争で散華した日本の兵士たちへの鎮魂まで感じ入りました。安倍晋三は、参集した米国議会議員たちの前で、45分間英語でスピーチします。日本の首相として初めて上下両院合同会議に招かれたそうです。これを見ていて、私は日本人として安倍さんをこれほど誇らしく感じたことはありません。すばらしいスピーチ内容でした。「希望の同盟へ」と題されたその演説が終わると、議員の拍手は鳴り止みませんでした。演説中のスタンディング・オベーションは何度もありました。われわれは、これほど世界に信頼され、実力を認められた日本の国際政治家を知りません。この年は戦後70年、私の叔父も出征して亡くなりましたが、今改めて動画を再生してみて、靖国に眠る叔父の霊と私の霊とは、しっかりつながる感覚を覚えました。すでに鬼籍に入った親族もいるけれども、私らの世代は叔父さんのおかげで、この日本国に生きている、と感じることができます。戦争から生還した父はもういないけれども、先祖の苦難は、しっかりわれわれにつながっています。
安倍晋三、2015年4月の晴れ舞台を、われわれは見て、聞いておく価値があると思っています。日米関係のひとつの頂点として、また安倍政治の成果のシンボルともなるものでしょう。真相を「藪の中」にするな、安倍晋三暗殺事件を旧統一教会問題に結びつけるマスコミ報道は、罪深い。この事件に関する警察庁の発表は、皮相的なものです。素人から見ても、致命傷となった弾道と容疑者の位置からの弾道とは、一致しないでしょう。マスコミは何故ここを追及することなく、政治と宗教の話に転嫁するのか。すでに、専門家の詳細な映像と音の解析により、容疑者の銃撃音は空砲とわかっています。銃弾が見つからないとか、搬送に時間がかかり過ぎるとか、不可解なことだらけで日本に警察はいたんだろうか!警察庁長官の辞任で済むレベルの事態ではないでしょう。米国上下両院合同会議演説のなかでも触れられたように、QUAD=日米豪印戦略対話とは凄い構想です。日本の安全保障政策をアメリカをも巻き込んで、安倍晋三が構築した意味は、国民が広く理解すべきことがらです。私は彼の移民政策については反対するものの、日本の抑止力構築に貢献したこの部分は大きい。安倍晋三自体が「抑止力」と言われる由縁です。つまり、国際政治の利害関係からすれば、この「抑止力」を封印したいならず者がいた可能性も想像できることです。陰謀を論ずるつもりはありませんが、これだけ世界が密接になった国際政治の時代に、日本の警察はとんでもない「お花畑」です。
国葬儀について十分な説明をせず、政治と宗教について見解を示せず、マスコミに翻弄されるかのようなこの国の現首相。偏った報道に明け暮れるマスコミ。「モリカケ」以降、SNSで不見識を垂れ流す有名人。それに影響され、便乗しかできない一般国民…このような状態をせせら笑っている国の存在があります。今、戦後の穏やかな時代が少しずつ変化してきているように思われます。本来であれば、この国の「国家像」や「国家観」が真に論議されるべき時に違いありません。戦後77年、思考停止のままの国家の民度はどうなっているのでしょうか。民度とは教養の謂いに他ならないと言えます。しかし、烏合の衆のように分断が進展するばかりで、2022年9月27日をピークとして、極東の片隅に広大な日本という「お花畑」がいちめんに咲いています。★
(「お花畑」が戦争を招く⑤ 次回投稿予定)
出典
佐伯啓思著「国家についての考察」飛鳥新社2001年