野球小僧5

5、草野球ではガキ大将

帰郷・結婚・子供三人。名古屋の団地新聞に2年勤めた後、協力してくれる先輩がいて、フリーの立場で新聞づくり。でも、何かもの足りない。私はひとりで月間「知多文化」(B5判8頁)を創刊した。知多の若ものの交流をと。
 でも、広告が集まらない。もうからない。新聞配達も始めた。
 そんな、気ぜわしいビンボーな日々なのに、私の草野球熱は十代の若い頃のように燃えた。
近所の肉屋、菓子屋、床屋などの若ものに呼びかけて、チーム「ヤング本町」を結成。商売人が多いので、早朝野球になった。私は新聞配達を終えると、早朝の試合・練習に直行した。  
ベースも土に手書き、審判も交替で、サインもない。バンドするより思い切り打ちたい。盗塁も走りたい人が走ればいい。勝ち負けにこだわらない。これが草野球のダイゴ味。細かい決め事やルールにとらわれない野球本来の楽しさがある。
 半田市の早朝野球協会に入った。6チーム程が参加しており、勝ちっ放しの常勝チームもいれば、一度も勝ったことのないのが売りの寿司屋さんチーム「デルトマケーズ」もいた。彼らはみんな元気で楽しそうにボールを追っていた。私は相変わらず、ガキ大将になって、投手、三番で、思いっ切り野球を楽しんだ。
 その後も安い借家をこちこち移り、月刊「知多文化」を出していた。生活はきつかった。それも、また友人を集めて「ホープス」というチームを立ち上げた。相変わらず投げて、打って、騒いで。でも、連盟に入って本格的な試合になると、なにか、むずかゆい。面白くない。年齢だからと退部。
 でも、野球はしたい。自由に投げたい、打ちたい。そこで、また、強引に人を集め、チームを作った。印刷業、ピアノ講師、農業、会社員などなど、新しい仲間に強引に呼びかけて、九人集めると、小学校等の空いているグランド(早いもの勝ち)で、わいわいと試合をした。どうにも一人足らないときは、野球オンチの妻を引っぱり出し、「もし、打ったら右の方へ走るんだぞ」


三人の子供たちは私の宝物

 この時期、少林寺拳法にも熱中した。「子供のために強い父親でなくては」の思いから。これは55歳ころまで20年位続けた。(3段に)
 長男も成長し、中学生位から二人で投球練習もした。彼は中・高校と野球部だったが、ケガが多く、最後は腰を痛めて 退部した。
 
40代後期になって、やっと大きなスポンサーが付いた。住宅会社でリゾート開発も。ほとんど専属で同社の宣伝、イベントの世話も。やっと人並みの暮しが保証された。ほっとして、しっかり働いた。同社専属の仕事で。(草野球のことは忘れて)ところが、この会社が経営不振に。他の仕事はみなキャンセルしてたから、仕事は何もない。
 と、長年お付き合いのある印刷会社の社長から、中日新聞販売店が新しく出す月刊「マイタウン」の編集を依頼された。今まで手いっぱいでと、お断りしていた西三河の歴史情報誌「みどり」の創刊、加えて、友人の会社の社内報編集のお手伝いと、三つの仕事が同時に決まった。なんと、ラッキー!
 フリーの立場で、このレギュラー三本の仕事をこなした。人並みの生活ができるのが何よりもうれしかった。妻ともう一人の女性スタッフ三人でこなした。楽しみながらの取材、編集。仕事は順調だったが、でも、体調は必ずしも良くはなかった。野球を忘れて、仕事に集中した。55歳の頃、朝起きると頭がしびれ、ツンツンしている。こんなことは初めて。痛くはないが、頭全体がしびれるような感じ。次第にこのツンツンが、頭から顔面へ。そして体の中へ移動。ツーンツーンと動き回るのだから胃のあたりにくると、ムカムカ感が出る。心臓にくるとドキドキ。勝手に人の体の中を動き回るのが気にくわん。病院でも原因が分からない。自律神経失調症なのか。でなきゃ、自律神経「出張中」なのでは? 1年位かけて、その動きは、ほぼ治まったが。頭の中に「しびれ感」が残ったまま。今も。でも、気にせず頭を使って仕事をしてきた。この頭のしびれの原因は分かっている。しびれの出る少し前に、広告代理店の紹介で、大手企業が新入社員募集のためのPRを小説風(物語で)に書いてほしいという要望。原稿料につられて、引き受けたものの、グループ企業が数社あり、全て回って、仕事ぶりを引き出し、それを物語化して書き上げた。多少の部分的な直しはあったが、OKとなり、一冊の本になった。
 その物語とは──迷うことなく「野球」だった。大学時代に投手として活躍。よく打たれたライバルチームの強打者と、まさか、同じ会社の新入社員になろうとは。ストーリーは書き上げたものの、はやり、会社側のチェックが入り、ストレスになった。全神経を集中して書いた一か月程。その頭脳的な疲れが出たとしか思えない。
 当時、毎日の晩酌(夏はビール)を楽しみ。よって、体重も10キロ増加。50歳の時、「運動しなきゃ」と半田市民マラソン50歳以上・5000mに参加してみた。気楽に走っていたら、どんどん抜かれる。一人でも追い抜こうと全力で走る。どうも最下位みたい。前方の二人に追いつき、追い越そうとすると、二人ともピッチを上げる。私に抜かれまいと。 三人が並んだままゴールの小学校グランドへ。すでに表彰式の準備中だ。声援も注目もないまま、三人の最下位競いは熾烈だった。
 この55歳は、私の仕事と健康面での大きな転換期だった。食事にも気をつけ、お酒も控え目。体重は55キロに落とした。野球も卒業か。と、60歳の時、半田市に還暦(60歳以上)野球チームができた。やっぱり黙ってはいられない。早速、参加すると、心臓の動機が始まり、半年でお休み。「もういいよね」と思ったのに、65歳で体調がよくなると、またメンバーに。週2回、午前中の練習を楽しんだ。勝負を競う試合には出なかった。
 半年程すると、今度は両手首、肘が腫れ、リウマチになった。一年程で、その腫れがひいた。またボールを投げたくなる。メンバーは、高校、大学、実業団でしっかりやってきた人たちが中心だ。一緒にフリーバッティングを楽しむ。試合には出なかった。半年ほど続けて、またやめた。人を集め、自分のチームを作る元気はない。「もう、いいでしょう」
 なのにまた、81歳の時、ムリ言って再々入部。もう一度、最後に野球がしたい。が、キャッチボールがやっと。肩も痛いし、球を拾ってかがむのが辛い。もう、だめや。還暦野球のみなさん、ありがとう。
 やはり、草野球がいい。私のわがままな性格にぴたり。ふだんは無口で、控え目なのに。草野球では、ガキ大将になってボールに向かう。
 
私は85歳の今も新聞を発行している。もうかる仕事ができない。ぎりぎりの年金生活。本箱の上には、ボールを抱いた愛用のグローブが置いある。誰に渡そうかしら。
 と、待って。あの少年時代に見つけた、うす汚れたボールとグローブ。そっと、窓際に置いたのは? 
そう言えば、父は若い頃、町内の野球チームの主将で、半田市代表チームにもなったと、父の妹から聞いたことがある。父も、母も、いつも、やさしく、私のやることを認めてくれた。決して私に強要はしない。あのボールとグローブは、やはり、父がそっと置いたのでは。「よかったら、野球やってみるかい」と。

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