童話 おじいさんのピアノ
明日からは、夏休みだ。「学校へいかなくてもいい」と、喜んでいたのに、お父さんと、お母さんが、また口げんかを始めた。
お父さんは、食品会社の課長さん。営業で全国を回っている。お母さんも同じ会社に入り、先輩であるお父さんと結婚した。
「お前の、しつけが、わるいんだ」
お父さんが、お母さんをせめる。
はるみは、小学校五年生になる。勉強はきらい。成績もわるい。風邪をひいては学校を休む。一人で部屋にいる時が多かった。
「はるみに、しっかり飯くわせているのか」
お父さんの声が、大きくなる。
「なに言ってるのよ。当たり前でしょ」
お母さんも、負けてはいない。
「母親なんだろ。もっと、しっかりしろよ」
お父さんの声が、マンションの部屋中にひびいた。
「父さん、やめてよ!」
はるみは、つい、叫んでしまった。
お父さんは、驚いた目で、はるみを見た。
「そんな言い方しないで! お母さんに、あやまってよ」
次の日、お母さんは、はるみの手を取ってマンションを出た。「もう、人とは暮らせない。田舎に帰るからね」
はるみは今、小高い丘に囲まれ、田畑が広がる小さな町にいる。昔からの古い農家。ここは、お母さんの生まれた家。庭の、ひまわりが、心配そうに、はるみを見つめている。
この家には,八十歳になる、おじいさんが一人で住んでいる。朝早くから畑に出かける。野菜を市場に運ぶ。鶏も育てている。おばあさんは、十二年前に、病気で亡くなった。
お母さんは、三人の食事を作り、近くにできた介護施設の掃除や洗濯の仕事も始めた。
土の匂いのする農家の座敷は、とても広く感じた。はるみは、カバンに、つめてきた童話や絵本を開く。人気アニメのキャラクターの絵を描く。一人っ子の、はるみにとって、いちばん楽しい時間だ。でも、学校がきらい。外遊びもしない。友達もいない。三年生の時いじめにあった。水泳の時間に、プールで足を引っぱられたこともあった。お母さんは、いじめた子の家に乗りこみ、その子と、その両親に「やめなさい!」と言ってくれた。
小さな町のこの家でも、おじいさんと、お母さんが、言い合っている。
「一人で子供が育てられないから、帰ってきたのか」
「違うわ。あの人が、我がまま過ぎるのよ」
「男は仕事だ。我がままなのは、お前だ」
「いいえ、私は、やること、やってます」
「勝手にしろ。わしは、知らんぞ」
この町で暮らし始めて、二週間が過ぎた。
「九月から、こちらの学校に入るからね」とお母さんは言った。お父さんと別れるのは、本気なのだ。はるみは「うん」と、うなずいた。でも、気持ちは、落ち着かない。体が雲みたいに、ふわふわしている。
ふと、お父さんの顔が浮んだ。幼いはるみを抱っこしてくれた。ラグビーで鍛えた太い腕で。濃い眉、丸い目は笑うと線になった。
でも、お父さんは頑固で、固いレンガみたい。おじいさんは、もっと頑固で、かちかちの石みたい。おじいさんは、お母さんとも、はるみとも、口をきかない。夕食の後も、さっさと自分の部屋に入ってしまう
「このままで、いいのかなあ」
はるみは、外へ出た。いや、出たくなった
田畑をぬけ、氏神様のある森をくぐると、家々が並ぶ。新しくできた公民館が見える。
と、公民館に、おじいさんが入っていく。
はるみが、そっと,館内をのぞくと、ピアノをひく音が聞こえる。その部屋の入口に「鈴村ピアノ教室」の立札が。その横に「発表会八月十一日午前十時から」のお知らせも。
「おじいさんがピアノ? それはないよね」
夏休みも、もう半分が終わってしまった。
「学校変わるの、いやだなあ。また、いじめられるかも」
カレンダーの日にちを追っていた、はるみは、はっと気づいた。今日は八月十一日。公民館で、ピアノ発表会がある日。
はるみは、なぜか、胸がわくわくしてきた。と同時に「お母さんと一緒に行こう」の思いが沸いた。
「へえー、めずらしい。はるみが、外へ出たいなんて。いいわよ。つきあうわ」
公民館の小さなホールで、発表会は始まったばかり。二人が後ろの席にそっと着くと、若い女性が、軽やかにピアノを奏でる。次の男性も、リズムに乗った演奏を聞かせる。
と、次に、ピアノに向かったのは、おじいさん、おじいさんだ。
おじいさんは、ゆっくりと、椅子に腰をおろすと、じっと、白い鍵盤を見つめている。
右手を上げた。「ポトン!」と一つ、大きな雨だれが、勢いよく、澄んだ水の上に落ちたような音がひびいた。ポトン、ポトン。右手人差し指だけで、ひいている。
おじいさんの表情は、いつもと違う。とぎ
れとぎれの一本指の演奏でも、一つ一の音に
からだ全部をのせて、ひいている。
一つ一つの音が、はるみの小さな胸の中に
飛びこんでくる。「元気を出せよ」と、語り
かけてくる。
お母さんも、じっと聞いていた。
はるみと、お母さんは、寄りそって歩いた
家に着くと、ひまわりが、ほほ笑んでいる。
「はるみ、おじいちゃんのひいた曲って、なんという曲か、知ってるかい」
「ううん、知らない。でも、すごくよかった」
「あの曲は“マドンナの宝石”という有名な
ピアノ曲なの。亡くなった、おばあちゃんから聞いたんだけど、おじいちゃんと初めてデートした時、イタリア料理のレストランに流れていた曲なんだって」
「二人の思い出の曲ってことね」
「それに、おばあちゃんは------」と、お母さんは、とつぜん言葉をつまらせた。
「おばあちゃんは、亡くなる少し前に話してくれたわ。おじいちゃんは、頑固な人だけど私には、とても、やさしくしてくれた。私が病気になってからは、特に良くしてくれた」
「---------」
「おじいちゃんより先に、私がいなくなるなんて、申しわけないって----」
気の強いお母さんが、泣いている。
はるみは、お母さんに抱きついた。お母さんも、はるみを、しっかりと抱きしめてくれた。
「お母さん、私、勉強もがんばるからね」
お母さんの涙が、はるみの首すじに、さらさらと流れた。あたたかい涙だった。