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クリスチャンの集いを始めたい、でも。
クリスチャンの集いを、始めたい。
でも...。
まだまだ聖書の知識もない、まだ準備ができていない。
そう思われる方は、近しい方と、一緒に聖書を読む、という集いから、始めてみはいかがでしょうか。
聖書の読書会。
御言葉を共有すること。
キリスト者の交わりとして、それが中心であることが望ましいでしょう。
人を集める必要はありません。
ふたり、三人、それで十分。
@マタイ 18:20 協共訳
二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。
*一義的意味としては、ユダヤ人の同朋から害悪を受けた場合への対応としての文脈(マタイ18:15)であり、赦し、受け入れ、への祈りとして理解されるでしょう。
二義的な適用として、提示しています。
「キリスト教の会」は、高齢化と老朽化で衰退していきます。
メッセや学びは、ネットで、動画で、好きな時間にできるようになっており(ま、玉石混交、玉は少ないでしょうけれども)、
コロコロ騒動で、オンライン礼拝、を取り入れてしまった結果として、ボクシ、カイドウ、ニチヨウレイハイ、という「キリスト教の会」三点セットは不要であることが、すでに明らかになっています。
これからは、小さな、片手で数えられる人数の、交わりが増えていきます。心を打ち明けて話をし、互いのために祈り合う、信実な関係を持つ交わりが求められており、そうした交わりは、人数が少ない方が、益が大きいのです。
そこで中心になるのは、特定の人のメッセージや教え、ではなく。
御言葉の共有です。
もちろん、メッセージや教えは良いものですが、それは語り手と聞き手、教える側と教わる側に、立ち位置が固定されてしまいます。
実のところそれは、好ましいもの、ではありません。
@コロサイ3:16ー17 協共訳
キリストの言葉が、あなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして教え合い、諭し合い、詩と賛歌と霊の歌により、感謝して神に向かって心から歌いなさい。
そして、言葉であれ行いであれ、あなたがたがすることは何でも、すべて主イエスの名によって行い、イエスによって父なる神に感謝しなさい。
それぞれが聖書を読み、それぞれが感想を分かち合い、それぞれが近況を伝え、お互いのために祈る、そうした兄弟姉妹の関係です。
クリスチャンの集いを、始めたい。
もし、そうした願いを持つなら、実践してみることをおススメします。
ピリピ2:13
あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。
その集まりに、名前はあってもなくてもよく。
定期でも、不定期でも、単発でも、かまいません。
大事なことは、一歩踏み出す、こと。
はじめてみること、です。
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現実として。
間違い、失敗、問題、困難。
それらは、起こりえます。
準備ができた、と思ってから始めても、フツーにあります。
転ばずに歩けるようになる人は、おりません。
これまでは、「キリスト教の会」の形式があり、枠組みがあり、メッセージ、説教、教えというものが、集会の中心、であるように、思わされてきました。
ですが、それは本来、中心ではありません。
*ご興味のある方はこちらをどうぞ。
クリスチャンの集いは、御言葉の共有が大切です。
翻訳の不可解や、用語の差異はあっても、御言葉を共有すること。
そして。
パンと葡萄で、キリストを記念すること、これが大切と考えます。
使徒行伝20:17には「週の初めの日、私たちはパンを裂くために集まった」とあります。
パンを裂く、キリストを記念する、これが大事。
@ヨハネ伝6:53ー58 協共訳
イエスは言われた。「よくよく言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。
私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。
私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの飲み物だからである。
私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私の内にとどまり、私もまたその人の内にとどまる。
生ける父が私をお遣わしになり、私が父によって生きるように、私を食べる者も私によって生きる。
これは天から降って来たパンである。先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は永遠に生きる。」
@Ⅰコリント11:23ー26 協共訳
私があなたがたに伝えたことは、私自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、
感謝の祈りを献げてそれを裂き、言われました。「これは、あなたがたのための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい。」
食事の後、杯も同じようにして言われました。「この杯は、私の血による新しい契約である。飲む度に、私の記念としてこれを行いなさい。」
だから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲む度に、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。
キリスト教では、聖餐式、という呼称で行われ、正教師資格のある牧師がいないと云々、という規則があるご様子ですが、キリスト教にある、口伝律法、言い伝え、人の教え、に過ぎません。
聖書にはそんなことは書いてありません。
そもそも聖書には、牧師、という肩書はないものです。
4世紀のローマ国教化以前は、家々でパンを裂き、キリストを記念するのが、クリスチャンの集会でした。
専用の建物で集い、祭司職・教役者という宗教家がいて、定められた行事を行う、というのは、変質した状態なのです。
クリスチャンの集いを、始めたい。
そう思われる方は、近しい方と、一緒に聖書を読む、という集いから、始めてみはいかがでしょうか。
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