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聖霊のバプテスマ

@使徒1:4-5
ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、{聖霊の中に}バプテスマを授けられるからです。


各教派の解釈

「聖霊のバプテスマ」については、各教派の聖書理解が異なっている。


①伝統的な福音派 = 聖書の完成により、霊の現れは終わった。

「新生」と同義。

異言は「聖書が完成するまであった、過去のもの」


②ホーリネス派 = 内面的変化、霊的経験、を「きよめ」とする。

新生とは別。いわゆる「きよめ」の経験を指す。

異言は「西洋の狐憑き」


③ペンテコステ派 = 「異言」を過度に強調して、真理から逸脱しやすい。 

新生とは別。使徒2章の型に倣う「異言」を聖霊のバプテスマとする。

異言は「the sign」であり、聖霊のバプテスマの証拠。


④カリスマ主義 = 教理背景は様々のため、不明確。

新生とは別。「聖霊が臨まれる体験」を聖霊のバプテスマとする。

異言は「a sign」であり、霊の賜物のひとつ。


鍵となる御言葉

@ヨハネ20:21-22
イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」


この記述は、息を吹き入れたこと、命令を与えたこと、このふたつを記述している。

福音派またホーリネス派の解釈では、これが「聖霊の内住」であり、霊に聖霊が入った、という理解になる。
創世記1章にあるとおり、神が言葉を発せられるとそれは即座に現実となる。なので、ここで「息」が吹き込まれ、弟子たちが「新生」したという理解は妥当性があるのだが、ここで聖霊が入っていると使徒1:4-5のイエスの言葉とは矛盾する。

またペテロは、イエスが神の右の座に上がり、聖霊を注いだことを伝えている。

@使徒2:33
それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。

イエスご自身も、私が去っていかなければ、と言っておられる。

@ヨハネ 16:7 
しかし、実を言うと、私が去って行くのは、あなたがたのためになる。私が去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。私が行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。



ペンテコステ派の解釈は、これは後に起こるペンテコステの出来事を、予表また象徴する、としている。
だが福音書の記述では、イエスが言葉を発すると、即座にその現象が起こっている。ましてや、ここでは息を吹きかけるという実際的な行動も伴うので、これを単なる予告とするのは無理がある。


カリスマ派は、各教派の背景があり、不明確。


ここで注意したいのは、「聖霊を受けなさい⇒息を吹きかけた」と誤解すること。

実際は「息を吹きかけた⇒聖霊を受けなさい」の順。

岩波訳を参照。


@ヨハネ伝20:21ー22 岩波訳

すると(イエスは)重ねて彼らに言った、「あなたがたに平安。父が私を遣したように、私もあなたがたを派遣する。」
これを言ってから、息を吹きかけた。
そして彼らに言う、「聖霊を受けなさい。」



息を吹き入れる。

この息を吹き入れるのは、創生記2:7の「いのちの息」の再現。


これは新創造(ガラテヤ6:15)であり、イエスはエデンにおいてアダムに息を吹き入れたのは、御自分である、と表している。


イエスは、御自分の息(霊)を吹き込み、弟子たちに「御子の霊/キリストの霊」を内住させた。

これで弟子たちの「新生」が成されている。


そして「新生」した弟子たちに、「聖霊を受けなさい」という命令を与えた。

「新生」の後、聖霊のバプテスマを受けるのは、イエスが弟子に定められたことである。


*今日的には、「キリストの霊」を受けるのは、聖霊による。

それは「聖霊によるバプテスマ/キリストの御体に属するバプテスマ」
(Ⅰコリント12:13)である。

聖霊によって、「キリストの霊」にバプテスマされること(霊の救い)。

それによって新生した者に、キリストが「聖霊のバプテスマ」を授ける。



イエスの職務

バプテスマのヨハネは、イエスだけに与えられた二つの務めについて証言している。

世の罪を取り除く神の小羊(ヨハネ伝1・29)

聖霊によってバプテスマを授ける方(マタイ3・11、マルコ1・8、ルカ3・16、ヨハネ1・33)


イエスは、死からよみがえり、弟子たちを離れて天に帰られる直前に、二つの命令と二つの約束を遺された。

1.命令:出て行け (マタイ28・19) (マルコ16・15) (ルカ24・46~48)

2.命令:とどまれ  (ルカ24・49) (使徒1・4)

3.約束:聖霊を受ける (使徒1・5)

4.約束:わたしの証人となる (使徒1・8)


以上の考察から、聖霊のバプテスマの基本的な意義について要約すれば次のようになろう。


1.イエス・キリストの福音は、あらゆる国の人々に伝えられる。
2.イエスの証人となるためには、天来の力が不可欠である。
3.聖霊にバプテスマされることにより、キリストの弟子たちは、その力を得る。 
4.弟子たちが聖霊の力を受けるためには、それを待ち望むことが必要。



ペンテコステの現象

①「型」

@使徒2・1~4

五旬節の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。


続く記事の中に、弟子たちが「聖霊のバプテスマ」を受けたという記述はない。

だが、文脈の前後関係から見て、この事象が、「聖霊のバプテスマ」を指し示していることは間違いない。


②五旬節

モーセの律法に規定された祭の一つ。
大麦の初穂の束を奉献する「初穂の祭」から満7週間を数え、その翌日の50日目、小麦の初穂を奉献する「七週の祭」があり、これを五旬節と呼び、ギリシャ語では「ペンテコステ」となる。「初穂の祭」は主イエスの復活の型であり、それから50日目、ペンテコステの日に「教会/エクレシア/召しだされた会衆」が誕生した。これは神による定めの時であった。


③旧約聖書の預言の成就

使徒ペテロは、ユダヤ人たちにその日の出来事の意味を説明し、それが預言者ヨエルによって語られた事なのだと言っている。


@使徒2:17-18(ヨエル2:28-32)

『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。
すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。


@イザヤ28:11-12
まことに主は、もつれた舌で、異国のことばでこの民に語られる。
主は彼らに、「ここに憩いがある。疲れた者を憩わせよ。ここに休息がある」と言われたのに、彼らは聞こうとしなかった。


④イエスの栄光

聖霊のバプテスマは、イエス・キリストの十字架の死と復活、その贖いのみわざが父なる神によって完全に承認されたこと、御子が御父の右の座にお着きになったこと、栄光をお受けになったことの直接の結果であった。


@ヨハネ7・37~39
祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川(複数形)となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。


@使徒2・32~33
神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。


⑤普遍的な聖霊の注ぎの始まり

先のヨエルの預言の一節、
「終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。」
この「日」は複数形であり、「日々」としたほうが正確。

神の霊は五旬節の日だけではなく、この日を起点として、繰り返し注がれることが暗示されている。


聖書の記録

使徒行伝には、類似の事象が5回記録されている。


①エルサレム(2・4) 「型」 イエスの弟子   みなで祈り求める
②サマリヤ(8・17)     サマリヤ人    ペテロとヨハネの按手
③ダマスコ(9・17)     パリサイ人    アナニヤの按手
④カイザリヤ(10・44)    異邦人      真理を語るところ
⑤エペソ(19・6)      ヨハネの弟子   パウロの按手


「聖霊のバプテスマ」を指し示すと考えられる五回の類似の出来事を比較してみると、一つの共通した現象がある。
それは「他国のことば」が語られていることであり、別の箇所では「新しいことば」「異言」とも訳されている。
ここで使われている。「ことば」の原語は「グロッサ」であって、英語のtongue、「舌」、「言語」の意。
「他国の」の原語はヘテロスで、「異質の」という意味を表わしている。


5回の類似の出来事の中で、異言のことが明記されているのはエルサレム(初、祈り)、カイザリヤ(異邦人、耳を傾けている)、エペソ(初信者)の3回である。
使徒2章ですでに「型」として、聖霊を受けた事象を記述しているので、サマリヤ、ダマスコでは「異言」については触れていない。


ダマスコにて、パウロがアナニヤに祈られた際(使徒9:17)において、異言を語った記述はない。
だが使徒パウロは異言を推奨し、また自身が多くの異言を与えられたことを、感謝している(Ⅰコリント14:5、14:18)。


それでは、「異質の言語」とは何か?

私たちが普通に使う言葉は、習得された言語である。

それに対して、「異質の言語」とは習得されたのではないという意味を含み、聖霊がそのときに与え、語らせてくださるものであって、一般的には語っている本人にもその内容は理解できない。


この記述のギリシャ語は、すべて「不定過去(アオリスト)」と呼ばれる形態であり、出来事が一過性であることを示している。
これらの事象は、あるとき突然に起こり、その前後を分ける明確な経験である。聖霊のバプテスマは、受けたかどうか判らないといったような曖昧なものではなく、それと確信できる明確な体験である。


異言

①「しるし」としての異言

「しるし」としての異言は、「聖霊のバプテスマ」を受けたことの証明であり、使徒2:2-3と出エジプト19:18の出来事は、律法と異言が授けられたことを対比されて記述されているように、祭司としての任職である。(出エジ19:6、Ⅰペテロ2:9)


@マルコ 16:17-8
信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、 蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」


これらの「しるし」のうち、「異言」は「新しい言葉」である。

*マルコ16:9-以降は、原文にはないとされている。
だが、追記された部分に「新しい言葉」が記述されているというのであれば、その現象が使徒行伝の時にのみ起こったことではない、ということを示唆しているといえるだろう。


「しるし」としての「異言」は、「異言を話す者は自分の徳を高め(Ⅰコリント14:4)」る、それは、祈りと賛美(Ⅰコリント14:15)と記述されている。


それは必ずしも、外国語であるとは限らない。


@Ⅰコリント14:2
異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。


しるしとしての異言は、聖霊の証印、保証である。


@エぺソ 1:13
あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、「約束された聖霊」で証印を押されたのです。


そのキリスト者を制御されるために、神は異言を与えられる。


@ヤコブ3:3-12
馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。 また、船を見なさい。あのように大きな物が、強い風に押されているときでも、ごく小さなかじによって、かじを取る人の思いどおりの所へ持って行かれるのです。同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。どのような種類の獣も鳥も、はうものも海の生き物も、人類によって制せられるし、すでに制せられています。しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。 泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか。私の兄弟たち。いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりするようなことは、できることでしょうか。塩水が甘い水を出すこともできないことです。


②「賜物/働き」としての異言

@使徒2:7-11
人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。


@Ⅰコリント14:22
このように、異言は、信じる者のためではなく、信じていない者のためのしるしですが、預言は、信じていない者のためではなく、信じる者のためのしるしです。


賜物としての「異言」は、本人の知らない外国語で語るメッセージが多く、宣教の業として用いられる。

*ある人がヨーロッパを旅行中、ジプシーに異言で語るように示され、それに従ったところ、数ヵ月後に訪れたときに、教会が建てられていた、という証がある。

*インドから交換留学生として米国に渡った大学教授が、はじめて訪れた教会で、自分の故郷の訛りで言葉が語られ、またそれを英語で解き明かし、それが聖書に書かれているままの内容であることを知り、キリストの実在を確信した、という証がある。


資格と条件

「聖霊のバプテスマ」は、働きのための「聖別」と「ちから」。

これは特別な選びではない。また働きによる報酬ではない。

資格と条件は、イエス・キリストを信じ、聖霊を求めていること。


@Ⅰコリント15:3-5
また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。 私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。


@ルカ伝11:5-13
また、イエスはこう言われた。
「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。 友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。 すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』
あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。
わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。
してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」


@ヨハネ伝7:37-39
さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。


@マタイ11:12 織田昭訳
王なる神の御支配が激しい勢いで進み始めており、受ける人もまた奪い取る熱意と激しさで受け始めている


キリストの昇天後、教会(エクレシア/召しだされた会衆)が起こされ、王なる神の御支配は、さらに進んでいる。


注意点

異言の伴う聖霊のバプテスマを受けると、その人の肥大化した魂が即座に矯正され、霊の統治下に治まる、という事はない。
即座に「肉に属する人」から「霊に属する人」に変わるわけではない(Ⅰコリント3:1-3)。



まとめ

「聖霊のバプテスマ」は、以下の内容となる。


①「新生」の後に「聖霊のバプテスマ」を受ける。

②求めるものにあたえられる。

③「しるし」としての「異言」が伴う。

④働きのための「聖別」と「ちから」


追記:異言の伴わない、聖霊のバプテスマ?

聖霊のバプテスマは、原則として「異言」が伴う。
聖書の記述によれば「聖霊のバプテスマ」は、体が熱くなった、恍惚感を得た、涙がとめどなく流れた、感情的に満たされた、という経験ではない。
そうした経験は実際であり、キリスト者には有益、否定するものではない。

また、そうした経験の後、祈りによる癒しが起こるようになった、ということもあるだろう。
執筆者の尊敬するABシンプソンさんなどは、その例としてあげられる。

そうした「聖霊体験」「神体験」というものは、素晴らしい体験である。
ただ、そうした体験を「聖霊のバプテスマ」と呼称することは、聖書に裏付けされるものではない。

異言が現れないままに、聖霊を受けた、と主張することはできるが、証印、として現すことはできないだろう。
異言が現れているのであれば、聖書の記述に照らし合わせて、証印、と主張することができる。
それが、聖書に則しているものか、聖霊によるものか、という考察は、次の段階において検討されるだろう。
少なくとも、自然ではない現象、(それを不自然とするか超自然とするかは別として)、現われをもって主張することができる。


追記②:間違い

「異言がない⇒聖霊がない⇒救われていない」という思考は、聖書に根拠をもたない。
一部において、そうした主張があったことは残念至極。


@ローマ8:9ー10 恊共訳
ロマ 8:9 しかし、神の霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉の内にではなく、霊の内にあります。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。
ロマ 8:10 キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、霊は義によって命となっています。

「キリストの霊を持たない者は、キリストに属していない」
というのが聖書の提示。
聖霊を持たない者は、とは書かれていない。

キリスト者は、「キリストの霊」を受けているゆえに、キリストの肢体とされている。



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