「今を生きる」は紙一重のようで全く別物
昨日の記事の続き。
仏教や西洋思想でも「悟りを得るには欲を捨てろ」とか「禁欲」と言ってるのは、全部為政者が都合よく皆を支配するためのインチキなのは本当だけどね。
だって事実はその真逆だし、実は「悟り」もイメージしてるのとはだいぶ違うよ。
(それは結構前から知ってたから、「高次」に昇る概念がバカバカしく思ったのはある。)
※余談
私がこれまで投稿してきた「謎の覚醒体験」にまつわる日記や夢分析は、既存の宗教やスピリチュアルの文脈における「悟り」とはおそらく別物である。(だって苦しくなかった。楽しかったもん)
あのレベルの「脳の電気反応(プラズマ化)」は統失のような症状を引き起こしても不思議ではないが、むしろ正気を保っていたのが通常ではありえない現象かもしれない。ただ、類似体験が見当たらないのでその点は何とも言えない。
三大宗教のほかにある新たな何か……かもしれないね。
いろいろ変な記事を投稿してしまって、改めて理性のブレーキが緩んでしまったのだなと思った。
私は元々「話が飛躍する+主語や一貫性あるテーマの欠如」の問題を抱えている。
特に一見関係なさそうなことに「関連付け」を行う癖がついてるせいで、記事の構成までおかしくなることがある。
しかも読み手にその意図を伝えないせいで、読んでいる最中に頭に疑問符「?」浮かべることもあるかもしれないが、それは単なる私の「症状」や「暴走」だと思ってほしい。(恥)
※それを踏まえて本題に戻る
そしてエネルギー覚醒は、ドラゴンボールのような「力の覚醒」だと半分本気で思ってる。なぜなら世の中を「悟って」しまえば無力なモブとして権力に逆らうことはできないが、「力の覚醒」が進めば本当にエネルギーで溢れるからだ。
それで悟りを得るためには「修行」や「苦行」が必要というのも嘘である。力をつけるために修業するのは一向にかまわないが。
だから、このような苦しい症状になるというのは、もう単に「修行」や「無我」による「ストレス溜めすぎ」のせいでは?
それはまんま自ら精神疾患になろうとダイブしてるよね。
私が哲学や宗教方面にあまり関心が持てず、植物学や腸内細菌に関心惹かれたのは、そういう自己防衛があったからなのかもしれない。
というお話でした。