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説明できない病を治したい?

なぜ先ほどこのような記事を書いたのかというと、私がnoteに投稿した内容も悉く「話が脱線」して「軸がブレて」いたり、そもそも何の話題なのか分かりにくいのが多かったから。

文章術や構成のイメージなど色々あるけど、当たり前のことが苦手だ。
ちゃんと「文章化」しようとすると、「閃いた!」ときの新鮮さは失われていくし、全く感情が籠もっていないかのようになる。

初めは楽しい気分だったのに、だんだん息が詰まっていく。

もちろん、文章を書いている時に本人が持っている気質が表れるとは限らないし、ペルソナ(思考のフィルター)を通してることが大半だろう。

でも私はちょっと気を抜くと、イメージだけで語り始めようとする。

むしろこれがペルソナ脱いだ状態に……近いけど。



もし自分が研究職だったらと想像する。
理系の大学教授なら、大半の人にとって訳が分からないことを言っても許容される。

広い入口 → 狭まる出口


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もう一度、漏斗をイメージしてみよう。
情報が水のように入ってきて、それを段階的に濾過しながら、ゆったりした落下していくのは「抽象化思考」。

そして急速に落下するのは「メタファー思考」である。
漏斗の先まで落ちた瞬間、ブラックホールのように「次元のゆがみ」が発生し、思考の飛躍が起こる。

一方で思考の連鎖的拡大(可能性の放射)というのは、ホワイトホールからのエネルギーの放出に似た現象なのだろう。



抽象化思考やメタファー的認知が強いと、わかりやすい言葉に「変換」するのが本人にとっては難しい。またはいったん時間をおく必要がある。(再解釈とも言う)

すると2つの選択肢を迫られる。

・理解されなくてもいいので、独自言語(メタファー思考)をそのまま使う
・理解されて影響力を与えたいので、説明できるように工夫する

1つ目の選択は放棄すること。「理解されたい病(=承認欲求)」を完治しない限り、自分は特別あるいは天才だから、他の人は自分の価値を認めないのだという妄想に嵌まる。

中にはこのような『ギフテッド』も存在するが。

2つ目の選択は努力すること。どちらにせよ、「理解されたい病(=承認欲求)」を治さなければ、他者の視点を得ることは出来ない。
自己という枠(防衛機能)に嵌まっている限り、一生思うようには行かないし、世渡りは上手くいかないし、お金も手に入らない。

世界に変容をもたらすってどういう状態なんだろう?


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