後編
今夜はツアーファイナル国際フォーラム。
その前に「心海パラドックス」ツアーを深く理解してほしいです。そのために必要な物語があります。Pay money to my Painの映画「SUNRISE TO SUNSET」です。
柳田周作は世界で1番好きなバンドはPTPだとずっと言っている。バンドを始める前の原点、弾き語りを始めたきっかけもPTP。
「心海パラドックス」ツアーが大阪から始まって、北海道福岡ときて、次の岡山公演の前日に柳田周作はPTPの映画を見に行ったと言っていました。
岡山公演のMC(おおまかな内容)
「ホールツアー前半、ライブがない時はずっと、どうやったら前回よりも良い公演をみんなに届けられるのか、どうやったらさらにより良いものを届けられるのかってことを考えていました。1人で夜中に考えて悩んだりしてました。
昨日、PTPの映画を観に行きました。PTPは、2012年にボーカルのKさんが亡くなってからバンドの活動が休止になりました。Kさんは31歳で亡くなったのですが、僕と亮介は今年で29歳、岳貢は30、よぴは28になります。Kさんが亡くなった31歳という年に近づいてきました。僕は今こうしてバンドを続けられているけれど、いつ終わるかわからないです。バンドは刹那的で儚いものです。僕たちも、もしかしたら映画の中の登場人物みたいにあと数年後にはいなくなっているかもしれない。バンドだけじゃなくて人は誰しも、いきなり事故にあったり、急に亡くなることもある。こうやって今ライブを見てきてくれるファンのみんなも、もしかしたら今日この公演が最期のときになるかもしれない。だから今日このライブが最後だと思って、命かけて死ぬ気でやります。
無限じゃないから儚くて、終わりがあるから大切で、煌めく今がある」
「ツアー中たまに身体的にも精神的にもしんどくなることがあって、そんな時はメンバーとか周りにいる大事な人たちに話して、頼ってきました。みんなも日常生活とかSNSとかでしんどいことがあって孤独になってしまった時は、家族とか恋人とか友達とか周りにいる大事な人たちに頼ってみてください。
もしそんな人すらいないって人がいたら、その時は神サイがいます。僕たちを頼ってください。
ライブしてみんなの顔見たら、なんかモヤモヤが晴れました。本当にありがとう。」
僕はこれを聞いて、柳田周作が前半に感じてたモヤモヤはホールツアー故の葛藤だと考えました。
ツアー前のインタビューではホールツアーは感情だけで乗り切ったようなライブでは通用しない。ライブハウスとは違う、ホールならではの魅せ方をしないといけないと言ってました。実際、僕もホールツアーにたくさん参戦してみて、ライブハウスと比べてお客さんは盛り上がり辛いし、キャパが広い公演はライブというよりショー、コンサートのニュアンスが強いと感じました。柳田周作は「心海パラドックス」ツアー、つまり感情の揺れ動きを見せて、お客さんの心の琴線に触れることを目的としたツアーなのに、自分たちが感情をむき出してもお客さんに全部を届けるのがなかなか難しい、とか自分たちの魂の塊の純度がキャパが広いと薄まってしまうんじゃないかとか、自分たちが押すだけじゃなくて引いたりしてバランスをとらなければいけないんじゃないかを悩んでいてモヤモヤしていたんだと考えました。
でもPTPの映画を見て、岡山でライブをして、モヤモヤが晴れてスッキリしたのは、会場関係なく、感情をむき出しにして、死ぬ気で命削ってライブをすれば、毎回人生最後だと思ってライブをすれば、目に見えない想いは届く。人の心の琴線に触れられると気付かされたからだと思いました。会場関係なく、結局、小さいライブハウスでやる時と同じマインド、1人に向けてやる気持ちでやらなければいけないんだと。岡山のライブでは、行った人たちの多くが過去一だった、一生忘れられないライブになったと口を揃えて言っていて、神サイの気持ちは1人1人に届いたと思います。
PTPの映画は、もうほぼ公開期間が終わっています。僕は4回見てきました。ネタバレ含めた大事な内容を説明すると。
Kさんが亡くなった後、残されたメンバーで大きなライブをします。Kさんが歌うはずのボーカルを後輩バンドマンに歌ってもらったり、音源や当時のライブ映像を流して、PTPとして成立させるというライブです。映画の中でとても気になったセリフがあります。
「Kあいつはいつも愛に飢えてるやつだった。みんなにこんなにも愛されていたのに全く気づかないで、もっと愛してほしいってずっと言ってた。」
「俺はKに憧れていたところがあって、それは200点のライブも20点のライブもできるところ。それだけ、その時の感情の振り幅をライブに反映できる。それってなかなかできないことなんだよ。本当に憧れてた。」
「Kがいなくなって、残された俺たちは本当に苦しくて、苦しくて、心にぽっかり大きな穴が空いてしまいました。ファンのみんなもそうだと思う。俺はそのことばっか考えて毎日生きていたら、途中で気づいたことがある。この穴っていうのはKそのもの。みんなも穴空いてると思うけど、それはK自身だから。あいつが空けた穴だから。俺はその穴を塞がなくて良いって思った。穴はKそのものだから。その穴と一緒に俺はこれからの人生を笑って笑ってアホみたいに笑いまくって生きていこうと思ってます。俺はドラムずっとやり続けるからみんなとライブでまた会えたら、どっかで会えたら一緒に酒でも飲めたらいいなって思います。Kのこと忘れないでください。」
ギターPabloさん
「PTPの音楽は鳴り止まない。今、みんなもこーやってライブでたくさん声出してPTPの音楽の一部になって、鳴らしてくれよ。みんなが歌ってくれる限り、PTPの音楽は止まらねえから」
「俺は、PTPは、Kは、まだ死んでないと思うんだよね。記憶から忘れられない限りあいつらは、まだ生きてんだよ。」
ワンオクTaka
「Kのような今にも壊れてしまいそうなシンガーが命を削って作った作品がみんなの心に残ってそれがずっと歌われ続けてる。それは本人にとって本当に嬉しいことだと思う。俺もVoiceを歌ってるときにKの顔が浮かぶし、声が聞こえてきて、ずっとそばにいてくれる感覚になる」
coldrain Masato
「これは俺の個人的解釈なんですけど、PTPは平たく言えば、超売れまくったバンドじゃないと思う。全然知らなかった人もいたと思う。でも、そのかわり、PTPは刺さった人たちの人生を変えてるバンドだと思う。1人にぶっ刺して、刺されたそいつの人生がすごく変わるくらいの衝撃を与えたバンドだと思う。それって本当に凄いことで、今の俺たちがそれできてるかって考えたらまだできてないと思う。俺たちは武道館も横アリもやったし、PTPより知られてるかもしれないけど、絶対敵わないんだよな。もういないから一生勝てないんだよな。悔しい。(泣きながら)本当だったら武道館も横アリもブレアフェスも全部見せたかった。見ててほしかった。」
Kさん 生前の映像
「ファンのみんな。人生楽しんでくれよな。でも痛え時は痛えって言っていいし、ねむてぇときは寝ればいいし、素直に自由にやってくれよ。たまにさ、1人じゃきついなって思う時がきたらさ、周りにいる大事な人たち、家族とか恋人とか友達とかさ、頼ってみてくれよ。もしそーいう人すら誰もいないんだったらさ、俺らがいるから、いつでも頼ってくれよ。とにかく、人生は楽しむもんだからさ、楽しく生きてくれよ、それだけ」
これらの言葉を聞いて、僕はこう思いました。Kさんがいたという証は身内の方々、関係者たちの記憶に刻まれているけど、音楽にすることで、ライブをすることで、元々は関係がなかった、さらにたくさんの人たちの記憶に刻まれる、その人たちの人生を変えるものとなっている。音楽を聴くことで、ライブ映像を見ることで、いつでもKさんの記憶を思い出せて、Kさんを近くに感じれる。肉体はもうないけど、魂は、意志は、まだ生きてると思える。その人の全てを直接理解することは、近くにいる大事な人たちじゃないと難しい。限界がある。
だけど、その人が作った音楽を聴くことで、音楽を仲介することで、その人の魂を感じられる。魂に触れることができる。
神サイが音楽をやる理由はilluminationに込めた想い。自分たちが燃え尽きて、いつかいなくなったとしても音楽は残り続けて、自分たちの魂は、生きた証は永遠に残り続ける。神サイの音楽はどうしようもなく孤独で寂しい人のそばに寄り添える。いつも変わらず同じメッセージを届けてくれる。神サイは身を削ってでも死ぬ気でライブして、生きた証を刻みたいと思っている。これはPTP、Kさんと同じだ。柳田周作は10年以上前にPTPに出会って、それを受け取り、神サイを始め、Kさんの魂、意志を継いだ。
illumination
→人工の光→偽物の光
でもいつか本物の光を放つ星になりたい
「あの星のようにいつかは僕も輝けるかな?」
あの星になりたい、starになりたい
I wanna be a Rockstar.
いつかロックスターになりたい
なぜ神サイは「星」になりたいのか?
→僕らがいなくなった後も、みんなの記憶の中でずっと生き続けたいから
→ずっとみんなのそばにいたいから
→ Zeppツアー パーカーの裏の英文
When your heart feels weak, when you are
in pain,or even when it becomes hard to live,
even if there is no one by your side, we will
be there for you.
Our music is always on your side.
We would tell you, It's okay, everything is
gonna be alright.
あなたの心が弱くなった時、
苦しくて、生き辛くなった時、
もしそばに誰もいなかったとしたら、
僕らがあなたのそばにいます
僕らの音楽がいつもそばにいます
僕らはあなたに伝えにいきます
「大丈夫、全部うまくいくよ」って。
→星になってずっと見守るよ
・No Matter Whatの歌詞
No matter what anyone says,don't give up.
誰に何を言われようが、諦めない
No matter what happens,I will stand by you.
何があっても僕がずっと味方だよ
→僕らの音楽は
どんなことがあってもずっと君の味方だよ
音楽は本当に凄い。
「音楽を介すること」で、できること、意味は複数あると僕は思う。
①自分の人生における昔の細かい記憶を思い出せること
僕は小学校の時、流行りのJPOPをよく聴いていた。それを今になってたまに聴くと、その当時、小学校の時の細かい記憶まで鮮明に思い出せる瞬間がある。これは本当に凄いことで、大人になって完全に忘れていた子供の頃の感情を思い出せる。それはその音楽が自分の人生の一部になっていたから。
②直接人に相談できないような悩みでも音楽を介することでその人の悩みを間接的に理解できること
自分のパーソナルな悩みを人に相談できなくて、孤独になってる時に音楽を聴く。音楽が唯一自分に寄り添ってくれて救われた夜がある。同じように人に言えない悩みを同じ曲を聴いて救われた人間を見つけた時に間接的にその人と繋がった。理解できた気持ちになれる。柳田周作が影響を受けた、人生にブッ刺さった曲と僕の人生を変えてくれた曲が同じだったことがあって、その時、柳田周作の気持ちが間接的にすごく分かった。繋がれた気がした。柳田周作もKさんに対してそうだった。
③本人がこの世からいなくなってもその人の魂、目に見えない大事な想いが詰まった音楽は一生残り続けること
これはPTP映画と神サイilluminationの話と同じ。
④ファンもアーティストが作った音楽の一部となって、その音楽を鳴らし続けられること
ファンはアーティストの曲をライブで演奏することはできないと僕はずっと思っていた。だけど、ライブでファンが声を出してくれることで初めて曲が完成するからみんな声を出して神サイの音楽の一部になってほしいと柳田周作が言っていた。ファンも神サイの音楽を鳴らすことができるんだと感動した。(Zeppツアーファイナルのillumination声出し)
僕は神サイメンバーをそれぞれ愛している。でもそれ以上に神サイの音楽を愛している。「音楽を介する」ことで本人たちが更なる意味を持たせられるからです。皆さんも神サイ自身だけじゃなく、神サイの音楽を愛してください。本人達はそれが1番喜びます。自分たちが燃え尽きても永遠に残り続けるから。
そして、今夜の国際フォーラム、ファイナルで「心海パラドックスツアー」という作品が完成する。公演ごとにアレンジを変え続けて、どんどん進化していったものがファイナルの東京で完成を迎える。神サイファンも本気で声を出すことでその完成品の一部になれる。神サイの音楽を自分たちの力で鳴らすことができる。今夜のツアーファイナルが楽しみになってきたでしょう。
ここから前編の最後の話に戻ります。伏線回収。
告白は遺書。前半は自殺の歌。という解釈。
でも間奏の後のラスサビからガラッと変わる。
どうせいつかいなくなるけど
もらった分だけ返せたらなって思うよ
愛してるよ 愛されていたんだよ
生きて今日もこうして歌っているんだよ
君に歌っているんだよ
さっきまで独りで死のうとしてた男が急に、人からもらった愛を歌っている。すごく引っかかったのでどーいう心境の変化なのかずっと考えてみた。ツアー初日大阪で初めて告白を聴いて、バンドによるライブアレンジがされているのを見た時、僕はある曲を思い出した。The 1975のI Always Wanna Die (Sometimes)です。
曲名は「いつも死にたくなる、時々ね。」
この映像を見ると分かることが、ホールで、アコギボーカル、他メンバーはバンドアレンジで演奏している。そして、サビの「いつも死にたくなる、時々ね。」をお客さんみんなで大合唱している。
歌詞も分かりやすく、死を歌っている。自殺についての曲です。しかし、そんなに暗さは感じなく、ファンも合唱しているし、popに聞こえなくもない、そんな曲に見えます。この矛盾も「心海パラドックス」だと思いました。
I Always Wanna Die いつも死にたい
の最後に
Sometimes 時々ね
をつけることで「いつも死にたいって"たまに"思うだけだよ」と絶妙に意味が変わってくる。
僕は「告白」はこの曲の影響を受けて作ったのかなと考えました。Zeppツアーの「徒夢の中で」のアウトロアレンジもThe 1975のLostmyheadから影響を受けている。神サイはみんなThe 1975が大好き。
歌詞
I bet you thought your life would change
But you're sat on a train again
Your memories are sceneries for things you said
But never really meant
「いつかは僕の人生も好転するはず」
君はそう思ってたんだよね
だけど君は変わらずいつもの電車に揺られてる
思い出、それは君の言葉が紡いだ架空の風景
そんなつもりじゃなかったと後悔した言葉達のね
You build it to a high to say goodbye
Because you're not the same as them
But your death it won't happen to you
It happens to your family and your friends
I pretend
さよならを伝える為に高くそれを築いていく
だって君はあいつらとは違うから
でも君の死は君には起こらない
君の家族と友達に起こるんだ
俺はそういうふりをするよ
→
「さよならを伝える為に高くそれを築いていく」
ここで「それ」が何なのか明確にしなかったのは、ここに二つの意味が込められているとファンの間で推測されてます。
一つ目は「壁」
死による別れを覚悟し、大切な人達との間に壁を築く。死を覚悟するとは言ってもまだ決めかねている状態。
→「告白」の
「どうせいつかいなくなるなら僕の全てを是が非でも遠ざけて」と同じ。
この後、いなくなるから大切な人との間に壁を作って遠ざけようとしてる。
二つ目は「土台」
首にロープを巻き、最期の準備をしている。その最後に必要になるのが土台です。
全てにさよならを伝えるため、高く高く土台を積み上げていく。
And I always wanna die, sometimes
I always wanna die, sometimes
そうやっていつも死にたくなるんだよ、時々ね
いつだって死にたいと思ってる、時々ね
You win, you lose, you sing the blues
There's no point in buying concrete shoes
I'll refuse
誰かと競おうが、何を歌おうが、全ては君の自由
でも自分から死ぬ必要だけはないんだ
そんな最期は嫌だよ
→自殺を否定している。さっきまで死にたいと言っていたけど、今は死ぬ必要はない。感情が揺れ動いている。心海パラドックス「生きるか死ぬか」で。
And I always wanna die, sometimes
I always wanna die, sometimes
I always wanna die
それでも時々、死にたくなるんだ
いつもたまに消えたくなるんだよ
そう思わない時なんてないんだ
Am I me through geography?
A face collapsed through entropy
I can hardly speak
And when I try it's nothing but a squeak
On the video
Living room for small
If you can't survive, just try
死んだら僕は僕じゃなくなるのかな?
壊れた世の中が僕の顔を崩れさせていく
言葉を発するだけで精一杯で
話そうとしても出るのは小さな叫びだけ
ビデオの中でさえ 僕の居場所は狭くて小さい
消えてしまいそうならやってみるだけでいいんだ
And I always wanna die, sometimes
I always wanna die
Always wanna die
Always wanna die
Always wanna die
And I always wanna die
Always wanna die
Always wanna die, sometimes
それでもやっぱり死にたくなるんだよ、たまにね
ずっと死にたいと願ってる
終わらせたいと願ってる
死にたいんだ
終わりにしたい
消えてなくなりたい
でもその死にたいって気持ちは永遠じゃない
ずっとは続かない
Sometimes
Sometimes
Sometimes
たまに思うだけなんだ
I, sometimes, always wanna die
Always wanna die
Always wanna die
Always wanna die,
sometimes
それでもやっぱり死にたくなるし
居なくなってしまいたい
いつも死にたくなるんだ
そう、いつも死にたいんだよ、
時々ね。
この曲の救いは1番最後の歌詞が「sometimes」なことです。時々ね。で終わらせてる。
"いつも死にたいんだ、時々"
というのは、矛盾しているようでリアルな言葉です。いつも死にたいけれど、いざとなると迷いが生じる心境を上手く表現しています。心海パラドックス。
また、この歌詞は飛び降り自殺における葛藤を示唆しているのではないかとファンの間で推測されていました。電車に飛び込めず、高い場所に行き、飛び降りることを想像するけど、一瞬で地面に埋まって顔が崩れてしまうのが怖い。死んでも自分は無になるだけで、実際に死を受け止めるのは家族や友人。生々しくて、考えるだけで辛い。それでも、死にたい気持ちをありのまま書くことで、かえって生への希望が感じられます。「死んだらこんなものだから、とにかく生きることを試してみて。俺はまだ死なないよ。」という優しさと希望が垣間見えます。否定することも肯定することもなく、ただ「死にたい」という気持ちの側に居てくれる。
そんな美しくて優しい「自殺についての曲」です。
改めてもう一度聴いてみてください。
「いつも死にたい、時々ね。」ってみんなで合唱してる瞬間がとても美しく感じます。
「告白」でも、前半は遺書として大事な人たちを是が非でも遠ざけておきたい、纏わりつく温もりを振り払いたいという気持ちがあったのに間奏を終えて、ラスサビになると大事な人たちから愛されていたんだと歌っている。
どうせいつかいなくなるけど
もらった分だけ返せたらなって思うよ
愛してるよ 愛されていたんだよ
生きて今日もこうして歌っているんだよ
君に歌っているんだよ
ここから個人的解釈です。賛否両論あると思います。どうせ死ぬんだったら誰かのこと思い出さないようにいっそ独りにしてほしい。って思ってたのに、間奏で今までの人生全てを思い出す。走馬灯のように愛してくれていた人たちの顔を思い出す。自分は色んな人たちに愛されていたんだ。
と気がつく。そして、ラスサビで愛を歌い出す。
これは心境が180度正反対になったわけじゃないと思います。
孤独という感情は相手がいるから発生すると思います。悔しい、寂しいっていうのも、誰かのことを思いながら言ってると僕は思います。もし生まれてから死ぬまで無人島にいたら誰かの存在を知らないから寂しいって感情は生まれてこないです。人は独りで生まれた後に誰かの手に抱えられて、独りじゃないと知る。誰かの存在を認識して
大切な人だと思って、その人がいなくなる時に強い寂しさを感じる。だから、柳田周作は告白で、独りにしてほしい、優しくしないでほしい、是が非でも遠ざけたいと言っているけど、心の奥底では「誰かに助けてほしい」と思ってます。僕はたくさん神サイのインタビューを読んできました。ある記事に書いてくれてありました。柳田周作は今までの人生で大切な人たちがいなくなって本当に虚無に襲われて、この先もまた大切な誰かが自分のもとからいなくなるんじゃないかと何度も不安になってしまうそうです。ネガティブ思考すぎるそんな自分も嫌になって、自分を無価値だと思い込んで、たまに人生を終わらせたくなってしまう。「僕だけが失敗作みたいで」でも同じ。だけど、本当は誰かから全肯定されて、必要とされたいんですよ。音楽が売れることよりも、お前だけがいてくれたらそれだけでいいって言ってくれるたった「1人」に愛されたい。それは、なんでかと言うと、1回でも大きな愛を知ってしまったから。どうしたって温もりが纏わりついてくる。その人のことをどうしたって忘れられない。だから強い孤独を感じるし、愛も人一倍感じる。
「1人」と「独り」は違います。
「独り」はどことなく寂しさや孤独感を感じるもの。自分の代わりなんていくらでもいるんじゃないかと思う気持ち、それが「独り」。
一方で、「1人」は、どう考えても自分という存在はここにしかいないということ。自分と同じ人間はこの世界のどこにいない。いわゆる個としての「1人」。個として「1人」であるからこそ、個性があって、他人から面白いと思われ、誰かと繋がって向き合うことができたり、逆に、噛み合わなくて、喧嘩して寂しさを感じたりする。
「僕にあって君にないもの」で歌ってるように「1人」の人間だからこそ個性があって凹凸している。不完全である。でも、完璧な人間はこの世に存在しない。全ての人間は不完全である。だからみんなそれぞれのコンプレックス、弱さ、傷、穴を抱えている。それを周りと比べて、劣等感を感じて、「独り」になってしまう。でも比べないで分かち合えばいい。人より優れてるから価値があるとか人より劣っているから無価値とか人を損得で見るんじゃなくて、人の弱さを受け入れて自分の弱さも受け入れてもらう。弱さは絶対に分かち合える。なぜなら完璧な人間はこの世にいないから。凹凸が一歳ない、丸い形の完璧人間はこの世にいない。お互いの歪な個性、凹凸を分かち合えば、ピースが噛み合う。未完成のイラストレーション余白を僕で埋めて
弱さとは「独り」の僕たちが、
「1人」であり、不完全な僕たちが、
誰かと生きるための種だから。
その弱さが人と人を繋げてくれる。
本当はずっと誰かと一緒に生きていたいんだ。
人と生きていくために神サイは音楽をやっていると思う。
告白は「遺書」を音楽にすることで
「遺書」から
みんなへの「手紙」に変わっている。
「みんなとずっと生きていきたい」
という手紙に変わってる。
これが音楽をやる意味。
ホールツアー新潟公演の告白で
柳田周作はこう叫んでいた。
「愛してるよ
愛されていたんだよ
生きて今日も
こうして歌ってるんだよ
今日も!!!
明日も!!!
明後日も!!!
今日が終わっても!!!
心の中で鳴り響くように!!!
歌うよ!!!
君に!!!
歌ってるんだよ!!!
神サイの音楽は今日が終わってもずっと僕の心で鳴り続けている。今も。
「I wanna be a Rockstar」
みんなから人気で、強くてかっこいいロックスターじゃなくて、
君1人、あなたに
とってのロックスターになりたい
僕も君と同じだよ「Same as you are」って言って、君の孤独な夜に寄り添って、
君が「白線を超えないように踏み止まらせる」
そんなロックスターになりたい
柳田周作
「俺がロックスターなんじゃない、
"俺たち"でロックスターになるんだ」
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