【散文】正しい文法表現について
正しさについて考えてみました。画像はTwitterで小さいものを食ってるおじさんです。
容認性/容認度
先日ドイツ語学の授業で、「容認性/容認度」という言葉に初めて出会いました。
言語学において容認性/容認度とは、母語話者がその文を違和感を感じずに受け入れられること、または受け入れられる度合いを示すものだそうです。(私は歴史学徒なので、ホラ吹いてたら玉川上水に飛び込んで詫びます😢)
また授業では、「文法的には正しいが容認性の低い文」について言及がありました。
文法的には正しいけれど、母語話者には受け入れ難い文ってどんな??
というわけで、具体例を考えてみます。
①と②は説明のしすぎな感じがしますね。正しいけど母語話者はまず使わなさそう。③は助詞の「の」が沢山並んでいてモヤモヤします。④は口語表現や最近の小説で用いられると違和感を覚える人の方が多いかな? と思って例に挙げてみました。
詩や歌に出てくる表現はどうでしょうか。現実を逸脱した日本語も沢山みられますが、不思議と受け入れられますね。
文法的に誤りかと問われると、誤りではない。誤りではないが、母語話者は違和感を覚えることもある。「正しさ」の定義、難しいな~と思いました。
私は日本語の例しか挙げられましたが、英語や中国語の「文法的には正しいけれど母語話者は違和感を覚える」文章はどのようになるのでしょうか……私、気になります!
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話はここで終わりません。「正しさの定義」と関連して、「正しい◯◯語」についてもう少し考えてみようかな~と思います。
正しい◯◯語
私は大学3年と4年でいくつか言語学の授業を受講したのですが、その中で辞書には2種類のタイプがあることを知りました。
ずばり、記述的態度と規範的態度です。記述的態度とは実際の使用例に基づく主義であり、規範的態度は文法的な正しさを重んじる主義になります。
ウェブスター辞典第3版の例がわかりやすいかと思います。ウィキを貼っておきます。
「『Ain't』を巡って」という項目です。簡単に説明すると、1961年に出版されたウェブスターの第3版に「ain't」が載っていたことが、教養のある人の間で炎上したという事件になります。どれくらい炎上したかというと、風刺画が描かれたくらいです。
以下は授業で使用した教材からの引用になります。
あそこの出版社は受付係ですらいい加減な言葉遣いだ、という皮肉でしょうか。暇か! と思いましたが、当時の一部の人たちにとってはそれだけ衝撃だったのかも……
現代日本で例えるとなんだろう。「やばい」が国語辞典に載って怒る人とかいたんだろうか。
とにかくこの事件からわかることは、ウェブスターは記述的態度に走ったが、一部の人々は規範的態度を求めていたため炎上した、ということです。
我々の身の回りにある辞書はどうなんだろう? と疑問に思い、家族と三省堂国語辞典の第7版を調べてみたことがあります。
「全然」を引いてみました。本来は後に打ち消しを伴う副詞ですが、「『全然』大丈夫だよ~」という使い方もしますよね。
果たして、後者の用法の記載もありました! ほ~ん。
まとめ
文法的な正しさの定義について考えるには、語の権威を何と定めるかで大きく変わってくると思います。それは辞書であったり、アカデミー・フランセーズや国語審議会のような組織であったりと様々です。実際の使用例を最も重視すべきだという人もいるでしょう。
私はよく間違った日本語を使うくせに、他人の間違いに厳しいという厄介な人間です。
怪しい文章に触れ、「そんな表現辞書に載ってないだろ👿」としばしば意地悪な気持ちになることがあります。
しかし、その「辞書」は絶対的に正しいと言えるのでしょうか。言えねーよな! 愛美愛主潰すぞ! とマイキーの主張するように、正しい◯◯語などないのだと思います。
前述した「容認性」のトピックであったように、文法的に正しくても違和感を覚える表現は成立します。母語話者が違和感を覚えるなら、文法の見直しが行われるべきだと私は思います。
また、「正しさ」は時代によって変化します。本来の意味と真逆の意味が、共に辞書に並ぶことも起こりうるでしょう。誤った表現でも、沢山の人が使い続ければ「正しく」なるのかもしれません。その場その場で適した表現を選べるよう、多角的な視点で正しさを検討していきたいですね。
結構きれいにまとめられたのでは?! ここまで読んでくださりありがとうございました!!
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