鈴木信雄ほか「新版 経済思想史 社会認識の諸類型」より

日本のように内需の割合が大きい国の場合、売買は単なる価値の移動に過ぎず、誰かの利益が誰かの損失になることを考えるとプラスマイナス0ではないか?という疑問(というか不安)がわいてくるが、これについてはマルクスの剰余価値による説明で理解できる。長くなるが石塚良次氏の説明を引用しておく。

剰余価値が生み出されるメカニズムに関するマルクスの説明は簡単にいうと次のようになる。資本家はまず自らの貨幣で生産手段(機械や原材料)と労働力をそれぞれの市場で購入してきて、商品を生産し、その商品を販売する。そうして回収された貨幣で再び生産手段と労働力を購入し、というサイクルを繰り返す。いま資本家は、小麦を生産するために、原料としての小麦(種として使う)一万円分と労働力八時間を一万円で購入して一日に小麦三キロを生産し(小麦が一日で生産されるはずがないのではあるがこれは極端に単純化したモデルである)、一キロ一万円で販売したとする。
 労働者は生きてゆくためには消費財を消費しなければならないが、いま極端に単純化し、生きてゆくために必要な消費財は一日当たり平均で小麦一キロに相当したと仮定する。ここでは全ての商品は、その生産に要した労働時間に比例して価格がつけられると仮定する。その原理を労働力という商品にも適用するならば、その労働力の価値はその生産に要した「原材料」の価値ということになり、この場合は消費財である小麦一キロ分の価値(=価格)が労働力の価値である。したがって、資本家が八時間分の労働力の対価として一万円を支払ったのは、商品交換のルールに則った等価交換であるということになる。労働者は一万円の賃金で小麦一キロを買い戻し、自らの労働力を再生産することができる。
 結局、資本家は、原材料として一万円、労働者への賃金として一万円を前払し、出来上がった生産物を販売して三万円を得たのだから、一万円が手元に残ったことになる。これが剰余価値であり、利潤として資本家の所得となる。

P119石塚良次「I-8カール・マルクス」