あなたの笑顔を願い続けた男
携帯電話が鳴る。
A子からだ。私たちは付き合って半年になる。それでも毎日のメールや電話のやり取りは欠かさない。
コウケンテツのレシピ本を見ながら晩御飯を作り、1人部屋で食べていたときに電話が鳴った。
「もしもし、どうした?」
明るく話しかけてくるものと思っていたから、電話向こうの泣き声に面食らう。
A子は泣きじゃくり、なかなか言葉にならない。
「どうしたん?何があったん?」
できる限りの優しい声で問いかける。
「わたし、、、
わたしね」
なにかすごいイヤな予感がする。
「ガン、だって。今日検査の結果が出たの。
ねえ、どうしよう」
再び泣き崩れるA子の声を聞きながら、文字通り目の前から世界の色が消えた。
🟰🟰🟰🟰
次の日私はパソコンで絵を描く為のペンタブを買った。脈略ない行動と思うかもしれないが、決して頭がおかしくなったわけではない。
昨日のA子の電話の後、私は彼女にできることが何か必死で考えた。
いや、考えるまでもなく答えは一つだった。
その一つの思いを伝えるために私はペンを手にしたのだ。
どんなに耐え難い現実だとしても朝は普通にやってくる。仕事だって簡単に投げ出すことはできない。A子の泣き顔を思い浮かべては胸が苦しくなり、涙が出てくる。
それなのに周りの世界はそれまでと何一つ変わらない。
🟰🟰
それから数日してやっとA子と会うことができた。あの日と比べると泣いていない分落ち着いているように思えるが、本当にお人形さんのように表情が消えてしまった。
私は極力明るい声で話しかける。
会社であったおもしろいこと、変な同僚の話。
前なら大声で笑ってくれたはずなのに。
私の話がつまらないのか、話すことが下手くそになってしまったのか、今のA子には届かないのか、理由は何でもいいがほとんど反応はない。
ある日A子のお母さんにも会って話をした。
別れてくれていいよ。と言われた。まだまだ人生長いんだからわざわざ重荷を背負う必要はないと。
ドラマみたい、と他人事のように思い、別れません、とだけ伝えた。
🟰🟰🟰
その日はA子の通院に付き添った。
前回よりも詳しい検査の結果が出ると言う。
何かの間違いであってほしい。いや、間違いだったのではないか。
大丈夫。
そう言ってあげたいけど口には出せない。
間違いじゃなかった時に、大丈夫じゃなかった時に、より一層A子を傷付ける気がするから。
A子はふと目を離した隙にシャボン玉のようにパッと消えてしまうんじゃないか。
そんな不安が常につきまとう。
A子が割れてしまわないように、自分はどうすべきなのか。答えなんてない。
長い長い検査結果待ちの時間。
そして呼ばれる。
先生が検査結果を告げる。
やはり間違いではなかった。
もう間違いを期待することもできなくなってしまった。
手で顔を覆うA子。
しっかりしなきゃって家を出る時決めて来たのに、いざその場になるとオロオロする自分。
でも、先生は希望の言葉もくれた。
「このまま悪くなる患者さんもいらっしゃいますが、回復する方もいます。自分の力を信じましょう。ね。」
🟰🟰🟰
それから定期的な通院と検査を繰り返す。
私は家で毎日絵を描く。
そんな日が2ヶ月ほど続いた。
そして、あの日の電話の後、私が決めた強い思いを伝える時が来た。
A子を家に呼んだ。ご飯作ったから食べにきてと。
お品書きも作ってテーブルに置いた。
花も飾ってみた。
品数は4品と少ないけれど、コース料理風にしたから是非食べて欲しいと伝えた。
ご飯を食べながら少しA子の表情が戻った気がした。
食事の後、パソコンの前に座らせる。
「ちょっと見て欲しいものがあるねん」
そして用意していた画面の再生ボタンを押す。
画面からは中島みゆきの『糸』が流れる。
🟰🟰
あるところに男の子と女の子がいました。
男の子はその女の子のことがだいすきでした。
けれど女の子はこころにキズを負っています。
女の子は笑いません。
男の子は女の子に笑ってほしくて花を渡します。
女の子は笑いません。
男の子は女の子の前で歌ってみせます。
やっぱり女の子は笑いません。
男の子は意を決して女の子にこういいます。
結婚しよう
その言葉に女の子はとうとう笑ってくれました。
2人はてをつないで歩き出します。
森を歩けば2人の後に花が咲きます。
あか、あお、きいろ、しろ、むらさき
森が色とりどりの花でいっぱいになりました
2人はまだまだあるきます
2人の歩いたあとには虹がかかります
虹のいちばんてっぺんで
ふたりは見つめあって笑いあうのです
🟰🟰
そんな動画をA子に送った。
終わったと同時に
あの日の電話をくれた後、泣きながらも
でも強く自分の中に残った気持ちをやっと伝えた。
「結婚しよう」
声は震えていたかもしれない。
でも、きっとどんな病気にも負けない。どんな逆境にも負けない。
これまで生きてきて、一番強い気持ちでA子に伝えた。
A子は笑ってくれた。
泣きながらも力強く笑ってくれた。
やっと世界に色が戻った気がした。
🟰🟰🟰
あれから12年。
ガンは見えなくなってくれた。
あの日妻が私に勇気をくれて、その結果彼女は元気になれた。
今では当時のことを思い出す余裕もないくらい毎日育児や家事に忙しく過ごせている。
人生何がキッカケでどうなるか分からない。
きっとこれからも色々なことが起こるだろう。
そんな時、決して負けない為にも、あの時の強い気持ちを忘れちゃいけないと思う。
毎日そばにいてくれてありがとう。
立派に子供を9歳と2歳になるまで育ててくれてありがとう。
喧嘩もするけど、ありがとうって言ってくれてありがとう。
普段は照れ臭くなっちゃうから言わないけどここでこっそり言うよ。
大好きだよ。君と出会えて本当によかった。
ありがとう。
まだまだ末長くよろしくお願いします。