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哲人政治について 自民党総裁選に想う


 先日、「ボス」ふたりと歓談していたら、口をそろえて民主主義制度はダメだといいはじめた。
 民主制よりも、すぐれた個人が政治を一手にになう方がよい、というのがかれらの一致した意見だった。
 民主制では、くだらない意見にふりまわされて、何も決められない。スピードも遅い。多数決では正しい解答は得られない、と。

 二人は、君もそうおもうだろう、と同意をもとめてきたが、そこは私のことだから、スズメ百まで踊り忘れず、たとえ相手が、私をかわいがってくれる敬愛する大先輩であろうとも、かれらの無言の圧力に屈することなく、最後まで否認しつづけた。

 第一に、どうやってその「すぐれた個人」をさがしだし、かれを権力者の位置につけるのか。第二に、だれが、「すぐれた個人」を認定するのか、また、しうるのか。第三に、そういう人がいたとしても、かれも人間であるからには、光もあれば影もある。
 以上の理由から、私はよき個人の独裁をみとめない。

 プラトンは「国家」においてやはり、傑出した個人による独裁制を主張している。
――いはく、哲人政治。

 しかし、第七書簡を読むと、古今を絶するこの大哲学者が、政治家としてはデクノボーにすぎなかったことが解る。
 さすがに晩年の「法律」では、意気軒昂たる哲人政治論はトーンダウンしている。世間の辛酸を舐めて、悟るところがあったのだろう。

自民党総裁選の「推し」

 要するに、かのご両人は、プラトンと同様に、民主主義に絶望しているのである。
 それぞれ、自民党に巨大な影響力をもっているのだが、今回の総裁選における党員の支持率をみて、その絶望感をさらにふかくしたようだった。

 それもそのはず、今回、支持率トップとみなされているのは、みなさんご存じの、あの人である。あえて名前は伏せるが、それはこの文章の目的が、かれを批判するところにはないからだ。そっちに目がいくと、私の主題がぼやける。
 とりあえず、A氏としておこう。

 世間はA氏の首班内閣に「哲人政治」を期待していると、私は考えている。そしてその期待はかならず裏切られることになる。

 ある議員が、A氏はたいへんいい理想論を語るが、それを実行する能力に欠けると批判していたが、それはちがう。
 かれのは、理想論ではなく、「形式論」にすぎぬ。したがって、それが実行にむすびつく契機は、もともと存在しない。

 額縁だけがあって、キャンパスには何も描かれてはいないのだ。それはかれの言動を注意して見てみれば、すぐにわかることだ。

 今回、記者から、裏金議員の衆院選挙における党公認はどうするのか、と問われたA氏は、それは選挙本部で議論して適正に対処されるべき重要な問題だと、答えていた。そこには、なんの主体性もない。語るべき実質もない。
 A氏は自民党の刷新を第一に掲げながら、その決意も覚悟も、プランももってはいないのだ。「刷新」という名目だけがある。

 中国機の領空侵犯についても、「領空侵犯の対応は今のままでいいのか、結論を出すのは、自民党・政府の使命だ」と答えている。やはり、まったく中身がない。額縁だけだ。
 安全保障を自分の政治活動の根幹であると公言しているにもかかわらず。

 政策活動費の廃止について聞かれたときも、「廃止なら廃止で構わないが、検証が必要だ」と、答えている。

 A氏の発言はいつも同じ言葉で終わる。
――いはく、真剣な議論がもとめられる問題だ。
 じっさい、こういう政治家や評論家はごまんといるのだが、A氏ほどこの点で徹底している人も少ない。多弁ではあるが、弁疎である。
 尻尾をつかませないのではなく、もともと実体がないのだ。

 政治において必要なのは、議論でなくアクションである。議論はあくまで、民主主義の手続きにすぎない。政治家は、その手続きをへたあとで、何を行おうとしているのか、何をしたのかを、問われている。

 前回の総裁選にやぶれたあとに、特命の地方創生大臣となったときも、私はA氏の動向を注視していたが、ねちねちと形式論を垂れ流すだけで、みごとに、いかなる成果ものこさなかった。
 かれの特徴を一言であらわすとすれば、「空疎」ということになる。

 したがってマイナス要素はない、何せ、ゼロなのだから。じっさい、クリーンでスキャンダルもない。だから、民主主義においては、こういう人に期待があつまる傾向にある。
 だが、マイナスがないぶん、現実には、いかなるプラス要素も、リーダーシップも期待できないのである。
 毒にならないものは、薬にもならない。

哲人政治の蜃気楼

 世人は、A氏の首班内閣に、「哲人政治」の影をみている。かれがみずからの信念にもとづいて、正しい政治をすることを期待しているのだ。
 しかし、それは二重にまちがった判断であるといえよう。

 まず哲人政治の理想自体が、実現不能の夢なのだ。間違いを犯さない個人はありえない。個人に全面的に依存する体制は、かならず不安定化する。

 そしてもうひとつ、理想なき形式論を語るだけのA氏は、「哲人」などではなく、無色透明の「善人」であり、正しさを志向する信念などもたない。かりにあるとしても、それが行為としていっさい表現されてない以上は、ないのといっしょだ。

 A氏にかぎらない、どの候補も耳障りのいいことばかりいっている。それもいい。しかし、自民党員の方々には、ここまで私がのべてきたような視点で、かれらの言葉を再検討してもらいたいのである――そこに、意志的行動につながる真実があるのか、どうか。

 三島由紀夫のいうように、政治とは、何にもまして行動である。エリオットは、何もしないよりは悪を犯した方がよいといった。行動は受苦であり、受苦は行動である。

民主主義は消極的理念である

 主権者たるわれわれは、民主主義を一つの「消極的理想」として考える必要がある。けっして「聖人政治」や「哲人政治」をのぞんではならない。

 つまり、消去法を基本に、候補者を選定する。へんに期待感など抱かず、ダメなものから落としていって、のこりものに福があるという発想だ。

 古代ギリシャ随一の政治家・ペリクレスは、民主主義における指導者の条件として、「とるべき道を見抜く力、それを説明し実行する能力、愛国心、金銭の誘惑に負けないこと」の四つをあげている。 細かくいえば、前の二つは絶対条件であり、あとの二つは十分条件である。(註)

 ペリクレスの言葉はいまも有効である。
 とはいえ、この四つを具備した人物をみつけるのは、きわめてむつかしい。

 いちばんいけないのは、どれほど高潔の士であっても、政治的に無能な人物をえらんでしまうことだ。ちょっとくらい悪くても、政策能力と行動力のある人物を選択すべきである。政治家をえらぶのは、「理想の父親」や「理想の上司」をえらぶのとは話がちがう。

 われわれは人生の師や、頼れる存在を選挙でえらぶのではない。主権者たるわれわれの意向を実現しうる人物を選択するのである。

 かりに、お行儀がいいだけで非行動的な人物に政権をまかしてしまったら、その後にくるのは、失望と倦怠である。
 オバマのあとには、トランプがもとめられる。
 私の二人の大先輩も、似たような心理的状況にあるのだろう。

 ジョージ・オーウェルは、「我が闘争」の書評で、次のようにのべている。

 社会主義が、そして資本主義すらも幾分しぶしぶと、国民に安楽を提供しようと言っている時、ヒットラーは国民に向かってこう宣言したのである。「私が諸君に提供するのは闘争と危険と死である」と。そして、その結果、全国民が彼の足許に身体を投げ出したのだ。              

「我が闘争」書評 臼井善隆訳

 オーウェルのするどい指摘は、かれのふかい人間観から発するものだ。

 人間はじぶんの意志のままに、自由に生きることをもとめている。 しかし、その反面、強いリーダーにつき従い、みずからの将来を委ねたいという欲望をかくし持っている。
 それはなにも、自己責任をのがれたいという心性からだけくるのではない。人は、安心・安全を心から願ってはいるのだが、同時に危険と冒険をも、強くもとめているのだ。

 ワイマール憲法の保障する自由と平等と平和に、ドイツ国民は大いなる倦怠を感じていた。ヒトラーはそこに、「火」を投げこんだのである。

 つまり、私のいいたいのは、こういうことだ――
「哲人政治」のプラカードには、裏返せば、「僭主政治」あるいは、ファシズムと書いてある。
 民主制において、「積極的理想」をのぞめば、かならず末路はそういうことになる。

 ことに日本においては、政府にたいする甘ったれた依存心がつよい。
 海外のデモは革命に道を通じているが、日本のそれは、百姓一揆の現代版である。政府は打倒すべき敵ではなく、いまだに「お上」であり、子をないがしろにする親のような、愛憎の対象である。

 もういいかげん、そういう心性から脱却しなくてはならない。
 親のような存在をさがすのはやめて、役に立つ人材を評価・選定すべきである。メガネちがいであれば、クビにして、べつの人物に託せばいい。
 そういう意思と気概をもった市民を前提としなければ、民主主義は機能しない。
 主権者はあくまで、われわれなのだ。

 民主主義に「理想」をもとめてはならない。それを消極的概念とみなすことで、われわれは個人の自覚をとりもどし、絶望からまぬかれる。



註) 「とるべき道を見抜く力、それを説明し実行する能力、愛国心、金銭の誘惑に負けないこと」

 状況を読み、有効な政策を見いだし方針を定める能力――それは、政治家必須の能力である。
 しかし民主制下においては、国民を説得し、多数の支持を得た上で、それを実行にうつすことがもとめられる。
 そして、自己の野心や党利よりも、つねに国益を優先し、金権に溺れないことが、政権を盤石なものとする。
 と、ペリクレスはいっているのだ。

 トゥキュディデスは、『戦史』の中で、ペリクレスを理想的な指導者として描きだしている。
 ペリクレスは行政・軍事両面で卓越した能力をしめした。

 アテナイが逆境にたち、自身も責任を追及されているときでもなお、かれは市民に媚びることなく、逃げることもなく、みずから議会を招集し、自身の信念と未来の見通しについて熱く語り、それどころか、悲観的になっているかれらに過酷な選択を迫り、士気を鼓舞し、アテナイを導いていった。

「ペリクレスはすぐれた識見を備えた実力者であり、金銭的な潔白は世の疑いをいれる余地がなかったので、何の恐れもなく一般民衆を統御し、民衆の意向に従うよりも、おのれの指針をもって民衆を導くことをつねとした」と、トゥキュディデスは評している。

 その名は民主主義と呼ばれたにせよ、実質は秀逸無二の一市民による支配がおこなわれていた。これに比べて、かれ以降のものたちは、能力においてたがいにほとんど優劣の差がなかったので、みなおのれこそ第一人者たらんとして民衆に媚び、政策の指導権を民衆の恣意にゆだねることとなった。

トゥキュディデス『戦史』久保正彰訳

 ペリクレスは、ペロポネソス戦争二年目で、病に斃れる。しかしかれは、これさえ守ればアテナイは不敗であるといういくつかの献策をのこした。
 ところが次々とあらわれるかれの後継者たちは、自己過信や個人的野望、民衆への迎合などから、ペリクレスの遺訓をことごとくやぶり、そのため戦況はしだいに悪化し、社会は混乱に陥り、ついにはスパルタに決定的敗北を喫することになる。

 ペリクレスは「哲人政治」などおこなわなかった。かれはアテナイの国益を第一に考えて行動した。アテナイの支配権にたてつくものは、容赦なく殲滅し、奴隷化し、高い年賦を課した。
 他方、民主主義の理想を固く信じ、それを民衆に語りかけ、なんら強権に頼ることなくアテナイを導いていった歴史上稀有の政治指導者だった。かれはアテナイを守ることが、民主主義の理念を高く掲げることだと信じて、疑うことが無かった。

 そしてそれは、当時の歴史的状況においては正しい判断であったと、私もおもう。アテナイが陥落することは、事実上、民主主義の死を意味していたのである。

 ペリクレスのような卓越した個人に依存する民主制は、かならず不安定化する。高潔で、政治能力においてもすぐれた人物なんて、そうそういるものではないからだ。

 トゥキュディデスは、ペリクレスの治世を、「実質は秀逸無二の一市民による支配」だったと評しているが、しかしそれは結果論にほかならない。

 たしかにペリクレスは、みずからの政策に民衆を従わせたが、それは「支配」などではなかった。
 民衆を説得し、議論において方針を決定し、それを実行にうつし、みごとな成果をあげた。

 コリオレイナスは、そうした迂遠な民主主義の手続きに呪詛の言葉をなげつけたが、ペリクレスはすこしも厭うことはなかった。すすんで民衆に語りかけた。まして民衆を支配する気などさらさらなかった。
 ペリクレスは民主主義の理念を信念としていたからである。かれはそれを守り維持することに生涯をささげた。
 それとともに、すべての市民に、自分とおなじ理念を共有してもらいたいと。しんそこ願っていたのである。

 ペリクレスもまた、主体的な意志と自由を保持した市民の存在が、民主主義を成り立たせる絶対条件であると信じていた。つまり、卓越した指導者と、自覚せる市民とは、相補的セットなのである。

 民主主義に絶望する気持ちはわかるが、世の「哲人政治論」には、期待感だけが存在し、実現に転化しうる実質はない。相補的セットの片方を欠いているからだ。

 それは、人間不信が生みだした人間過信の形式なのである。
 

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神原 伊津夫
福田恆存さんや、そのほかの私が尊敬してやまない人たちについて書いています。とても万人うけする記事ではありませんが、精魂かたむけて書いております。