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福田恆存を体系化する。14 正義とは何か さらなる鋭鋒への旅立ち
この一連の文章を読んだ友人からクレームがついた。
福田恆存を体系化するといいながら、おまえさんは自分のいいたいことを勝手にいっているだけじゃないか、というのだ。つまり、福田恆存をダシにして自己を語っている、と。
それについては、批評とはそういうものだ、と答えるしかない。ひらきなおる訳ではなく、結果的にそうなるのだ。私は福田恆存に真摯に向き合い、立ち位置を決め、そこで生じたものを語るほかない。
それでも、かれとの距離はわきまえているつもりだ。私は予断をすてて、福田恆存に学ぶという姿勢を堅持するようこころがけてきた。これでも敷居を超えないように、ぎりぎりのところでこらえている。私なんぞがかれのような天才をダシにして凡庸な意見を開陳するなんて、そんな俗悪な図はまっぴらごめんだ。
もう一つのクレームは、かんじんの「終末論」はどこにいったんだ、というもの。
それについての弁明は、これからさ、というにつきる。
これがふつうの哲学者や思想家なら、これまでの議論でほぼ終了ということになるかもしれないが、福田恆存の場合はちがう。ここまででもじゅうぶん凄いのだが、かれの発見した根本的現実はじつはスタートラインにすぎず、本番はここからはじまるといっていいのである。なぜならばそれは、あくまで人間の現実にすぎず、かれが全力で語ろうとしているのは、人の生き方であり、理想であるからだ。そこにいたってはじめて、終末論は意味をもつ。
ここから峻厳で狭い尾根を慎重に歩んでゆくことになる。福田恆存という大きな山脈を踏破するためである。
そういう訳でさきへと進もう。
正義とは何か
チャールズ・テイラーによれば、近代以降の道徳秩序の根底にある価値は、「安心安全」と「自由・平等」であり、過去四世紀を通じてそれらは、「二重に拡張して」きた。すなわち、次第に拡大拡散し、また強度を増し、質と量において地球規模で支配的な社会観へと展開しながら現在にいたっている、と。
かれはそれを、「長い行進」と表現している。いま、さかんに問題にされている「ハラスメント」や「コンプライアンス」なども、この「行進」から必然的にもたらされたものであることは明らかだ。
テイラーの分析は、かれの主唱するsocial imaginaryを切り口としてなされおり、穏当で説得力のある主張だと私もおもう――かれの相対主義的結論をのぞけば。
私の目には、「長い行進」は、いわば社会的・歴史的エントロピーの過程とうつる。
現代の「正義」とは、その帰結として、安心安全と自由・平等を確保する行為ないし体制の構築への志向性と規定しうる。
テイラーを待たずとも、福田恆存はそのことにとっくに気づいていたし、鋭い分析もしている。かれの「保守主義」や「平和論」といわれているものの根底にあるのは、そうした近代的な価値観についての反時代的考察であり、本質的な批判なのだ。
近代的価値観と資本主義
カルト宗教が法外な価格で信者に壺を売りつけたという事例が世間をにぎわせたことは、世事に疎い私といえども承知している。これをわれわれはどう評価すべきであろうか。
世上では、けしからん、もってのほかだ、という意見が大勢を占めているが、よくよく考えてみてもいい深い問題をふくんでいる。単純にそれを悪と決めつけることがはたしてわれわれにできるのか。
たとえばアリストテレスは、交換的正義という原理を提出している。かれによれば、正しい交換とは、交換された事物の価値がたがいに算術的に等しいことである。したがってこの場合、壺は不当な品物とみなされて、不正な交換と評価されるだろう。
それに真っ向から異を唱えたのはホッブズだった。相互に異なった属性をもつ事物の価値を算術的に等価とする客観的根拠などありえない、というのだ。交換はそれをおこなう当事者同士の主観的な要求の一致によって成立する。それで両者が満足しさえすれば、そこにどれほど大きな価値の差があるように見えようとも、それを不正ということはできないと、ホッブズは主張する。
だとすれば、その壺が価格に釣り合わない安物であると第三者がおもったにしても、信者、教団ともに納得しているのだから、たとえ家族といえども、第三者がそれを非難するにはあたらないということになる。
では、ホッブズにおける交換の正義とは何か。それは両者が事前に合意した取引条件を正確に履行したかという一点にかかっている。壺という商品の価値それ自体はいっさい問題にされず、手続きが約定通りであれば、それは正しい交換取引とされる。
さて、おおかたの人は木で鼻を括るようなホッブズの意見を疑問に感ずるであろうし、そんなばかな話があるものか、と憤慨さえするだろう。
しかし冷静に考えてみると、壺の例はいささか極端であるにしても、われわれの生きている現実社会はどちらかといえばホッブズの主張する交換方式を基盤に動いているのではないだろうか。端的にいえばこれは、資本主義の論理である。市場原理主義の源流がここにはある。ということはつまり、われわれは自覚することなく、ホッブズが提示した論理の延長線上にみずからの生を構築しているということになりはしまいか。
単純にそれを悪と決めつけることがはたしてわれわれにできるのか、と私がいったのはそういう訳だ。
ホッブズは万人は平等であるといっているが、それはかならずしも、われわれの考える平等とおなじではない。かれは生得の才能や家柄、育った環境によって人に格差のあることを明言している。それにもかかわらず、そうした条件の格差は無視して、人間は誰もが同等の権利をみとめられる、という意味の平等である。
それをホッブズは「自然権」とよぶ。「各人が、かれの有するすべての力をもって、かれ自身の生命と四肢の保存をはかる」ことができるというのが、ホッブズによる自然権の定義だ。
ホッブズはデカルトの同時代人であり、やはり科学に信頼を置き、機械的世界観をもっていた。のみならず、デカルトもあきれるほどに「普遍」を否定した。かれはオッカムの正統な後継者であり、オッカムを超えるノミナリストとして、アリストテレスやトマスの秩序ある世界観を徹底的に破壊しようとしたのである。
ホッブズはアリストテレスの『形而上学』や『政治学』を、ばかげた妄想だとさんざんにこきおろしている。
さきにみた交換方式において、アリストテレスは人間の相対的な取引にたいして「最高善」からする絶対的基準から、その正・不正を判断するのであるが、それはまた配分という課題においては、ハイアラーキーを形成する。
アリストテレスにおいては、自然界にあるすべての存在はその本質によってあらかじめ世界に占める位置が階層のうちに揺るがず決定されている。その結果、ポリス的動物である人間は、頂点から末端まで、為政者から奴隷まで、その社会的地位に応じて権利と利益の配分がなされる。そしてその階層は、すくなくとも理念においては、絶対的に固定されているのだ。そこでめざされているのは、階層秩序による相互補完である。個人は社会のうちに固定されており、それぞれの位置から全体に寄与することが「徳」とされた。
結局、ホッブズが「万人は平等である」とのべた真意は、こういう価値の階層的秩序にたいする反駁なのである。そこでは中世の桎梏からの個人の解放がめざされている。だからかれは、キリストの代理をみずから任ずる教会の権威をいっさい否定する。国家の主権者に対抗し、その存立を脅かし、無益な闘争を招来するものであると考えたからだ。
かれもまた、危機の時代を生きる者として、ピューリタン革命前後の英国の内乱において、聖職者――とりわけ、ローマカトリック教会にたいする強固な批判を保持していたことが、その背景となっている。アリストテレス/スコラ哲学がつくりあげた世界秩序は、かれのの見るところ、虚偽と不正の温床でしかなかったのだ。これをいくら否定しようとも、ホッブズの天才はわれわれの生きる近代社会の枠組みを予告していたといえるのではあるまいか。
ホッブズは、アリストテレスの目的因を否定する。そして、自己保存につながるあらゆるものが善であり、その障碍となるものいっさいが悪という、まことにすっきりした倫理を提唱した。三島由紀夫がよく口にしていた「生命以上の価値」なんて、ホッブズにかかれば議論の余地も無い戯言と一蹴される。つまりかれは、過去をすっかり否定し、物理的数学的理性による新たな世界秩序の建設を企図していたのである。
そこで意図されていたのは、自由な個人の互恵関係だ。「徳」というような倫理的基準は念頭にはなく、個人が自由に生きることを可能とする条件をいかに保証するかということが、もっぱら議論の焦点となっているのである。
ここから引き出しうる最高の価値は、やはり自由と平等ということになる。あるいは、「安心・安全」だ。
かりに近代以降における「徳」を定義するとすれば、階層的な秩序の否定と、自由と平等を保証する思考と行為の質に帰せられる。
かれの説を支える背景にあったのは、科学への信頼である。ガリレオがみずから見出した力学を端緒に自然を数学的構成によって再編しようとしたのと同様に、ホッブズはそれを人間の社会に適用させようとした。その場合、普遍とか存在といった形而上学の伝統的な理念は、不自然で余計な夾雑物でしかなかったのである。
じじつ近代文明は、科学という自明で明証的とみなされた方法論を世界に適応させることでかたちづくられてきたのである。そして、「安心・安全」はたしかに現代における最高価値ではないだろうか。
しかし、その近代の枠組みも、ホッブズにとってスコラ的世界観が寄る辺なきものであったように、非ユークリッド幾何学や不確定性理論の発見にまつまでもなく、われわれにとって科学によるすっきりとした世界像は大きく揺らいでいる。科学の進歩はわれわれの生活の利便に大きく寄与するものであることは認めつつも、それと同程度に、いやそれ以上に、莫大な損害をおよぼすことにわれわれは相当うんざりさせられている。要するに、近代主義の社会観はかんじんの「安心・安全」の基盤とするには大きな問題をはらむものと化してしまったのだ。
資本主義は、基本的に、搾取が剰余価値を生む経済体制である。かつては途上国の安価な資源や労働力を標的にして、大きな利益を上げることで拡大してきた。利潤の追求は互恵関係をささえる条件として、制限をうけることもなく、無条件に推奨された。
しかしながら、地理的フロンティアがほぼ終了し、従来の手法では十分な利益を得られなくなった今日、ウェブ上や宇宙空間にあらたな市場を見いだすようになっている。だがそれでも、クレディスイスの破綻にみられるように、世界経済の現状は、かつては世界でもっとも「安心・安全」とみられていた大銀行が、経営陣の能力いかんにかかわらず、危険な投資物件に手をださなければ十分な運用益を得られない厳しい環境にあるのだろうと推測される。
それとともに、外部に搾取する対象を見失った資本主義は、反転し、それを自国の内部にもとめるようになった。中間層は資産を吸い取られ、下層は最後の一滴まで絞りとられて、空前の格差社会が急激に進行し、市民社会は破滅的な危機に立たされている。民主主義の制度は骨抜きとなり、事実上、経済の枠組みによる目に見えない寡頭体制ができあがっている。
現在、資本主義もさすがに最終段階に達しているのではないかと誰しも疑っている。第一価値である「平等」もまた壊滅の危機に瀕しているのである。
ホッブズから、グロティウス、ロックへと受け継がれ、いまや「社会契約」という名辞はもちいられなくなったが、その基本線はかわらず維持され、自由と平等はいまも最高の指導理念である。
今日になってようやく「ジェンダー」の問題が意識されるようになり、そのことによって、長い近代化の段階を経てきたにもかかわらず、われわれのうちに階層的秩序の残滓がまだ濃厚にのこっていることが白日のもとにさらされたわけである。近代の指導理念として追求されてきた自由と平等も、ようやく最終段階を迎えたといえるのかもしれない。
「長い行進」の結果、ありとあらゆる集団が解体され、個人は無機質な空間にばらばらに裸で放り出されたのである。その結果、われわれはみずからのうちに善意を見ていながら、終始、他者の悪意に小心な猜疑心をはたらかせている。それを調整しうるのは社会制度であり「コンプライアンス」だ。しかしながら、たとえばハラスメントを例にとれば、その正義の基準は原理的に各個人の内部にあり、したがって社会的妥当性ないし合意の基盤は曖昧かつ不安定なものとならざるをえない。
それがわれわれの望んだ結末だとはたしていえるだろうか。
なにより現代の社会理論は、いかなる意味においても、われわれの人生の指針とはなりえない。自由と平等の拡張をめざすのはいいにしても、それらの理論はわれわれ自身の人生を意味づけ、方向性をあたえるなにものも持たない。ふたたび混沌とした世界にわれわれが落ち込んでいることは火を見るより明らかなことではないか。人は本来、過去がかたちづくる地盤の上に人生を組み立てるものであるが、われわれの地盤はきわめて脆弱であり大きな裂け目さえ露呈するほどになってきている。
現代が危機の時代であることを敏感に察知していた福田恆存は、この問題について、いったいどのように考えていたのであろうか。もし存命であるならば、今日のグローバルな危機にさいして、どのような発言をしてくれるのだろうか。
すくなくとも、福田恆存は相対的な世界解釈にはけっして同意しはしない。「みんなちがって、みんないい」というのはユートピア思想である。人が何らかの判断をせまられ、何か行動をしなければならぬとき、それはいかなる方向付けにもならない。
ふたたび、近代の発端へと回帰しよう。
ホッブズの唯物論は各人の生存を維持するという目的を指示するだけであり、そこから生じる「万人による万人の戦い」を調停するべく立ち上げられるコモンウェルスにおいても、その指導原理は、「自分がされたくないことを他人にもするな」という、きわめて消極的なものにとどまる。
これは、マタイ伝七章十二節にあるイエスの言葉、「すべて人にせられんと思ふことは、人にもまたその如くせよ」に対応するものであることを、ホッブズ本人が註している。
だがそれは、イエスの言葉の引き写しではなく、裏返しにしたものであるので、イエスの行動的でポジティブなメッセージは反転して、防衛的で非行動的なものへと質的に転化している。だからこそ、内容は問わず、取引の約定を違わぬかぎり、そこに不正はみとめられないというつめたい判断に帰結せざるをえないのである。だが、人にとって大切なのは、なにより「内容」ではないのか。
こうした事態にいたったのは、みずからの生命と身体の安全確保という防衛的な消極概念を最高にして無二の「権利」として人間学の基礎に据えたことに由来する当然の帰結にほかならない。
つまり、近代は初動から大きな過ちを犯してしまったのではないか。福田恆存はそのように考えていた。
大衆社会の出現とともに何かが失はれたのではない。始めに何かが失はれた、その弱点が大衆社会の出現と共にはつきりして来たといふ事に過ぎまい。
イエスは、「天の父が全きが如く、汝らも全かれ」(マタイ 五・四十八)といっている。
だとすれば、組織維持を目的とした資金集めのために、聖職者が壺を信者に売りつけること自体がすでにアウトだろう。金額の多寡の問題ではない。これほど明確な判断の基準はどこにもない。イエスの示す絶対的倫理の前では、アリストテレスやホッブズの交換の理屈など跡形なくふきとんでしまう。算術的等価もへちまもないのだ。
福田恆存が心中深くいだいていた倫理の鏡はまさにそのようなものであったと考えられる。それゆえにこそ、かれは倫理的動機から近代を批判しているのだ。
かれは戦後間もないころ、われわれの近代は「理想人間像」をもたなかったと、いく度も繰りかえしのべていた。そこで福田恆存に想定されている理想人間像とは、実際には一度も明らかにされてはいないが、もはやいうまでもなく、イエス・キリストその人である。
福田恆存はみずからの生活を索引として新約聖書を読んだのだ。
われわれ自身も、反射的に壺の問題で憤慨するのは、心中深く、そうした絶対倫理の呼び声が響いているということなのではないか。
「貧しき者は幸いなり」と訴えかけたイエスは、「安心安全」などになにほどの価値も見いださなかった。かれは至上の理想を高く掲げる。そしてそのためには、「生命と身体の安全確保」はおろか、近代的意味における「自由・平等」もかえりみられることなく、いかなる犠牲も惜しむなというのである。そして事実、そのように生きた。
福田恆存はそうしたイエスの思想と生き方に、絶対的倫理の相をみていた。それは人をそれ以上、一歩たりともしりぞくことのできぬぎりぎりの崖淵まで追い込み、回避も弁明も韜晦も許されぬ、みずからの生命を賭す究極の基準である。これこそが、「始めに何かが失はれた」という言葉にある「何か」にほかならない。
究極の「正義」はここにしかない。
しかしそれもまた、ユートピア思想ではないか――
なるほど人はそこに棲むことも生活することもできない。人にはエゴイズムがある。イエスの言葉はその全否定だし、それを受け入れてしまえば生きてられない。そういう批判は当然ありうるし、十分な説得力もある。じじつ、おおかたのキリスト教徒は、山上の説教にしたがって生きてゆくことは不可能だと考えてきた。
それでいいのだ。というのも、ここにようやく、人間の根本的現実の解明から、「フクザツニアリ」といわれた福田恆存の精神にアプローチするお膳立てがととのったといえるからである。
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