リーダーシップ再考
「なんで私ばかり」
ものごとを切り盛りする役割を担うときは、それなりの覚悟を以て引き受けるが、それでも弱音を吐きたくなる時もある。
特に、労われることもなく、役割をこなすことが
空気のように当たり前と思われている環境にあると、一層徒労感が増す。
その気持ちを紐解いてみると、役割をこなすこと自体の負担、
というよりも、自分も生身の人間として受容してほしい、
という根源的な欲求が満たされないことのほうが大きいのでは、と思う。
自分の想い、気持ちを受け止めてほしい、という欲求は、
生理的な欲求と同じくらい、人間性に深く根差したものかもしれない。
たとえ無意識であっても、それがケアされずに放置されていると、
積もり積もったストレスが不意に表出する。
本来、他者のために自分を活かせることは、
深い満足感や生きがいに繋がる。
だが、他者の期待を一身に背負い込むと、自分が潰れてしまう。
役割にはまり切らない部分も含めて、ひとりの人間である自分に目を向けてほしいという欲求は、その役割に「~あるべき」という期待が
紐づいているほど、強くなる。
リーダーの孤独さには、立場上、そんな欲求を押し殺して
役割を演じ続けなければならないことから来るのかもしれない。
母親の孤独さにも、相通じるものがあるのでは、と思う。
リーダーも母親も、一方的に全てを受容することが求められ、
自分自身の気持ちのはけ口はなく、抱え込むしかない。
「リーダーなんだから」「母親なんだから」という本人自身の気負いや周囲の期待の陰には、本当は受け止めてもらいたいものがたくさんあるのに。
全ての責任をひとりの人間に帰してしまう考え方には、無理がないか?
どんな立場にあるどんな人間にも、過ちや迷い、弱さがある。
それ以上に、所与の情況をひとりの人間がコントロールできる、
という前提を問い直すべきではないか?
2人以上の人間が集う場には、ひとりひとりの意思や力を超えたところで、
生命が宿る。
場を預かる者は、「焚火守 (脚注)」のように、その生命の火を守り続けるが
風雨の影響を完全に遮断できるわけではない。
たとえ焚火がゆらいだからといって、一方的に焚火守を
非難する人はいないだろう。
焚火を挟んで、焚火守と暖を取る人たちが対峙するというより、
焚火守も、焚火に集う人たちも、焚火に向かって、
その場を大切に思う気持ちを送り続ける情景のほうが自然だ。
焚火守が守っているのは、焚火が灯り続けていることを願う
人々の想いかもしれない。
土地の神様にお祈りをささげる、お宮参りをする、という行為は、
村長と村人、親と子の間に、スピリチュアルな神様を介在させることで、
人為を超えたものへの人間の謙虚な姿勢を植え付ける行為とも捉えられる。
「焚火守」である村長や親が、意のままに村人や子どもを扱うことはできない。
村の安寧、子どもの健やかな成長は、ひとりの人間に荷を負わせるには重すぎる。
如何ともしがたいことも踏まえて、村長も含めた村人全体の想いを
受け止めてくれる村の神様や、親子にご加護を与えてくれる氏神様の前では、村長や親も、ひとりの生身の人間であることが受容される。
土地の神様が何をなそうとしているのか、お伺いを立てるときの境地は、
ひとりの人間の立場を超えて、村全体を俯瞰することを可能にする
瞑想に近いものだったのではないか。
幼い生命が召されるというような究極の状態に直面しても、
氏神様の思し召しと自らの心に言い聞かせて、
親は自らの人生を歩み続ける強さを得ることができる。
神様のいた時代は、リーダーや親の立場は、
今のように孤独なものではなかったのではないだろうか。
脚注:Keiko Hasegawaさんの言葉の引用