下田のお店がまた一つ閉まりました。
「ここ、このあいだ閉まっちゃったのよ。さみしくなるわよねぇ。」
ほとんど休まず毎日新鮮な魚を並べていた下田の町の鮮魚店「相川魚店」。
つい先日の8月31日、45年の長い歴史に幕を下ろしました。
そんなお店の元店長さんにお話を聞こうと店先に立っていると、
通りがかる人に頻繁に声を掛けられます。
お店に片付けの続きをしに来られた相川さんに、
今日はよろしくお願いしますと声をかけると、難しいことは良くわかんないから言わないでよぉ、と人のよさそうな顔で相川さんが笑いました。
私が取材に行った9月4日にはもうお店は閉まっていて、店先には空っぽのショーウィンドウが並ぶだけでしたが、それでも相川さんのお店にはひっきりなしに人が訪ねてきます。常連だったお客さん、卸先のホテルの総支配人、それから近所のお菓子屋さんとか。
相川さんはお世話になったお客さんの名刺をお店のホワイトボードに張り付けていて、一つ一つそれがどんな人かをお話ししてくれました。
お店の元店長さん、相川 城二(あいかわ じょうじ)さん。
もともと下田から上京して自動車修理工をしていましたが、
バイクでの事故をきっかけに下田へ帰郷。
27歳の時に開けた店が「相川魚店」でした。
お店をするうえで一番大事にしてきたのが「信頼」と「謙虚」
だと相川さんは話します。
大晦日とお正月以外はほとんど休まず、毎日魚を売り続けてきたんだそう。
それは13年前に奥様がなくなったときも例外ではなかったそうです。
「お客さんも大事だし、女房も勿論大事。
どうしていいかわからなかったね。」
それをきっかけに、後継ぎになるはずだった長男が家を出るなど、相川さんの生活は更に苦しくなりました。
それまで、家事もお店の経理も奥様に支えられてきたのに、急に全て自分で抱えないといけなくなってしまったのですから。それでも、やっぱり相川さんは休まず店を開け続けました。
2年前、とうとう相川さんは体調を崩して長期の入院を経験しました。
跡を継いでくれる人もいない、閉めるとなったら片付けができるだけの元気がなくてはいけない。相川さんはそう思い、店を閉めることを決意したと言います。
「店は続けられるものなら続けたかったね。」
ただ、跡を継ぐ人がいないのはどうしようもないと相川さんは言いました。
下田に限らず、全国の地域で問題になっているであろう、
後継者不足によって継続ができなくなってしまったお店。
もし、あの時こうしていればお店が続けられたんじゃないかって
思うことはありますか?と尋ねると、少し諦めを含んだ声でこう返ってきました。
「時代の流れだね、しょうがない。」
人口が減り、ただでさえ働く若い世代が不足する時代。
それに加えて、いくら地方で、町がノスタルジックと言われようとも、
変化していく下田の町。
町中を歩けば当たり前のようにコンビニがあるし、
魚が捌けなくたって、大した問題じゃない。
時代とともに変化した食卓についていけなかったと、相川さんは言います。
「私はかなり苦労して、波にもまれて生きてきたから、
正直、今の人のことが分かんないね。」
もし、後継者ができたとしたら、謙虚で素直な人がいい。経験による技術は年月によって積み上げられてきたもの。その差ってどうしても埋まらないんだから、自信過剰にならずにこつこつ信用を積み重ねてほしい。相川さんはそう教えてくれました。
23歳の私には、相川さんがどんな苦労をしてきたのか
同じ時代を生きたわけじゃないから、今日お話を聞いたって
相川さんの一部しか伝わってないんだろうなと思います。
同時に、相川さんも今の若い世代がどんな経験をしてるのか、
どんなことを考えているのか、やっぱりわからないことだらけなのかな
と思います。
もっとお互いを知りあえる時間があれば、
今とは違う結果になっていたのかな。
時代の流れや、人口流出。
そう諦めちゃうほか、なかったのかな。
取材中にも代わる代わる、相川さんを訪ねて色んな人がやってきました。
「相川魚店」の閉店は、決してポジティブな出来事ではないけれど、
私が相川さんとお話しするきっかけになったし、
相川さんにとっても、いろんな人とゆっくり話せる時間をつくる
きっかけになりました。
とはいえ、たくさん片付けるものがたくさんあって、
まだまだのんびりするには時間がかかりそうで、手伝ってもらえたら
嬉しいとのこと。
下田の町にもちょっとずつ増えてきた、新しい働き方や暮らし方。
新しいライフスタイルが、町をいい風に変えていけたらいいな。
また少し静かになった下田を歩きながらそんなことを思いました。
(ライター/ VILLAGE INC. 本間 千裕)
(写真提供/ 藤井 瑛里奈)