白く巨大で表紙_note用

Complex_entangle.q/re:fix


長く気づかなかった。わずかに首をもたげると、薄く細い影が伸びていた。僕と同じ種と見とめた。ただちに危害を加える様子は見られなかった。だから余計に不思議な思いで、尋ねた。

「あなたは、誰ですか?」

影は、やや小首を傾げるようにして、僕を右目主体で見る。

「誰でもいいことではないでしょうか? 私のことは」
「いや、でも……」

影は、言いかけてその先に澱む僕の言葉を、一方的に遮る。

「私は、キミに用があるだけなのですから」

僕以外、何も存在しない部屋。けれど、相手は僕のことをよく知っているようだった。まるでこの空間が生まれたその瞬間から、ずっといたような気がするほど、違和感がなかった。限りなく素っ気なくも、一方でひどく親しげな、不可解な視線が印象的だった。
その人は、僕を"キミ"と呼んだ。誰かからそのように呼ばれたのは、初めてだった。思わず、聞き返した。

「キミ……? それは、僕の名前ですか?」
「ちがいます」

切り落とすような鋭さのあと、その人は、視線を僕から外した。視線だけではなく、顔ごとそっぽを向いた。けれど僕はなぜか、そんな動作にさえ慣れ親しんだものを感じていた。それでも"では『キミ』とは何なのか"と聞き返すことはできなかった。唯一の発信手段である言葉を失って、ただおろおろとするだけの僕の空気に気づいたらしい。その人は視線を戻してくれた。紆余曲折のような、多少の逡巡を含みながら。

「ここは黒だということを、キミは知っていますか?」
「……はい? ……黒?」
「では、キミが黒いここから出て、白へ向かう選択肢があるということは?」

黒とは。白とは。出るとは。向かうとは。意味が、分からなかった。

「キミを解放します」

有無を言わさぬ強い口調に、息を飲んだ。今僕は何か、とても重要なことを言われている。それだけはよく分かった。だから呼吸を一瞬、忘れた。

「そんな不安そうな顔をしなくても、だいじょうぶです」

言葉が継げない。呼吸すらまだ、うまくできない。苦心したけれど、黙ってうなずいてみせた。その人も、僕の目を見てうなずいてくれた。満足した表情と読み取った。

「それでいいのです。ここには虚も刹那も存在しないのですから。さあ、行きますよ」
「ちょ、ちょっと待ってください」
「……不服ですか?」

僕を一瞥したその表情が、とてもつらかった。ここにいてから一度も苦しくならなかった胸郭のあたりが、初めて激しい動作を繰り返していた。
けれど僕は、ここにいなければならないのだ。ここで、これからも時を過ごしていかなければならないのだ。ためらいながらもそう打ち明けると、その人は目を伏せてから――つまりまた、視線を逸らして――独り言のように僕に伝えた。

「ここは、閉ざされています。ありとあらゆるすべてから」

その人が僕を見ていないことを知っていて、それでも首を折った。それだけは知っていたと、伝えたくて。この空間の外に自分の知らない世界があることは知っていたと、ただ。

「キミの名前は、あるいはマリーと言うのかもしれませんね。キミはすべてを知っている。過剰なほどに。けれど同時に、キミは何も知らない」
「……マリー? すべてを知っていて、何も知らない?」
「キミの名前はおそらくマリーではありません。けれど、それは局所性の命題としては真でしょう」

僕は"マリー"を知らない。かつ僕の"名前"はマリーではない可能性が濃厚である。しかしながら、それは部分的な意味上で充当する名称である。言い渡された短い言葉の中に、強烈な主題が潜んでいる気がしてならない。脳圧が上昇する気配を感じた。

「それなら、いったい僕は……誰なんですか?」

その人は、目を細め唇をゆがめた。その表情の意味する感情を、僕は知らない。不意に触れたこの肌の、ずっとずっと深い場所が、痛いように、苦しいようにただ騒がしい。

「僕の……名前は?」
「私は、キミの名を知りません」

思った。僕の存在を証明してくれる名称が、今、たまらなく欲しいと。
僕は誰で、何なのか。それを証明する、絶対的な他要素が。

「じゃあ僕に、"名前"をくれませんか?」

片眉をわずかに動かして、その人は低く疑問符を打つ。

「名前が欲しいのですか? 私から?」
「はい……」
「それは、今のキミには必要ないものでしょう。
なぜでしょうか? 名前など、記号に過ぎないからです。記号そのものに意味を持たせようとしてはいけません。自分の存在を、他者から与えられる何かで証明しようとしてはなりません。
なぜでしょうか? キミの存在は、キミにしか証明できないからです。私はそれを手助けすることはできますが、キミに名前を与えることも、キミの存在を証明することもできません。
いいですか。
キミは、キミ自身に拠ってしか生きられないのです」

意味が僕の中で、不明瞭に揺れ動く。激しく動作を繰り返す肋骨の中のものに響くほど、初めて深く理解できるような、それとも、自分が自分に触れているものすら分からない、馴染み深い感覚のような。

「"すべてを知り、同時に何も知らない"という一見、二項対立の上に立っているように見えるキミは、この世界における隠匿された逆説の存在であり、私にとってはごく自然な順接の現象です。そしてそれは、この部屋の管理者たちに意図された通りの生です。
けれど私の勝手で、可逆的かつ未分化の存在として、キミは白い海に放り出されることになります」
「僕はこの部屋から出されるということですか?」
「……結果的、便宜的にはそうなります」
「待ってください。そんな勝手なことをしないでください。僕をどうするつもりですか」
「でも、そうでないと、私が困るんです」
「……困る……?」
「正確には、苦しむ、と言ったほうがいいでしょう。キミに対する私の役目を放棄してしまうのは、私自身が許せないことなのです」

僕はこの人を困らせたくない。苦しませたくない。とっさに強く感じていた。そして自分でも驚くほど早く、聞き返していた。

「それなら、僕は何をすればいいんですか? あなたを苦しませないためには、僕に何が必要なんですか?」

その人は、僕の瞳を真正面から見つめる。呼吸がまた持って行かれそうな感覚に陥った。――違う。この人が我とみずから持っていくのではない。僕が望んで失うだけだ。

「私がこれからすることを、できるだけ素直な気持ちで受け入れてください。そして可能なら、その先の未来を、自らの感覚と思考をもって刻んでください。私が望むことは、それだけです」

緊張のために、ごくりと喉を鳴らした。後半の意味はまったく分からない。けれど、とてつもなく巨大で重大なことをする感覚だけはあった。

「キミはこれから、量子レベルで分解され、さらに量子テレポーテーションが行われます。そして白い海の向こう側でキミは再構築されるのですが、現在のキミの存在は混合エンタングルなのです。
各々のカテゴリには確率が存在し、従ってキミの存在は、かの地での再構築が確約されているわけではありません」
「じゃあ……僕は、無くなってしまうかもしれない、ということですか?」
「確率的には、そういうことになる未来もありえます」
「……それは……いやです」
「嫌なのですね。それは、なぜですか?」
「なぜ、か……?」

なぜ、僕は無くなってしまうのがいやなのか。僕のことは誰も知らなかったし、これからもずっと知られないままだと思っていた。この部屋に存在していることを知っている同種、つまりこの人の言う"管理者"が実在しているかどうかも、明確な事実ではない。
僕はこの部屋で、この部屋の外の世界を学び、経験を一切することなく、あらゆることを知っていた。だから僕の全てはアプリオリでできていた。そしてその逆は一切、ないのだ。
僕の存在を誰も知らず、これからも知ることはないのだとしたら、僕の存在する依拠もまた存在しないことになる。
けれど、その前提は今、この瞬間から瓦解した。

「……あなたが、いるからです。僕のことを知っている人ができたからです」
「なるほど」

その人は視線を細めた。微笑むような、かすかに柔らかいそれを、ひどく懐かしく感じる。それこそに僕の存在が証明されたような気がした。この人は、僕の存在を認知し、そして認識した。いなくなるのはとても嫌だけれど、もし僕がいなくなっても、この人の中で、"僕がいた"というデータは残るのだ。
僕そのものはデータだ。記号の集合体とも言える。ならば、そのデータが分解され、どこかへ転送されることは不自然なこととは言えない。そして同時に、ひとつのデータに過ぎなかった僕は、この人の記憶というデータバンクにコピーされ、転送された。
そう考えたかった。もしこの人の記憶の断片となれたなら、現象だった僕は、この人の中で、存在になるだろう。

「キミの存在は私が引き受けます。安心しろとは言いませんが、キミは多元宇宙上でのさらなるエントロピーとなるでしょう。そして何よりもそのために、私が存在しているのです。この部屋の拘束から逃れるためには、キミの転送に光速を超える速度が必要です。
この部屋の扉を開け、外へ出るための鍵は、私の中にあります。
それを今、キミに授けます」

こわくなかった。今の僕にとって、それはちっとも不思議なことではなかった。確信を持って、その人の顔をまっすぐに見つめる。少しだけ気まずそうな顔をしたその人は、わざとらしく咳払いをしてから、僕を見据えた。

「準備は、よろしいですか?」
「はい」
「そうですか、ありがとう。……それでは、ごきげんよう」
「……ごきげんよう」

初めて耳にするそれが別れの言葉であることは、彼の表情から明らかだった。僕を白い海へ送る鍵は、"餞と言祝ぎ"だという。
彼が、静かに僕の額に触れた。

「ここに有る存在、現象、そしてすべての未来は、キミ次第です。
――さあ、行ってらっしゃい」

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