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愛した妻は諷の別人


「おっ……ととと」 

幹男はいつもの不作法な癖が相俟って、左肘をテーブルについて右足を軸に片足組んでご馳走に有り付くものだから左の如くとんだ惨事に見舞われた。 

ガーデンカフェの角地に席を陣取ったのは春の小風を感じながら、燦々と峰々に煌めく夕日さえも食卓で味わえると詠んだからだっだ。と、そこまでは脳裏は〝勝算有り〟とにわかにほくそ笑んでいた。 

だが、旨そうな肉が運ばれ貪りつこうとした矢先、地面を踏みしめていた右足首当たりに得体の知れないヌメリを感じた。違和感はそれだけでなく、〝それら〟には重みがあって素足の甲を横断している気配を感じる。何故なら〝それら〟というのは、ひとつの物体だけではなかったからだ。 

小洒落た店に気取って入ったものの、さっきまでの粋を決め込んでいたポーズが甚だ恰好が悪い。いわばその僅か数分後に長身の男はバランスを崩し、中途半端で寸足らずのお粗末につんのめった姿に変わってしまったのである。 

幹男は少年の頃からスポーツだけには長(た)けていた。我が身は機敏な身体だと自負していた男だが、背後から去来したモノには怖じ気付きどの様に整えるべきか瞬時に考える必要があった。しかも大男ゆえに長い手足が邪魔になり体操選手でもあるまいに柔軟な体ではない。今はそれが難題なのだ。 

まるでその画(え)を比喩するなら、額縁の中に捉えられた『厚切り肉を食(は)む人』のように微動だもしない。 

「ダディ?」 

真向いで一緒に食事をしていたせがれのジェイが一瞬の出来事に身を乗り出して父親の形相を推察していた。 

ところが、その悶絶する表情に思わず噴き出すのを堪えて肉と一緒に笑いも飲み込むものだから、むせてしまって二進も三進も行かず両者共々、取りつく島がない。 

「あ、し。足元に湿った……丸くて、重くて、二つで……」 

何とも連想しがたいクイズ方式的な発想にジェイは爆笑しながら身を屈めて覗き込む。 

「アハッ! 珍客だよ」 

ジェイの失笑と悪(あ)しき者ではないらしい言葉に幾らか安心感が湧き、そっと幹男も我の足元に視線を落とす。どうやら隣接する湿地帯から小さな外段差をせっせと登って散歩にやって来た迷子たちらしい。 

「可愛いな。親子かなあ?」 

目線の先には三十~四十cmくらいの野生のイグアナが二匹キョトンとお行儀よく佇んでいた。人慣れしているのだろう。愛想よく首をもたげて幹男とジェイ父子をヂカラ旺盛の潤いのある瞳で仰視している形貌は、よくよく見ると何とも彼(か)とも愛くるしい。 

「あっ、しまった」 

幹男がひとかけら、ふたかけらの小さく刻んだ肉を意図してこぼすととっさに彼らは目ざとく口にした。 

「おまえたちも店の客人だからな」 

呟きながらさっきまでの自分の仰天した様子に思いを戻した幹男は滑稽な残像が蘇り、恥ずかしやら可笑しいやら少女のように笑いの壺に入ってしまった。夕刻の人々で賑わう店の片隅で無邪気な子どものように転げて笑った。 

それはほんの少し涙目で……。 

(こんなにも思い切り笑ったのはもう何年前の事だろう?) 

しみじみ思った。 

非凡な人生を歩いてきた男はごく普通で平凡な日常を送るのが大きな夢だった。 

「なあ、ダディ。ちびの方ウォータードラゴンちょっと茶子(ちゃこ)に似てないか?」 

「よう! 茶子!」  

友だちまがいにジェイは彼らと関わって馴染んでいた。それはとても複雑な親父心でもある。茶子と云うのは幹男の愛娘なのだ。 当年とって三歳児だが近所じゃもっぱらの美人と評判で、町を歩けば道行く人々に二度見されるほどなのだから親父としては鼻が高い。それもそのはず茶子はパピー犬のコンテストで優勝したミス・オージーの称号を持つ小町娘なのである。しかも由緒正しき両親のミニチュアダックスフンドの血筋を引く淑女であり、要するに彼女も、もれなく同じ人種……いや、改め、犬種のはずながら外見(そとみ)と中身とでは格段の違いがあるのは否めない。それは幹男に並々ならぬ愛情を注がれて大きな庇護の元で育まれた款が茶子の成長育成に繋がった要因だろう。 

何しろ食(しょく)する肉は親父よりも上等な物ばかり。決まって毎週火曜日のピザ半額デーには1枚ずつ購入し、幹男の膝に転がって腹いっぱい食べながらDVD鑑賞するワンちゃんなんてそんじょそこらには居ないだろう。おまけに幹男の休日は茶子のための公園デートで明け暮れる。 

やがてヒトに育てられた犬の仔は 

(アタシは人間なのだ) 

と、とてつもない勘違いをしていった。 

趣味は喧嘩、冷やかし、嫌がらせ! 

なおかつ、とんでもない跳ねっ返りのぶっ飛び娘。裏付けるなら隣りの善人が庭の芝刈りに出てくると親の仇のように吠えまくり、〝してやったり〟と得意満面笑で勝利の喜びに酔いしれる。 

それでも心優しきおじさんが 

「静かにしてね」 

と窘めようものなら吠え様は更にエスカレート。芝刈り機の爆音に負けじと満身の力を再入魂。飽くなき悪戯に限りはない。しかも自宅の中庭がドッグラン。あろうことか面積は一五〇平米で彼女専用のプールも所有と破格の優遇を享受され犬かき泳ぎは得意中のナンバーワン! 

しかし、そこらじゅうがしっちゃかめっちゃかに荒らされる。 

家人がパッションフルーツを手掛けても茎から次第に破壊され、あっという間に朽ちていく。先だっても花壇が壊滅状態だったのは茶子の仕業と突き止めた。極めつけは何処で見つけるのかカエルや蛇の亡骸を家の中に連れ込んで、コレクションしては暇を持て余して戯れる。 

そのくせカラスに喧嘩を売って逆襲に遭うと及び腰。そそくさと逃げ帰り窓越しに威嚇の態勢で応戦するとは姑息なやつめ! 

「いつもウチの馬鹿犬が吠え散らかして申し訳ない」 

そこは幹男の力量で両隣りに頭を下げて近隣との良き関係を保っている。 

兎にも角にも其れほどに愛してやまない茶子とイグアナを〝愛玩動物〟のように同じくくりにされるのは些か不本意だった。 

だが内心、赤ちゃんのようにハイハイしながら愛くるしく移動する様(さま)や、人懐こい仕草で周囲を見つめるクルリとした大きな目玉は類似していると思った。 

(幸せってこういうものをいうのかな。この時間を過ごしている間にも茶子は通りを走る車をじっと見ながら親父の帰宅を待っているんだろうなあ) 

穏やかな情景を背後に息子と過ごす他愛ない空間……ほんの束の間、ぼんやりと瞑想に浸ってしまったらしい。 

「ダディ? ダディ!」 

「どうしたんだい? ステーキだいぶ残しているよ」 

「あ、ああ」 

人間の一生はいい事ばかりじゃない。しかしそれほど悪い事ばかりでもない。幸せも不幸も同じ数だけやって来て生涯は差し引き零で一つの線に収まるよ、とは誰の受け売りだっただろう。 

「ダディの肉、食べないならいただくよ」 

「あっ、ああ、うん」 

「全く生気のない返事だなあ」 

「うん、最近、下腹出てきたからなあ。プロテインに変えてここらで多少のダイエット!」 

つい、口を衝いて誤魔化した。ダイエットなどと女々しい気がしてそんな考えはさらさらない。第一、鍛え抜かれた腹筋は四十代を超えた男子のソレではないと自信があるからだ。 

ただ、今は心が満たされて胸がいっぱいだったのだ。不思議な感覚で腹もいっぱいになっていた。 

「それなら遠慮なく!」 

「そうそう俺、明日ラグビーの試合だから!あとでまた連絡入れるよ」 

そう言いながらまだほとんど手付けずの幹男用の分厚い肉と主食のポテト、コーン、それから半分飲みかけのコーラまで飲み干した。 

「じゃあ」 

「そうだな」 

幹男は更に彼より十cm以上も上背のある息子を大きなハグで見上げるように見送って別れた。父親としては忍びないほど苦労をかけたが立派に成人しプロラグビー選手として活躍している姿が眩しかった。 

「そうだ! ジェイ」 

幹男が再び呼び止めた。別段、用事を思い出したわけでもなくただもう一度顔が見たかっただけなのだ。単に今のこの平々凡々な居心地の良さが夢ではないことを確かめたかっただけなのかも知れない。 

「なに?」 

踵を返して戻ったジェイが問いかけた。 

「あ、いや、おまえ試合頑張れよ」 

「おう、ありがとう」 

一九八cmの大きな体を二つ折りにしてジェイは、丁寧にお辞儀をしてはにかむように笑って応えた。 

とある休日が静寂に終わろうとしている。 

帰りしな赤いレンガの店の軒先でジャカランダのまだ硬い蕾が開花を待っているのが窺えた。  

(そうか、気づかぬうちに時期は9月の春を迎えていたのか、時間は誰にも平等に与えられるものだな) 

去年も一昨年も何処も彼処の街路樹でも優々と咲き誇り人々を魅了したはずなのに久々にジャカランダの薄紫色を愛でた気がした。 

昔はジャカランダの並木道を歩くとその爽やかさ、心惹かれる香しさを感じるのが常だったはずなのにここ2~3年の記憶は完全に頓挫してしまっている。 

よく満開時の壮大な容姿に何処かしら日本の桜を重ねて描きながら歩いたっけ。 

何処となく日本の藤を想わせるしな垂れた花びらに遠き祖国に思いを馳せたものだ。 

 

そう……ここは南半球、オーストラリア。英国連邦国である。日本より七千km離れた亜熱帯地方の大国なのである。故に、田舎町のテラスには有袋類や爬虫類らが優雅に散歩に訪れるのも稀ではないのだ。季節は日本とは真逆、陽は東から出て西へ沈み鬼門は南、異文化のこの国はマナーも常識も全く祖国とは違う異国である。 

幹男がこの地に渡ったのは二十数年も前のことだった。 

幼少期から同い年の子らよりも頭ひとつ大きく体力を持て余していた幹男は父の勧めで近所の柔道場の門戸を叩いたことからそのセンスが瞬く間に開花した。 

以来、学生時代は無敵の大勝、高校・大学は完全特待生として君臨する。やがて日本を制し卒業後は豪政府からの依頼を受け国の要人のSPや警察官らに武道の指導に当たる仕事に就いた。 

しかし文武両道と威張れるわけではなく初めは言語で苦労はしたが〝若さ〟と〝張ったり〟がこの男の最大の武器だった。甲斐あって汗も恥も痛く掻いたが得る実りも多岐に渡って恵まれた。 

何より周囲の人間は暖かかったし、そもそも世間体や外聞を気にしない、人を揶揄する者もなければ、人をやっかんだり、人を見縊ることのない大らかなオージー気質が幹男の肌にはぴったりはまった。 

まず当初は軽い気持ちで二~三年も奉公すれば日豪国交に一役買えるだろうと安易に考えていたが、それからが何だか面白くなってきた。つまりそれまでの我が身の置き所を探すだけで精一杯だった毎日が一変したのである。 

功労を評して政府から『自国に必要な人物』としてあっさり永住権を与えられたのが理由の大半を占めた。 

反面、両親は悶々と幹男の身を案じて帰国を待っているのも分かってはいた。 

現代のネット社会に比べればあの頃の文明の利器はまだまだ未発達の時代、一本の国際電話も高額の極みで両親への定期的な近況報告も次第に簡素な内容の生存通知の一報だけでで片づけるようになっていった。 何せ、その時分は黙っていても幹男初のモテ期到来、人生春爛漫になりつつあった時代、こうなったらまずは我が身優先、青春謳歌を満喫しながら仕事に精進しない手はない。 

過去のこれまでの人生は柔道の道ひとすじ、それ以外の色取りなどほとんど無縁だった。 

名を遺せたのは彼の技と才能だけではなく、ひたすら齎す稽古と努力だったのだ。そんな生粋の体育会系が、まさか英語圏で暮らす未来など微塵も構築してなかったものだから、まずは褌締め直して就労後の一時間政府関係者の計らいで毎日英語のサポートに与(あずか)った。もちろん他力本願ばかりではなく自己流で新聞記事の音読とその理解にも尽力した。 

 

 

血気盛んな二十代前半のある日のこと職場の同僚である幾分年上で顔見知りの女性英語教師から 

「ふたりで一緒に暮らしましょう」 

と何の躊躇もない口調で申し込まれた。別に恋人でもない、交際していたわけでもない間柄なのに少々不可解に思えたが考えもなしに喜んで受け入れた。 

だが同居の半年後に彼女は 

「世界一周の旅に出るわ。今しかチャンスないもの」 

と、ぶらりと旅立って行った。よって幹男は一方的にフラれてあっさり終わった。。 

しかし、習うより慣れよとはよくいったもので、彼女のお蔭でより深く英語に馴染めたことには感謝した。 

当時の住処はクインズランド州の空港近くの大きな都市だった。少ないながらも日本人で、にわか暮らしをしている者も街で見かけた。そのほとんどはワーキングホリデーや短期ビジネスビザでの滞在者であっただろう。先進国の永住権はそう容易く手に入れられるわけではないからだ。そんな土地のスーパーに買い物に行く度に日本語で声を掛けてくれる同世代くらいと思(おぼ)しきレジの女性が妙に気になった。 

どうやら親切に対応してくれるのは同郷の好みからだろうか? 

気があるそぶりを見せるのは自惚れだろうか? 

疑念を抱(いだ)きながらもこれまでの受動的な恋を改め一念発起を決意する。いざ、心を律してスーパーの売り子に声を掛けてデートに誘った。 

結果は即了承、数日後からその女性は積極的に幹男のマンションに少しずつ荷物を運び込むようになり半同居生活が始まった。 

豪の食材は日本の比ではなく大概が大味である。 

世界に誇れる旨いものだらけの日本食で育った日本人の舌には如何にも物足りない。 

ところがこの男、腕っぷしも強いが、なかなか侮れない強者で、料理の腕も玄人はだしなのである。そして何よりも人に振舞い「うん、美味しい」と喜ぶ笑顔に大満足な〝料理人〟なのだ。 

それからというもの三か月に亘って交際は続き週末には彼女が泊りに来て幹男の手料理に舌鼓を打ち仲良く蜜月を過ごしていた。 

やがて徐々に幹男の中でも〈結婚〉という意識が芽生え始めた頃、彼女の方から先手を打って神妙な面持ちでプロポーズの言葉が飛び出した。 

「ねえ、あたしと結婚してくれない? もうすぐビザが切れちゃうのよ」 

(そんなことだったのか? 自分と結婚して永住権を手に入れたいだけに近づいてき密かに温めていた思惑は予想もなく逸脱してしまった。 

たんだ……。決してこの自分を愛してくれていたわけじゃなかったのか!) 

本性が知れたら彼女への気持ちはすっかり萎えて別れを告げた。 

数週間後、風の便りに彼女はオージーの男を捕まえて即結婚ビザを申請したということらしい、これで彼女の思惑通りのなったのだ。 

しかし知らぬが仏というのも確たる正論だろう。 

夫になった輩(やから)はそんな彼女の〝誰でもいいからビザを与えてくれる夫探し”の魂胆など気付かずに騙されたままで幸せならば幸せかも知れないからだ。 

 

 

その後ジェイの母親と知り合ったのは幹男が指導する一般人を対象に拡大して設けられた道場だった。そこへごつい野郎たちの門下生に交じって仏人の白人女性が入門してきたのである。武道は未経験とのことで文字通り手取り足取り教示した。 

美人のミリンダという名のその女性と恋に落ちるには時間は不要だった。 

幹男とミリンダはひとまわり以上の年端があったがそれは互いに少しも気になる対象ではなかった。二十代半ばの過ぎの幹男と三十代後半のミリンダはすぐに結ばれた。 

この時、岡嶋幹男はこの国で暮らそうと誓いを立て英語名を呼びやすくミキ・オカジマと改名した。 

双方の親には結婚の事後報告を電話連絡で取りついた。 

ミリンダの母親は快諾らしいが幹男の両親は受話器の向こう側でケツをまくって怒っていた。父親は昔気質の古い頭を未だかつて曲げられない。 

「物には順序ってものがある! 嫁を親にも会わせずに先に結婚するやつがあるか!」 

父親に意見されるのも耳が痛いがミリンダはすでにジェイを孕んでいだ。取り敢えずその旨だけは伝えたが祝う言葉はひとつも返ってはこなかった。 まあ予想通りの物言いは少しのブレもなく的中した。 

「とにかく嫁に会わせろ!」 

の一点張りで両親はほどなく海を渡って新居へやって来ると言う。 

隠すことでもないのでその前までにと妻との年の差、そして離婚歴のある妻は英国人との間に十五歳の少女の存在があることを伝えた途端に母親が泣き出した。 

「継子がいるなんて……お母さん、突然そんなこと言われても孫だなんて思えない」と。 

その後の来訪中もずっと父親の猛反対と母親の愚痴を聞かされたが幸い妻は日本語を全く理解できず  

「ミキ、お父さんとお母さんは何を言っているの?」 

と聞かれたが 

「彼らは不機嫌な地顔だけどミリンダを素敵な奥さんだと褒めてるよ」 

と伝えた。両親は英語が分からないのでこれも丁度いい按配だった。 

「元々、ある意味日本も親も捨ててきた不肖の息子、今更望んでくれるなら息子の幸せだけでいいじゃないか?」 

身勝手な言い分は承知の助だが後には引けない。もう押し通すしかない。無理を通して道理を引っ込めるしか術はないのだ。幹男はそろそろせり出し始めたミリンダの腹部に目を向けて直(じき)に生まれてくる孫の顔を想像させようとしたが全く埒が開かずに陰湿な空気に晒されたまま時間だけが流れていった。 

そのうちにミリンダが一八番の自慢のコンソメスープとガーリックパンを用意すると空腹だったのか両親揃って平らげてくれたことに安堵した矢庭に 

「食った気がしないな」 

と父親が不快な言葉で切り捨て 

ついで母親も 

「美味しいものじゃなかったわね」 

と同調する。似た者夫婦は言いたいことは言えただけでも十分だろう。 

幹男も多くの事は知らないがミリンダの元夫との破局は彼の浮気らしい。 

そのためそこそこの慰謝料と娘レインの養育は彼に任せてあるのだと言っていたが彼はその後再婚し三人の娘を儲け再び離婚し更に再々婚を成し遂げまたまた三人の娘を儲けていると言う。 

ならばレインの消息が心配ではないかと尋ねると 

「あの子は何とかしてるでしょう。もう十五歳よ」 

「それにレインは嘘つきなの。あの子の言うことなんか信用できないわ」 

どうやら母子関係の不具合を察したが、中学を卒業しアルバイトで生計を立てながら絵の勉強をしていたレインは妻に誘われるままに度々遊びにやって来た。 

以来、幹男とレインはとても気が合う友だちになった。思えば幹男とミリンダよりも幹男とレインの方が年齢が近いのだ。レインは母親似ではなく小太りで洒落っ気もない少女でひとつも美人とは言いがたいが素直でよく気遣う優しい子だった。外出好きの妻に代わってジェイが生まれてからは足繁く子守りにやって来てくれた。 

少々寄せ集めの家族のような風変り感はあっだが、それでも十年くらいは順当に幸せな暮らしが続き、夫婦仲もまあまあうまくいっていた。 

ところがその後からミリンダの性格に顕著な変化が生じてくる。 

前々から勝気の一面は持ってはいたが争いを嫌う幹男は全部折れて織り成し波風立てずにやってきた。 

おそらく更年期障害か? 

すぐに落ち着くだろうと高を括っていたがミリンダのイライラは突き進み感情の起伏はますます激しいものになっていった。些細なことをいちいち悲観し、褒め言葉は逆手に取り、意味も分からず怒り出す、会話にならず何を言っても全てを否定、その矛先は幹男だけでなくやがてジェイにまで及び出した。 

家庭内はすっかり冷え込んでやり直す糸口を模索していた生活が四~五年経過したが、ミリンダの方から離婚の口火を切られ、幹男も気力が失せて動じずそれに応じた。 

豪の離婚率は6割弱と頻度が高く多くは弁護士に依頼して財産その他の解決を行うため弁護士費用も目玉が飛び出るほど必要とし離婚に対するエネルギーも絶体だった。 

多感期のがジェイはそれでも大好きな両親の離婚を幸せに思えた。それはもう重い空気の中に身を置くより遥かにずっとマシに思えたからだ。 

結婚後に作った財産は折半がだいたいの決まりだがミリンダは既に過去に離婚経験者、幹男に一切の非はなくても財産争奪の知恵は多分にあった。最終的には幹男に一割、ミリンダは専業主婦と言う理由から九割と不本意な裁判所の結果を受けたが、それには従わざるを得なかった。ジェイは母親との暮らしを選んだので養育費として週三百ドルの送金もミリンダと交わした。 

これで終わった、最近まで家族として過ごしていた筈なのに簡単に他人になってしまうものなのか。やるせなかったがこれからは一人で生きていくしかない。こんな時も時間は無情に流れているのだ。 

離婚を機に心機一転、身辺も一掃して転職を決め込んだ。 

豪は終身雇用に就く者は少なくむしろ鞍替えする都度スキルアップしていく雇用形態といえる。 

時代はネット社会に様変わりどんどん進化を遂げていた。WEBで検索すると『日本語が話せる人募集』と言う求人情報が目についた。それほどパソコンに明るくはないが、日本を拠点に置くその大手旅行会社の支店に面接に行くと募集要項の条件は理に適っているので即採用が決定した。そして会社付近の一ルーム賃貸マンションにも転居した。会社まで徒歩十五分、初めての会社員生活は定時に終了後からの長い時間を持て余す。一人で外食に行く気にはならないし、それならば自慢の腕を自分のために振るう方が好きなのだ。唯一の楽しみはジェイに連絡をとって幹男特性ごはんを食べさせるくらいのもの……だったが高校生になったジェイにも彼女ができたと報告があった、ジェイの足が少し遠のいていくのを感じた、もうそんな年頃へと成長していたか。息子との食卓は愉しいが沸々と幹男の胸中はそれだけでは埋められない寂しさに支配されるようになった。 

パソコンを駆使すると日本が瞬く間に近づいたので毎日、食い入るように日本の情報を熟読するのが日課になった。 

するとふと、大きな活字で結婚相談・パートナー登録という組織があることに気づき半分は本気もあったが興味本位も手伝って曖昧な気持ちで登録に至った。 

 

 

しかし驚いた! 

九州地方に住む美千子という女性から速攻返信があったのだ。 

案外みんな本気の本座で婚活に挑んでいる様子が見て取れる、幹男も真摯な姿勢を見せねばと仕切り治してちゃんと向き合うことにした。 

美千子とメールを交わしたのはほんの二~三通、関サバ・関アジの旨い漁師町で一人暮らしの会社員、年齢は幹男と同い年だが十八歳の時に出産した一人娘は既に彼氏と同居中の身軽な一人暮らしと自己PR! 

それにしても凄まじいほど事の運びが早かった! 

すぐさま 

『そちらに遊びに行ってもいいですか?』 

と書いてよこした。 

よくよく聞くと生まれて初めての海外旅行にして一人旅らしく、それでも自らやって来るという逞しさに断るわけにもいかず承諾した。 

正直、逸(はや)る気持ちにはなれかったがひとりぼっちの幹男にとっては久々に母国語で語り合えるのは嬉しかった。 

空港で迎えた美千子はそれまでに数枚送られてきた写真とは少しイメージが違って見えた。やはり二十代の娘を持つ母の観はぬぐえない。 

日本人にしても小柄なせいだろうか? 

それとも左の目頭と目尻に携えた二つのやたらと大きなイボが、塞いだ瞼を変形させて目がしょんぼり見えるせいだろうか? 

やはりファッションセンスの乏しいそこらの洒落っ気のない衣料品店で誂えたような昭和レトロを身に纏っているからなのか? 

いわゆる幹男の中ではパートナーと言うより〝まずは友だちから〟のタイプに相違なかった。 

「ホテルまで送ります、観光はそれから案内します」 

「え? ホテルは予約してありません。幹男さんのお宅に泊めてください」 

「私は一人暮らしで一ルームの間取りです。取り急ぎこれからホテルの予約をとりましょう」 

「いいです、幹男さんに会いにきたのに。部屋の隅でも、お勝手でも構わないので置いてください! ソファーとかありますよね?」 

「分かりました、美千子さんの好きなようにしてください」 

一見、風情のある素朴なオバちゃんの風貌だがなかなかはっきりした女性だという印象を受けた。予定を変えて一路、幹男のマンションへと向かって車を走らせた。 

さほどの情報は互いに持たずにまずは車中で自己紹介と相成った。趣味・好きな食べ物・休日の過ごし方・今までに旅した場所・小さいころ見たアニメなど差支えのない話題で盛り上がる。同世代の会話は時空を超えて一気に距離が縮まっていった。 

美千子は初の海外体験の感想を至極当たり前の言葉で表現した。 

「さすがですね、何処も英語ばかりで外国って感じ!」 

自分では真剣に話をしているつもりだろう。真顔で面白いことを言い出す。 

「すごーい! みんな外国人なんですね」 

小躍りするほどに街中(まちなか)の日常に歓喜しているのだ。 

幹男にとっては見飽きた街の風景だがそれでもしきりに感動されると嬉しくもなる。何より母国の言葉で語らえる。 

ミリンダとは互いに異国語同士の会話だったのがストレスの根源でもあったように思えた。 

出会いの日のよそよそしさは何処かへ失せて五日間の滞在中で、いつしかミキとミチコへと呼び名が変わった。 

「ミキとこは、がばいよか。だけん日本はごっと、いとぜんなか」 

方言で言われると、都会育ちで標準語しか知らない幹男には何を意味するのか見当もつかず返事に迷う。これは幹男がとても気に入ったという表現らしい。 

すかさず 

「ミキと一緒になりたかと!」 

「よかと?」 

美千子は地味目な顔立ちとは裏腹に無鉄砲なほどせっかちで大胆で積極的で能動的に行動を起こす。彼女を愛しているのかと考える時間さえ与えてはくれない。 

「よか!」 

押され気味にそのまま二つ返事で答えを出した。もうこの虚しさが埋まるなら誰でも良かった。何よりもこの五日間は一人で居るより愉しかったからだ。 

その変わり英語力がなければこの国では暮らせないことだけは重々念を押して伝えた。 

「英語なんて分からん、ミキがおるからいいけん」 

「俺が話せてもミチコが話せなきゃ不便なんだよ、。とにかく婚約者ビザを申請すれば無料で英語学校、五百時間の特典があるからね。そこで勉強して」 

現実の厳しさを目の当たりにして面喰った様子だったが交際五日で幹男と美千子は再婚同士の結婚を約束した。 

初めのうちは美千子の目の周りのイボを見るにつけ、見ている側の方が瞬きしたくなったものだが見慣れるとイボもアクセサリーに見えてくる。 

とにかく話は速やかに進み一度帰国してアパートを引き払い必要書類を用意してトンボ返りの周到な準備に入る運びとなった。 

さて中年再婚といってもその手順を踏む前に美千子には健在の母親がいる、そして幹男の両親も健在だ。幹男は自分も帰国するから一緒に双方の親にまず先にあいさつに行こうと相談した。 

「うちの母には会わんでいいけん!」 

と頑固に断られ、勿論、幹男の両親に対しても一刀両断だ。 

〝これは運命の出会い〟だとか感じることもなく美千子の強引さに引っ張られていることを明らかに分かってはいたが、それには何もこだわりはなくなった。 

これで長い夜を一人でやり過ごしたり退屈な毎日にやるせない思いもなくなるだろうと一塁の夢を抱いたからだ。 

数週間後、美千子は再渡豪しすぐに幹男がビザの手続きの算段をした。 

美千子の母親には電話で結婚報告とあいさつを請う幹男の両親には罰が悪く幹男の一つ年下の妹、和美を介して伝言を依頼した。これまでの経緯を簡単に説明すると和美は口篭った声で、 

「兄貴、いくら何でももっと時間をかけるべき! そんなに急かないで。しばらくつきあって相手をよく知ってからの方がいいんゃないの?」 

最もな忠告を投げられた、確かだった。それはあとで的中し大反省の材料になっていった。それでも妹がうまく話してくれたのだろう。疎遠になっていた父親からメールが届いた。さすがに祝辞のメッセージは書き添えられてはなかったが短文ながらも 

『幹男元気にしているか? お父さんもお母さんも元気で頑張っています。 

美千子さんと仲良くやってください』 

という言葉が嬉しかった。 七十代の父親が幹男とのメールのためだけにパソコン教室で学んで覚えた大切な一文である。幹男は早速大きな文字で返信をした。 

『お父さん、お母さん元気で安心しました。 

メールありがとうございます。美千子はよくやってくれています。料理もなかなか旨いです。今度ぜひあそびに来てください。たまに会いますがジェイもとても元気ですよ。アイツも高校生になりました』 

所どころ嘘を書いた、親を安心させるための嘘だった。 

美千子から聞いていた彼女のざっくりした経歴は、自身も母子家庭で育ち職業高校卒業後に、間もなく身ごもり娘を出産してから入籍するが夫も若くて度重なる浮気に精も根も疲れて未練なく子どもが幼児期に離婚、夫の給料もまだ少なかったが不貞を認めたので、できる限りのお金は受け取れた。 

それからというものは母子家庭を理由に福祉の恩恵が受けられ会社勤めをしながら娘を育て高校まで出したらさっさと彼氏のところへ行ってしまい今は俗に言う〝空の巣症候群〟に陥っている渦中だったと。 

それから海外旅行にいっぺんはへ行くのが夢で海外暮らしは夢のまた夢で田舎暮らしで一生を終えると思っていたら婚活サイトで海外在中の登録男性発見! 

そこで幹男に白羽の矢を立てたらしい。何とも単純明解な思考回路の持ち主であるが、ここまで緩いとむしろ裏まで透けて見えて分かりやすい。 

幹男も自分のこれまでを丁寧に伝えて理解を求めた。 

よって新たな生活を始めたばかりで貯えも少ないので二人の豊かな老後のためにパートで美千子も働いて欲しいとも促した。豪はパートでも時給は最低賃金が日本の二~三倍なのだ、決して悪くはない条件だ。  

まずは二人の基盤を作る上での初期段階である。一番簡単なバス路線上にある英語学校に入学手続きまで漕ぎ着けた。だがそこからが至難の始まりだった。それは一人ではバスに乗れずに送迎の末、初日で弱音の連発が始まった。 

「ちんぷんかんぷんで全然分からん」 

あれほど貪欲に豪で暮らしたいと切望してたではないか。英語は生活の全てなのだからと励まし励ましむずかる子どもをなだめるように二回、三回と見送った。迎えに行くと決まって仏頂面で当り散らす。 

「分からん! 分からん! もう行かんけん」 

英語を学べるチャンスはもうないかもしれないが幹男も已む無く匙を投げた。 

ただ一言嫌味混じりに言葉を放った。 

「これは貴女の意志で決めた事ですよ」 

それからというもの美千子は家の中だけで過ごし幹男を送り出して迎え入れるだけが日課だった。やはり言葉の壁は不自由で外出する勇気がなかったからだろう。かといって日本から持参したDVDは観つくしてTV番組は何を言っているのかさっぱり理解できない幹男の帰宅だけを待って疲れた背中に向かってに容赦せず畳掛けるように愚痴り出す。 

「つまらん! つまらん! 日本はがばい面白かったけん。昼間はミキがおらんし、しえすか」 

美千子の気持ちも分からないではない。料理はさほど美味いといえる腕前ではなかったが旨い、旨いとやたらと大袈裟に賞賛した。家事も特別綺麗好きでもないが普通にこなせば褒めちぎり多少の事でも拾い集めて労いの意を表して喜ばせた。 

やはり美千子には友だちが必要なのだ、かつて自分も多くの友人に救われた。 

丁度その頃、知り合いから豪在中の日本人男性に嫁いだばかりの日本人妻が自宅の近辺に住んでいると教えられすぐさま連絡を取った。善は急がねばならない。 

幹男たちのマンションの共同スペースであるゲストハウスへ招き夫婦2組で交流会を企画し会食内容はオージーでは定番のBBQと決めた。これなら焼き手は主に男で妻たちは意気投合できるだろう。それは狙い通りだった。夫婦はお互い成人した子どものいる再婚同士で妻たちは年恰好も近く環境も不思議なほどよく似ているらしく女子会の弾む声が戸外に設置された炉まで楽しそうに響いてきた。 

この日は美千子が幹男の元へ嫁いできてから初めて饒舌な夜だった。 

美千子曰く日本人夫は英語が堪能だが妻は美千子同様英語学校を二~三時間で中退するも何とかなると豪語していたと嬉しそうに話す。 

(まあ、人によるだろうな) 

幹男はふっと小鼻を膨らませた。美千子は依頼心が旺盛で興味がないことには全く向上心も向学心もない。 

しかしながら日本人の妻友を得てからは二人で頻繁に出掛けるようになり幹男が同伴しなくても昼間に買い物を済ませられるまでに進歩があった。 

幹男は勤労で無駄使いはしないでミリンダとの婚姻中もずっと財布は預けていた。 

開放的に外に出るようになってきた美千子にも心良く給料全てを任せて銀行カードを渡した。やっと夫婦としてやっていけると信じて……。 

「自由に使いなさい」 

ただそれ以後、ミリンダからジェイの養育費が入ってこないと苦情の連絡が度々くるようになった。 

豪の給料は週単位で毎週振込まれ、美千子は衣類には無頓着で華美な女でもなく幹男の給料の範囲で住居費・生活全費般の費用を除いても週の三百ドルは余裕で捻出できるはずなのである。給料明細を確かめても入金記帳は確かにあるが同時に全ての額を引き出した痕跡もある。 

初めのうちの言い分は愛煙家である美千子にとって豪は煙草が高すぎるからお金もかかると嘯いていた。確かにここでの煙草は尋常ではなく高価な嗜好品である。だから多くの人は葉っぱと巻紙とフィルターを個々に買い手作りして煙草を味わう、面倒だが節約になるからだ。幹男は後者だったが美千子は一連の作業を億劫がるので完成品を愛飲するのも由としていた。かつてミリンダにもそれを許していたのだから。 

さらに、ことごとく最もらしい金の使い道の言い訳をしていたが美千子のそれまでの生活を振り返って考えた。確かに母子家庭での子育てに翻弄されて苦労はしただろうが多くの恩恵に肖れ、彼女自身も高校卒業後から二十年近く就労を継続してきたのだからそれなりの貯蓄があるのではないかと不思議に思えた。だがビザ申請にかかる三千ドルを支払いそれが全ての財産だったというのは事実らしい。 

美千子は無類のギャンブル狂だったのだ。 

知り合いになった妻友とカジノへ行って遊び方を覚えてからというもの、退屈な日中を賭け事で過ごしていた。負けることばかりでたまに勝ってもそれを資金にまた負けて……の繰り返し! 

日本でもそんな生活でパチンコ屋の常連だったと悪びれずに答えた。 

でも今は美千子に任せてある金は幹男が一生懸命に働いて作った貴重な金である。最低限必要な金とジェイの養育費にまでは絶対に手を出さないと約束させ、たまに遊ぶことだけは許した。しかし美千子の態度はそうは変わらなかった。 

その頃、母親と折り合いの悪いジェイが幹男の家に転がり込んできた。 

半年間に及ぶ再婚新婚夫婦と夫側の息子との奇妙な生活が始まった。 

美千子はジェイを煙たがったりはしなかったが、ジェイとはほとんど会話を交わしたことがなく幹男が居ない時は特に間がもたなかった。 

広さはあるが何と言っても一ベットルームだけのマンションではジェイはリビングで就寝するしか他に居場所がなく否が応でも毎朝毎晩鉢合わせとなる。ジェイは幹男似の穏やかなおとなしい性格で美千子のことも〝幹男のパートナー〟としての存在を十分に認めていた。だから毎日の挨拶は欠かさず天候に心情を表しては臆せずに言葉もかけた。美千子とのコミュニケーションを図ろうとジェイなりの努力だったのだ。 

「ミチコ、おはよう! 予報じゃ今日の花火大会晴れそうだよ。ダディと行くのかい?」 

などと言われても美千子の反応は薄く小声で「あ……っ……」と声を出して聞こえているということを合図するのがせいぜいだった。美千子の英語苦手意識は全く直らずジェイと幹男が談笑していると大きな疎外感に苛んでいた。 

妻友はどんどん新しい友だちを作って英語が上達していくのが癪に障り逆に毎日電話をかけて長話を仕掛けたり遊びに行こうとひたすら誘っては同じ境遇に引き戻そうとした。 

そしてますますギャンブルにはまっていき妻友に借金までしても止(や)まずに遊ぶ。さすがに温厚な幹男も小言を言いだし美千子は鬱陶しさを爆発させて喧嘩が絶えない日が続くようになってきた。 

実はジェイが高校で上位の成績を収めていたのだ、ここは成績順に大学進学できる仕組みになっていてその権利は半分くらいの生徒にしか与えられない。大学まで国立なので諸外国のように法外な出費はないが国が大きい為、大学生となると自活を余儀なくされる。幹男も親として金銭面での必要なサポートをするのは当然だと考えていた。だが湯水の如く金を持っていかれたのでは自分たちの生活そのものさえ困窮してしまう。 

なんとか分かって欲しいと頼んだが根本的には変わらず美千子は既に病的なギャンブル依存症だったのだ。日本語で言い合っていたが険悪な雰囲気でジェイには自分の居場所はここではないと感じたらしく高校のクラスメイト三人で部屋を借りて出てい行った。その旨は幹男への遠慮もあったのだろう、頑なに大学進学はしないと拒んで働くと決め高校時代から放課後はアルバイトで生活費を稼ぎ出して独立を始めた。 

数日後、法務局から送られてきた書類に目を通しながら一人息子にさえ頼りにされない親父の烙印を押されたようで幹男はこの再婚について考え始めた。偽装結婚を抑止するために随時二人の詳細を報告せねばならない義務があるのだ。怠れば美千子の永住権許可は下りない。 

美千子の願いを叶え一緒に暮らしたが彼女の想い描いた海外生活はTVや映画の場面の輝きとは違う現実なのだ。せめて英語を覚えれば世界が広がるし毎日がもっと楽しくなるからと何度説得しただろう。諦めずに暮らせないものかと何度も模索した。だが南瓜のスープを褒めると連日連夜食卓に登場し食傷気味、会話もないのでTVを点けるがテロップの単語も理解不能でいつもの口癖が始まる。 

「あー、つまらん、分からん」 

子どもが愚図るのと一緒なのだ。 

幹男は腹を括った、永住権取得した日にこう告げようと。 

「もう、いいでしょう? 出て行ってください」 

美千子は薄々離婚を言い渡されるのは分かっていたようで黙ってうな垂れた。 

それでも二年間は夫婦であった誼もある、家裁に掛けて離婚するのがここの形だがその知恵もない女が哀れに思えた。 

万事に備えてミリンダとの離婚の際に財産分与した僅かだが定期預金に入れておいた金がある。豪の利息は利率が年六~九%とかなり良く元金に利息がついて膨らんでいた。 

手に職もなく働く気もない美千子がこの先、無一文では気の毒に思いジェイに掛けるつもりだったが全額を渡した。金はあっても邪魔にはならない、これを糧に悔い改めて身の丈に合った暮らしを見つけて欲しい一念だった。三万ドルはあった。幹男の精一杯の誠意だったのだ。 

それでも美千子は 

「これだけか? もっと欲しい!」 

と訴えた。 

美千子の欲深さを見て幹男は別れて良かったとしみじみ思えた。 

 

 

家事は並みの主婦より得意な幹男は生活には何ら不自由はしなかった。 

熱(ほとぼり)りが冷めた頃… 

豪の雇用制度は労働者に手厚く年5週間有給休暇は必須に取得できるので独り身に返り咲いた幹男は京都駅にほど近いホテルの、とある企業パーティ会場に居た。 

これまでに幾度か日本へ帰る目的は両親、親族、知人の元を訪れることに留(とど)まっていたのだが、ふっと旧友の耶麻野に会う事を思い立ったのだ。 

大学時代の凄まじい運動で共に汗を流し涙した仲間との約束は安易に取り交わせたが。その後に耶麻野は仕事の一環としてそのホテルに就くこととなり、先約の幹男との約束は流されてしまう。まあ仕事人は当然それを優先して然りだと思うので腹は立たない。 

「そんなわけでごめんよ。でも良かったら客人として来ないか?」 

幹男もひょんなことから誘われたというややこしい展開と派手な場所を好む、あゆ子の行動の必然が奇妙な出会いの始まりだった。 

水無月のある日の夕刻、会場時間に少し遅れて斬新なホテルに足を踏み入れると宴もたけなわ大勢の人たちが和やかに談話していた。耶麻野を探すと接客に追われて幹男に気遣う余地などない。家族連れも多い、幹男は人いきれも苦手だがおまけに立食で、子どもの動きが騒がしく立ち往生してしまう。 

(場違いだったかな……早めに失礼しよう) 

そう思いながら幹男は我が身を見下ろして微かに自嘲した。 

一八六cm、元武道家で筋肉で構成された体の大男は日本人の集団の中に居ては、さながらガリバーのようで身の置き所を探しても紛れようがない。 

まして日本人特有の暗色系を好む色彩感覚はとうに薄れ当日は桜貝色のYシャツにクリームベージュのジャケット、ドット柄のキャラメル色のネクタイと同色のにパンツ、描きやすい色味のある出で立ちだけでも目立ってしまう。 

そのせいか柄にもなく好物の鮨をつまんでみてもどうも旨味を感じず浮き足立ってくる。となると人間の習性なのか、おのずと片隅に吸い寄せられるように移動したくなるものだ。やけくそだ、再度、コーナーに置かれた食べ物を取りにテーブルについた。 

と、その視線の先にこれもやたらと目立つド派手なデザインの黒のキャミソールワンピースを身に着けた女が居た。肉付きのいいグラマーな胸元をばっさりと開(ひら)き背中も半分開(あ)けたステージ衣装のように華やいだ服装に十cm強はありそうなエナメルのピンヒールを履いていた。それはまるで男に媚るかのような計算つくした艶姿だ。それがあゆ子だった。 

「こんにちは、お一人で来られたのですか?」 

幹男はオージー気質が身について目線が合うと気軽に挨拶を交わすのに照れはない。ちょうど山歩きの時のすれ違いざまの交流のようなものが常なのだ。 

「こんにちは。ええ! 友だちと来たんですがはぐれてしまって……一人です」 

あゆ子の反応は愛想が良くて早かった。 

互いに一人で話し相手もなく手持ち無沙汰だったことが分かるとそれまでの時間を埋めるように会話が弾んだ。 

「そうなんですかぁ? オーストラリアにお住まいなんていいですねえ」 

幹男の話を熱心に身を入れて聞きオーストラリア気候や治安についても興味深く尋ねてきた。 

どちらからともなく身の上話を伝え始めたのは小一時間語りあってからだろうか。 

そして幹男は何気に自分は独身だと話した。隠すこともないと思ったのと話の文(あや)から言っただけのこと。一人息子とたまに会うのが楽しみなくらいでそれほど気楽なものでもない。多少、愚痴めいたことも叩いてしまった。 

「私も独身です」 

あゆ子も即座にそう答えた。 

大柄な女でさらにヒールで丈を伸ばしているせいか疲れるほど首を傾けずに会話する必要もなく終盤まで和気藹々とあらゆる話題に触れ情報交換に着手した。それまでの退屈さは何処かへ吹っ飛びパーティは思いがけずアっという間にお開きとなってしまい名残りを惜しんだ。もっと話がしたかった。この時のあゆ子は話の運びがうまい聡明な女に思えたからだ。 

別れ際、幹男は名刺の裏に個人のメールアドレスを書いて手渡し 

「続きはメールでお話しませんか?」 

と添えた。 

「うわぁ岡嶋さん? ……ですか? わたしも岡嶋です」 

すかさず歓声を上げて名刺を大事そうにハンドバックにしまい込んでくれた。少なくはないと思うが日本のベスト十に入るようなそうそうある名前でもないはずなのに意外な偶然にちょっと驚き縁(えにし)を感じた。 

それから三週間後自宅に戻って期待しながらパソコンを開いたがそれは期待以上のものだった。短い文面だがあゆ子からの夥しいメールが届いていたのだ。 

毎日の小さな出来事、夕飯のおかず、勤め先のこと等と数々の豪についての質問事項が毎日のように書き綴られて締めくくりには〝あゆ〟でくくられていた。 

幹男は返信が遅くなった失礼を詫び、ひとつひとつの質問に丁寧に答えて返してから『あゆ子さんへ』 

と認(したた)めて追って書きをした。 

『豪では友人・知人の間ではほとんどファミリーネームではなくファーストネームで呼び合います。私のことも岡嶋さんでなくミキと呼んでください。 

この国での私の名前です』 

あゆ子の方は携帯メールアドレスに届くので気づきが早く返信メールもめまぐるしく幹男が返す前に幾らでも送られて来た。 

『それではミキ。わたしはあゆ子さんではなくアユと呼んでください』 

その後のメールには幼な子のように自分のことも〝アユ〟と呼んでいた。妖艶女のイメージが付きまといそのアンバランスがお茶目に思えた。 

あゆ子は筆まめで毎日のようにメールをよこした。そこには何処かで抜粋したポエムや四季の写メール、などの添付もあり他には夕飯のレシピ、他愛のない世間話、今日の一押しのTVドラマのあらすじ……と、巧みな話術で幹男の心を豊かにしてくれた。 

ただし日めくりの暦のようにその日毎の感情に変化は感じる。やけに権高に振る舞うことあれば、妙にセンチメンタルな夜もある。 

『ミキは何で別れたん? アユはいつもこの選択で良かったんかと思うんやけど……。ほなね。』 

と、こんな調子だ。 

四十女が自分を他人に向かって名前で呼ぶなんて考えは到底及びもしないが、それは女が次に仕掛ける最初の罠だった、 

それはさておき幹男は自分の哲学を語った、離婚歴はあるとは話したが二度の離婚とは余計なことは言ってない。 

『二人で居る方が苦しいならば別れを選べばいいことだと思います。解答はいと簡単に導き出されるものだと思います。日本のように〝恥の文化〟とはここでは聞いいた事がありません。人様に笑われるからやめなさい。よそ様を気にして慎みなさい。 

そう語る者はいない環境下なのですよ。離婚も結婚同様、人それぞれのセレモニー、どちらが幸せ? 不幸せ?大陸での暮らしは人の不幸に蜜はなく、隣りの芝生は青くも見えないものなのです。古式ゆかしく人間関係を持つこともない、由につけ悪しきにつけ謙虚さは日本の誇るべき専売特許ではないでしょうか。ここでは通用しないがやはり日本を語ると切なくて懐かしいですよ。取り止めもなく終わらない談義になるのでもう割愛しますね。                      ほなね。』 

 

二か月後の葉月の中旬、あゆ子は子どもの夏休みを利用して渡豪したいと希望してきた。長女・次女は成人していて義務教育中の三女を元夫に預けられるので好都合なのだと言う。 

大手旅行会社に勤務していた幹男にはあゆ子の訪問を楽しませる秘策があった。それは会社の福利厚生で無料かあるいは半額で旅行がいくらでも楽しめるのである。一週間の旅なら周辺の離島巡りのバカンスも十分だと計画した。そして予定通りあゆ子は真夏の日本から真冬のオージーへとやってきた。 

あゆ子も決して美人の類ではなく前歯の出た女だが豊満な体は何処か男好きする魅力があり、それを強調するかのように案の定、肌に張り付いたようなチャイナドレスで現れた。それも太ももまで割れたスリットがやけに色めきだっている。 

空港へ到着すると開口一番 

「けっこう寒いんやなあ」 

吐息で指を暖める仕草で両手を脇に持っていき胸を色っぽく見せつける。 

「そりゃあそうでしょ! 真冬だからね。とは言え日本の晩秋並みの気温だから凌ぎやすいものでしょう」 

そう言いながら荷物を車に運び込む。 

ブランド品には全く疎い上に関心もないがスーツケース・バッグ小物に至るまでルイ・ヴィトンの正品らしいことぐらいは分かった。あゆ子の方から予め宿は幹男宅に宿泊すると希望して、土産にもヴィトンのセカンドバッグを用意してきた。安価なものではないはずだ。これなら十分なホテル滞在も可能だろう。我が家が選ばれたことには気が引ける。ここは一年前まで美千子と共に暮らした部屋だ。 

翌日から旅行の計画があることを打ち明けると 

「ミキのサプライズほんまなん?」 

思わず喜び勇んで懐の中に飛びつくが慌てて奥ゆかしく身を縮めて恥らいを見せた。 

二人だけの空間であゆ子は緻密にオンナを魅せる演出をする。 

「ええなあ、何処連れてってくれはるん?」 

まずは幹男の特別旨い手作りローストビーフで再会を祝しエクセルで構成した明日からの行程の説明を始めた。予定表に見入る仕草も自慢の胸を強調するように両肘ついてそれを誇示する。あゆ子の胸は掴めるまでの位置に如才なく据えられた。 

「ミキとこきて良かったわ。普通のツアーじゃこんなに支援あらへんもん」 

全ては男の心の臓まで響くように計算しつくされた賜物だった。やぶさかではないが歓迎の宴をとってからあゆ子用の寝床をソファーに敷いて拵えた。 

「じゃ、おやすみなさい」 

「アユはここで寝るん?」 

「明日からはクルージングに行きます。今夜は窮屈だけど我慢して」 

さっさと幹男はシャワーを浴びてキングサイズのベッドですぐに眠りについた。横になるとすぐに熟睡する性質(たち)なのでトイレ以外目覚ましがなければ滅多なことでは目が覚めない。しかし異様な気配で間もなくしっかり覚めてしまった。 

あゆ子が全裸でベッドに滑り込んできて幹男に体を絡めて弄んでいるではないか。 

幹男といえどこんなにもいやらしい女には初めて遭遇した。あゆ子はかなりの滑らかな舌使いの床上手だった。幹男も男として勇む気持ちが残っていた。 

「アユを知ったら夜が待ちきれんで」 

あゆ子はそれを呪文のように繰り返す。幹男は朝までしっぽりと堕ちて行った。 

あゆ子は体を幹男に任せながらベッドの中でさめざめと語り始めた。 

「アユは元旦那が浮気しとって別れて実家に戻って三人の娘と母と暮らしてたんや。旦那は自分が悪いんやから給料は丸ごとアユに振り込まれて当然やろ? 味噌蔵の御曹司やし親から金なら貰えるはずやもん。でも旦那の両親が孫を可愛がってたから三女は高校生からは引き取りたい言うねん。アユはその約束してるからあと二年したら一人ぼっちになってしまうんや。そしたらミキんとこに来たい」  

幹男も学習しない男である、言い寄られたら断れない。 

「二年経ったら一緒になろうね」 

いとも簡単に結婚の約束に応じた。幹男はこれが最後の恋だと信じたのだ。 

 

しかし、愛した女は絵本に描かれたような心美しい姫君ではなく現世で知り得た原作の〝本当は怖いおとぎ話〟を地で行く妖魔だった。美しい少女を斜めに覗くと修羅を燃やす魔女にも見える、あゆ子は演出ずくしの多義図形だったのか。それとも鬼畜がヒトの振りして正体を潜めていたのか。あるいは不実に気づかず愛した男の性(さが)か? 

幹男は宝くじに大当りしたほどの確率でそう……彼女、あゆ子を引き当ててしまったのである。 

まだこの頃は何も知る由もなく幹男はあゆ子を娶る自分は幸せ者と思い込んでいた。 

改めて耶麻野に感謝! 

感謝! 

そんなに気は進まなかったがあの日、耶麻野が誘ってくれたことに大感謝だった。 

そういえば面白いエピソードを思い出した。大学時代にみんなで海に行くことになったが幹男は遠征で急遽代わってでかけた友人と、一緒に行ったグループ内の女子が後々彼の奥さんとなった。まさに人生は一気に好転、あの時点であっさり誘いを断っていたら彼らは違う道を歩いていただろう――と。   

 

翌日になるとそこには豹変した女がいた。 

「アユはミキにレイプされた」 

と大真面目に幹男に詰め寄る。それは大きく言葉を間違えた表現だ。情を通じてきたのはあゆ子の方からである。 

それはまだ言いい知れぬあゆ子の脚色の序盤にすぎなかった。 

それからの一週間の旅行中はあゆ子は夫婦気取りで珍事の連続だった。 

初日に島のサイクリングに参加して幹男の後方にいた女性が抜き出て彼と前後を入れ替わった。 

「何で女の尻ばかり見て走るんや! 信じられへん!」 

執拗に責め立てる。濡れ衣もいいところだ。 

船上でシュノーケルに参加するために潜水着に着替える段取りをしていると目前にいた中学生くらいの少女らが着替えを始めた。 

「何でじっと見ているん! 厭らしい!」 

人目も憚らずに騒ぎ出す。 

観光バスでは車窓の風景を見せてあげようとの配慮からあゆ子をあえて窓際に座らせた。 

「ミキは通路側で女の姿が見たいんか?」 

バスの中でもひと悶着。 

青空市場を散策中はいちいち女を見るなと見張られてずっと下を向いて歩かねばならないのが不自由だった。そこへハンドクリームを店頭で試供販売をしていた女性にあゆ子が呼び止められた。 

「マダム……ちょっと!」 

「アユにクリーム試してみなって言ってるよ」 

勧めてみたが〝女〟と言う生き物は虫唾が走るほど大嫌いなあゆ子である、歓迎などするはずもなかった。 

「ではミスターが試してみてください」 

せっかくだからと手に取ろうとすると、その女性は丁寧に自分の手で伸ばしたクリームを幹男に優しくつけてくれた。 

「ぎゃ――! なにするんや!」 

女性販売員に狼煙を上げて怒鳴りつけ手提げバッグで幹男を叩き周囲は何があったのかと狼狽するばかり。 

買い物に立ち寄ったスーパーのレジの女性に挨拶され幹男が挨拶を返した。 

「何で女にいらん言葉を返すんや!」 

いちいち地団駄踏んで大激怒。 

 ここでは、「こんにちは。元気ですか?」が〝いらっしゃいませ〟の挨拶で「とても元気さ。ありがとう」と返すのが常識で黙っているのは常識外れなのである。  

ところがあの女をナンパした! 

と勝手な解釈、何度国民性だと伝えても理解できずに毒を吐く。 他の女性客が幹男のショッピングカート内の商品の位置を尋ねると殺しそうな目で睨み付ける。帰宅の車中は罵詈雑言で荒れ放題。 

ちょっとでも笑わせようと目の前を通る老婆の姿に目を止めて 

「アユ、見てごらん、あのお婆ちゃん。真紅の帽子で三つ編みで黄色のTシャツに緑の短パン。まるで歩く信号機みたいだ。ハハハ」 

と笑ってみせた。それはとんでもない誤算だった。明らかに怒りは増幅された。 

「何でミキは女ばかりじーっと見るん? もうええ! 終わりや!」 

「アユはアユだけを見てくれる人がいい!」 

幼女から老婆まであゆ子の中では女は女で全て彼女の敵なのだ。凄まじい女の嫉妬の突風被害に見舞われたが彼女が帰ってしまえば元の木阿弥、再び幹男も一人ぼっちの生活に戻るのがまた寂しかった。思い出すのは淫乱で破廉恥で甘え上手なあゆ子の夜の顔だけだった。 

帰国後は増してあゆ子のメールは頻繁に届いた。 

『荷物置き忘れてしまったからまた遊びに行ってもええ?』 

再び可愛い絵文字付きのメールがほっと心を和ませる。 

『勿論です、いつでもどうぞ。待っています』 

置き忘れの荷物を確認すると艶めかしい紐のような上下の下着ばかりだった。 

そんなもの故意に忘れたものだろう。あゆ子の突飛な行動は即物的なものなのだ。男の淫を醸しだす。 

 

いずれ豪にくるなら銀行に口座を開くと利息が良いことを伝えた。何より金と男が大好物のあゆ子は全財産の入金を依頼したので幹男の貯蓄と合わせてアユミキ預金と名記して二人で使える口座を作った。その後は渡航費がないと言うので毎回、幹男のポケットマネーで引き受けた。愛していたから少しも惜しいとは思わなかった。 

そして子どもの冬休み・春休み・ゴールデンウィーク・夏休みなどを目途に幹男の元を訪れた。 

即決で結婚生活を始めた美千子の時とは違う、あゆ子は待つことの侘しさと時を数える楽しみを与えてくれた。毎回の滞在期間は約一週間~十日間を年三、四回位、常にあゆ子は〝お客さま〟である。食事は幹男が毎食男の料理でもてなし渡豪の度に小さな旅に連れて行った。 

相変わらず何処へ行っても類まれなる異常なやきもち焼きでいつも幹男は手を焼いた。来るたび来るたび女・女・女! 

痛くもない腹を探られて否定すれば怪しまれ、だんまりを決め込めば自白したと怒り出す。それはいつも喧嘩の火種だったがあゆ子が帰国するといつもの通りそれはすぐに消え去り懐かしいでもどかしい。ときに嫉妬は結局愛されているからだと思い遠く離れての生活が不安なのだろうと考えた。 

会いに来て帰ってからあゆ子のメールは段々過激になっていく。卑猥な言葉を多く書いてよこしたり〝ぎゅっして〟とか〝裸にエプロン〟等の印字と共に既存する色気たっぷりのキャラクター画像を見つけてはせっせと送ってくる。幹男はそんなバーチャルな画面に吸い寄せられ非日常が楽しくてたまらなくなった。時には胸を揉みしだく自慰行為を自分撮りしての添付もあり、ストッキング一枚履いただけのあゆ子の陰部の画像添付も度々のことだった。縦しんばセンスの悪い中年のアダルトDVDのミニ盤のようでもあった。それでも独り者の男には嘉肴である。幹男もご多分に洩れず健康な男なのだ。添付を開けるのは月刊の連載を紐解くよりも心が浮かれた。 

 

幹男の行動を教えるべく出勤前の自宅電話からと出勤後の会社からのナンバーで居場所の確認を毎日朝夕知らせた。そして最も格安の国際電話回線を探し日本時間の午後九時と決めて毎日三十分くらい話をした。 

しかしTVのアナウンサーの声にさえ女がいる、と喚き出すことがあってからは電話中も周囲の音に細心の注意を払うようにした。 

それでも翌日のメールには 

『おはよん、ミキ。お仕事ぼちぼちしてね』 

同時に色気画像の添付があると、幹男の男の中に眠る遊び心をくすぐって思わず口元が綻びてしまう。突き落とされたかと思えば溜飲を下げてくれるのだ。まさにそれは〝洗脳〟だった。 

次第で細かく一日を管理され幹男の朝は予定の報告から始まって終わる。 

『明日は健康診断に行きます』 

『絶対に女医に診てもらったら許さない! もしも女だったらその場でキャンセルしないとあかん』 

その日は分刻みで大量の確認メールが届く。豪は医師も半分は女医なのだ。当たる確率も半分でその日はあゆ子の怒りを買う女医の診察だったが、生きるための患者側には医者なら男でも女でも誰でもいいのだ。 

『アユ、心配ないよ。医者は男だったからね、診断結果も問題なし』 

『ほんまなん?証拠を見せてや、ちゃんと男の医者やったんやら』 

幹男の体の結果はどうでもよくてまずはそっちを心配か? 

証拠といっても実際違うし口答・筆答しかないだろう。言い争いたくはないので、その件には触れずにいると再三同じようなメールが送られてきた。 

またか……女! 女! 

喧しい。 

『そんなに心配なら早くお嫁に来なさい』 

『アユはまだ小さい三女を日本に置いてミキのとこ行くんや。それをもっと早くなんてあほちゃうか』 

あゆ子からの逆ギレである。改めてその夜の電話で幹男は日本で暮らすからすぐに一緒になろうと告げたがあゆ子は絶対に豪で暮らしたいと譲らなかった。 

いっぽう義人法で美千子のことを英語が全く理解できないある日本人妻がシッポを巻いて日本へ逃げ帰った事があったと伝えた。 

「その女あほだったんやろ?」 

自信有り気に鼻で笑ったので機嫌を損ねる前にその話は断ち切った。 

あゆ子の素行は渡豪の回数を重ねる毎に過激化していき一緒に街に出るのも冷や冷やもので、いくら物静かな男でも時には叱りつけなければ終止がつかなくなる。 

要するに知識がないままなのだ。 

いつだったか帰国時の置き土産にあゆ子条例が発令され毎日十回は読んで肝に命じよ! 

とトイレの壁に貼って帰った。あゆ子の姿形にそぐわない小学生のような丸文字が箔を下げてその内容は全く意味を成さないものだった。 

⒈ 女とはメール、電話はしない。 

⒉ 女をじろじろみない。 

⒊ 女とハグ・握手はしない。 

⒋ 絶対に店では女にサンキューなど言わない。 

⒌ 女の横には座らない。   

⒍ 女に声を掛けない。 

⒎ 買い物の時には女より三m以上は離れる。 

⒏ 女のレジには並ばない。女の後ろに並ばない。 

⒐ 女に声をかけられたらイエス・ノーのみで回答する。 

⒑ 仕事でツアーなどに参加した時にはガイドや客の女に声をかけない。 

(旅行中)ガイドには自分で楽しみますので、私の事は気にしないでと言う。女のガイドに声かけられたらシカとする。 

(仕事中)客の女への挨拶はおはよう、こんにちは、のみで自分からは声をかけない。 

後はすべて無視する。 

⒒ ホテルに宿泊時にはアユといつも2人で行動、単独行動をしない。 

⒓ ホテルで会食などに参加しない。(女が居るところで食事、茶などしない) 

⒔ 女が居るからホテルとの会議は減らす。 年間四回を二回に減らす。 

⒕ 仕事以外会社のつきあいで女と食事、茶などしない 

首記を犯したした場合には死ぬまで毎月十五万、必ずアユに支払うことを確約する。 

約束しない場合は直ちに別れて今から毎月お金を支払う。許しを請うなど言い訳はせず全部アユに従う。 

まさに一気に陣地が逆転した。 

あの時点であっさり婚約を解消していたら明るい道を歩けていたのだろうにまだこの頃はそれでも可愛い嫉妬で離れている時間が不安なのだと思っていた。 

不条理な拘束を強いられた後からも次は女である妹の和美と絶縁しろと切り出した。幹男はそれさえ応じた。もう完全に幹男の脳内細胞はあゆ子に埋め尽くされてしまい回路がこんがらがって解けずにいたのだ。 

『妹に、ちゃんと絶縁メールしたん?』 

あゆ子から何度も問うメールがきた。 

『は――い。電話で話したから安心して』 

幹男はお茶を濁した。 

『ちゃうやろ? メールで書いてって言ったやん。送ったらその証拠をアユに転送してや。ええな! アユと妹どっちがええ?』 

妹には予め電話で本心ではないが事情があって今から変なメールを送るが読まずに必ず破棄してくれと頼んだ。そして指示された通りの厳しい絶縁状を書いて送り、そのままあゆ子に転送して辛い任務を終えた気がした。年子で仲の良い二人きりの兄妹だったがそれきり本当に妹との仲は崩壊してしまった。あの時、幹男は確かに家族を捨ててあゆ子を選んだのは事実だったのだ。 

一年半の月日が経過していよいよ結婚の準備に入るが何処までも揉め事は尽きずに難航した。あと半年であゆ子の望んだ願いが叶うのだがパートを辞めてから輪をかけて体たらくで傲慢になる。 

『ミキ、高い保険掛けといてな、受け取りはアユやで』 

『ほなミキはすぐに保険金になってくれてええで』 

『はいはい』 

と、これくらいのことくらいなら難なくパスした。 

『仕事辞めたから半年間の生活費がないんや』 

通帳の僅かな残金を写メールで写してまで送って来る。 

『さっそく一万ドル送るから』 

これは喜んでくれてすぐに店名と口座番号が記されたメールが戻ってきた。 

機嫌のいい時にと思い、結婚に必要な書類を揃えて置くように伝えるとあゆ子にしては珍しく一~二日メールの便りがなくなり 

『アユは大阪の旦那の家を出る時ちゃんと離婚届け書いて三重に帰ったんやけど旦那が届け出してなかったみたいなんや。そやから今日、離婚証明書もらえなかったわ』 

離婚後六~七年経っても気づかぬことはまず考えられない。娘たちはその間にパスポートも自動車免許も取得してる、あゆ子も住民表を必要とした場面はあったはずだ。 

どうやらあゆ子は日本の法律が変わる日を待っていたようだ、夫の定年後のの年金の半分を手に入れるための知恵だろう。しかし幹男は日本の諸事情など分からずあゆ子の言い分を丸呑みにした。 

いよいよ春になり三女は母・あゆ子の身勝手を恨みながら父親と祖父母の暮らす家にと引っ越しを済ませた。喧嘩ばかりだったがもう大丈夫だ。幹男も寂しかったのだ。あゆ子はきっとこれで安心してくれるとに違いない!これからは仲良く人生を歩いて行けると信じた。 

出会いから二年が過ぎた皐月、幹男は一か月の休暇をぶら下げて、いよいよあゆ子を迎えの途についた。 

そこは話に聞いていたような屋敷ではなくて床が軋み音を立て、今にも抜けていく様な古い古い家だった。かねてから家の片づけを手伝ってからは下町で暮らす幹男の両親と叔母に会いに行く約束をしていたのだ。だが話は一変する。 

「行きたくない! ミキの親に会いたくない!」 

憂鬱だと激しく抵抗し我を通す。温情な幹男もこれだけは譲らなかった。愚かな過去への決別とせめてもの親孝行だったのだ。東京見物も兼ねてとおだてて渋るあゆ子を両親に会わせた。父も母も世間話を三十分くらいして形式だけの面会に終わらせた。そりゃあそうだろうと苦笑した。幹男は三度目の結婚なのだからもう何も言うこともないだろう、ただ両親は幹男が失敗を繰り返さないで今度こそうまくいってくれればいいと願うだけだった。 

あゆ子の母は都内の老健施設に入所中と聞いていた。ぜひ会いたいと願い出たが 

「会わんでええ!」 

と居場所さえ教えてもらえはしなかったのはあゆ子側の親族は満場一致でこの結婚に猛反対なのだそうだ。 

親にを承諾されないまま強引に結婚してもうまくいくわけがない、幹男は身を持っての経験者である。 

「それでもアユは子どもを置いてまでミキのとこへ行くんやから」 

それを言われると何だか申し訳ない気持ちが疼いた。 

日本紀行も大変な旅となり何処へ行っても〈女を見るな〉と言わない日はない、所構わず連発して喧嘩になる、少々のことなら気は長く耐えられる男だが一日中ずっとこんな調子ではたまらない。 

「ミキには分からない! 子どもと別れて知らない外国で暮らすアユの気持ちが全然分からないから優しくできないんや」 

とヒステリックに大声をあげる。 

静寂に包まれた日本の書家の個展会場のど真ん中で突如発狂した。まるで周囲も大事故に遭ったようなものだ。何を見に行っても感動は残っていない。強いて言うなら苦い思い出と人々から集まった冷めた視線と迷惑そうな態度だけ。確かに我々は非常に邪魔な連中だったと思う。 

あゆ子を連れての渡豪の機中では一言、二言くらいの会話だっただろうか、二人共やけに重かった。 

一抹の不安がよぎった、これは分かっていたことなのだ。もう後戻りはできないのだよ。幹男は拳で胸をどんと叩いて自分に気合を入れた。よし、今日からちゃんと喜んで笑って生きようと念じ己を奮い立たせた。 

帰宅後から幹男は明るく努めた。 

「アユ、長旅でつかれたろう。ランチは何がいい? ディナーは?」 

まず食料の調達に行くことになったが、あゆ子が仕切り始めた。 

「アユがお金とカードは預かるわ、それから今ある現金も全部やで。せやないとミキが女に使うやろ! それと車と家の鍵もな。使う時はアユが許可してからにしてや」 

さっそく銀行に行き二人の名義の口座はあゆ子だけのものになった。幹男は潔白なので何ひとつ後ろめたさはない、言われるままにした。 

結婚さえすればあゆ子は落ち着いてくれると信じていたがちょっと雲行きが悪そうだ。それでもまだ何処までも忍びないほど能天気な幹男は右も左も分からない国へ来て今はまだ不安でいっぱいなのだろう。自分に当たるしか心のバランスを保てない時期なのだ。婚約者ビザをパートナービザに切り替える時期がくれば今度こそ落ち着くはずだ、そう考えていた。 

しかし難題はまだあった、あゆ子も全く英語力など持ちあわせてなかった。美容院さえ幹男がつきそう羽目になる。そばで待つことしか許されない。 

 

「女をじっと見ていた」 

「見てなくても目に入るでしょ? 自然に視界に!」 

人から見ればつまらない、くだらない事で争わなくてはならない。美千子同様五百時間の無料英語教室に入学手続きをしたがあゆ子には一切通う気もなく、その言い草に呆れる……。 

「アユが学校に行っている間にミキが女を連れ込むから行かへん!」 

疑心暗鬼もいいところだが思い込んだら執念深い。幹男の床屋も女理容師にいじられるという思いの限りでバリカン使って丸坊主にしてしまう、しかも不器用ときたら天下一品である。何ともサシが入って不恰好、嗤うしかしょうがない。 

「これでミキはモテへんから」 

あゆ子がそこまでの嫉妬をしてくれるほど幹男はモテ男ではない。 

食事は作った試しはなかったがそれは幹男が担当した方が旨い物にありつけるので文句はなかった。何しろあゆ子の料理は手料理ではなく食べられるものではない。 

姿を成さない真っ黒焦げの卵焼き・ドロドロの茶わん蒸し・味噌汁変わりにと出されたインスタントラーメンでさえ苦くて不味い。 

気分で拵えたのはこれくらいのものだったが機嫌を損ねたら事故を招くのは分かっている、口にしないわけにはいかず、食ん飲むように流し入れた。 

「どう? 味は? ちょっと失敗やったかなあ?」 

やはり自分でもそれは理解できるようで珍しく謙遜する。 

「微妙なお味ですね」 

幹男は曖昧に返すことにした。 

まさか冗談にも「旨いとは言えない物に旨い」と言っては大変失礼だろう。しかしその元食材を何故あんなにも不味く仕上げられるのか不思議でならなかった 

それに女児三人をどうやって食育したのか疑問だった、回答は日本はレンジで暖めるだけで食べられる食品が巨万とあるので手はかからないと豪語していた。おそらく彼女の母親の用意した食卓もそんな感じだったのだろうと想像できる。すなわち彼女の三人の娘たちにも袋の味が伝承されていくのかと思うと気の毒だった。  

 

今まで一方的に聞いていたが腑に落ちないことも多かった。あゆ子は自慢癖が強(したた)かで自身は大学卒で教員免許所有の他、栄養士免許・華道師範・茶道師範と幅を利かせていたが料理が全くダメ栄養士では調理師に指導できないし献立作りも糞も屁もないではないか? 

しかも二十歳初めで次々に女児を出産して子育てに追われ大卒後から今日(こんにち)までに栄養士免許は学校を経ねば取得することは無理に等しいはず。華道師範と聞いたが花壇の花を愛でるわけでも飾るわけでも草むしりに精を出すわけでもない。茶道師範も手前どころか茶の一杯も淹れてもらった記憶もない。娘が医大卒で大病院勤務と言うが医学部ではなくて看護学校だった。 

また彼女の母親は県内初の私学の小学校々長だったとか? 

一体いつの時代の生まれなのか…? 

考えてみると辻褄が合わない話である。 

 

ジェイを招いて家族だけの結婚祝賀会を開くことにした。 

高校を卒業して新しい恋人サラと同居中。彼らはとても熱々なのだ。ところが勿論のこと二人仲良く揃ってやって来たものだから祝いの善どころの騒ぎではなくなってしまった。標的は十九歳のサラだった。不意に不機嫌になり食器を大きな音で鳴らし始め如何にも〈帰れ〉のサインを投げつける。場は一気に興醒めしてしまいジェイとサラにはあゆ子は具合が悪いと言って嘘をつき帰ってもらった。その後は言うまでもない。荒れに荒れて侃々諤々と一人相撲が始まった。 

「ミキはサラに会いたかあったんか! ずっとサラの胸ばかり見ていたし手を繋いでイチャイチャしていた! ジェイを呼ぶと聞いたけど何でサラまで呼んだ?」 

「サラはジェイについて来たんだよ。ジェイの恋人だからね。息子の彼女に興味ないよ、馬鹿なこと言うな! でも、これからはアユも彼らとはつきあっていくんだよ。 

仲良くしてやってよ」 

ジェイだけなら家に来ることに文句はないがサラほ絶対に認めない。いくら説明してもサラの存在に憤っていくばかり。 

「何で女を呼んだ! あの女と寝たんか!」 

ありえない妄想を並べ立て勝手に吠えまくり、夜通しそんなこんなの繰り返し。幹男はそれでも毎日の仕事があるのだ。ひとりテラスで珈琲を飲み干していると起き出してはそこいら一帯に怒号を一斉にまき散らす。 

「何処の女を見てるんや?」 

朝っぱらから大事件、何事かとあちこちの窓からマンションの住人が顔を出してきて幹男は疲労困憊になった。住民たちでたまにBBQパーティが行われ一緒に一度参加したが、その場所でも 

「いつもの女が居たから行きたかったんか!」 

と雄叫びに誰が見ても可笑しな女と噂の的となる。 

たまたま同マンションに日本人女性が居住して居ただけで 

「ミキとできてる!」 

怪しみ始め幹男を道連れに女性宅に怒鳴り込んでも気が済まない。そこは何とか幹男が穏やかに仲介したものだから事なきを得たが無理矢理〝宣誓文〟を書かされて罰金千ドルをあゆ子のものにしてアユミキ口座に振り込ませた。毎日綱渡りの生活が目まぐるしく過ぎていったある日の夜、あんまりにもあゆ子のヒステリーがうるさ過ぎて住人から苦情があったと警察が注意勧告にやってきた。 

その後マンションのオーナー告げられた。 

「ミキ、悪いが出ていって欲しいんだ」 

その腹いせは幹男に向かいに今度は会社に一日百回以上の悪戯電話を毎日掛け続けて憂さを晴らして困らせる。色んなあゆ子による人災が重なって幹男はとうとう解雇になってしまった。 

あゆ子のせいだとは思うまい、自分の不甲斐なさに嫌気が差した。愛した女は出会った頃とは別人だった、描いた未来はずじゃなかった。仕方なく次の住処を探して逃げるように転居した。仲良しだった住人に今まで静かに暮らしていたじゃないか、寂しくなるよと声を掛けられた。やっとあゆ子との結婚は間違いだったことに気づき始め愚かな自分が悔しくなって虚しかった。 

新居は戸建ての三ベッドルームまあまあ広さには満足したが、あゆ子は全く変わらぬどころかDV妻へと化していくばかりで、パソコンを開けるにはあゆ子の承諾が必要なのとあゆ子の目の前だけの使用と言うのが掟なのだ、掟破りは大罪に処される。 

不規則な生活のあゆ子は昼間は就寝、結構な身分だったが幹男は早く仕事を見つけなけばならない。今はもう同じ空気を吸っていうのさえ窮屈で苦痛以外の何者でもないのだから。 

「真夜中に幹男が何度も抜け出して女と車中でHをするから」 

とますます考えられない妄想で玄関に布団を敷いて寝るようになった。それでも妄想は被害意識と共に巨大になってあゆ子の中を歩き回る。モンスターはしばらくは起きないだろうと用心深くパソコンで求人情報に見入っていたら突然現れて牙をむく。 

「女とメールしてたんやな!」 

部屋中破壊、もうそれしか言うことはならしい。 

口を開いたら女! 女! 

 世の中半分は女と男! 

これじゃあ仕事が見つからない、二人で幸せになるはずが地獄絵図の毎日に変わってしまった。あまりにも運が無さ過ぎて恨むならば己の眼力(がんりき)、人を見る目の儚さか。 

「なあ、仕事が見つからなければ生活できないだろう?」 

当然のことさえ意見すると何でも女に結び付けていく。 

「ミキが女に貢いでるんやろ! 不倫で会社もクビになった」 

何処からそんな発想が生まれてくるのか、すでに会話にはならない状態なのだ。もう町工場でも何処か求人がないかとトイレに引きこもりひっそり新聞を広げた。そこに〝地方公務員募集〟の記事を見つけた。幸運なことにここには定年も年齢制限がなくやる気があって試験に合格さえすればいい。 

無職になってからはミキが女に電話をけるからとのあゆ子にの陰湿な思いで取り上げられた携帯電話をひとまず取り下げ電話を掛けた。ただしスピーカーにするのが条件だった。どこまでも執拗なあゆ子の異常さに身震いした。 

運悪く窓口に出たのは中年女性の声だ。また面倒なことになりそうな予感はしたがここで切っても同じこと、さらに疑われることになるだけだ。とにかく手短に要件を伝え始めた時点で家の中にいられる状態ではなくなり、庭に飛び出し何とか要領を得られた。 

やはり室内に戻ると戦禍だった。獣のような凄まじい唸り声が響いて水の入ったコップが飛んできた。これは仕事を得るためだと静止させても収まるわけもない。 

案の定、その後の怒りは獰猛だった。 

「女に電話するなといったはず!」 

「言ったでしょ?市役所職員応募する要件確認」 

「そやったら女じゃなくてもいい! 何故男に代われと言わはんかったん?」 

そんな無茶苦茶な……口があんぐり開いてしまった。 

幹男は割られたコップを片付け壁の修繕を始めが、その平常心があゆ子にとってはに憎くてたまらないらしく乱舞する。謂れもない罪をでっち上げ言いがかりをつけて腕を振り上げる。 

最大の凶器は伸びた爪、あゆ子は妖魔のような人の心を持たない人格障害の可哀想な女だった。まだ新婚三か月に満たなかったがあゆ子は完全にその正体を現していた。 

二十四時間拘束されては気も滅入る。早く脱皮したかった。幹男は幸運にも政府の仕事に就いてた頃に大型免許の取得をしていたのが功を成し英語・数学・小論文・面接を無事通過して晴れて四十五倍の倍率の公務員試験を大破した。 

それからは市バスドライバーとして活躍している時間だけは身の安全は保障されたが、一難去ってまた一難が降りかかる、何処までも不運はついてくる。路線の都合で毎日時間がくるくる変わり常に変則勤務状態なので一週間分の時間帯の予定は渡され、自宅から会社まで三十分、あゆ子はそれを毎日チェックし通勤距離まで見て回る。 

朝は早朝三時~五時に出勤の日は玄関先で高いびき。見送ることは1度もなかったが帰宅時間が予定時刻よりも五分でも遅れた場合には激しく火を噴く。 

「女と話してきたな!」 

ある日いつもより通勤距離のメーターが五km多かったのは 

「女のとこへ行ってきたな!」 

靴を履いたまま幹男の股間に足蹴が飛ぶ。男の急所の痛みに心も折れた。それでもなお激痛に耐え忍ぶしか術はなかったのが切ない。 

ある日は幹男が会社の制服のYシャツにアイロンを当てていると 

「女にカッコよく見られたいんか!」 

幹男に向かって温度の上がったままのアイロンを投げつけられる。避けて災難は免れたが二箇所も絨毯が煙を上げて火災探知機が反応した。 

 

幹男も人間である、辛坊にも限度がある、しかし幹男が怒りを表すとあゆ子は狂人になって何をしでかすか分からない錯乱状態だ。 

幹男はなるべく自分の睡眠時間を確保するためあゆ子の怒りに触れないように耐えてきたのは男としての責任だった。ドライバーとして睡眠は最大の死活問題であり十分な睡眠も仕事のうち、働く気がないあゆ子を養っていかなければならない任務を感じていた。子どもを置いてまで自分のところへ来てくれた、英語も話せない友だちもいない、そんな女を捨てるわけにはいかないのだ。 

 

しかしそれも理解に苦しむ。あゆ子の元夫の両親は七十代も後半だろう。よりによって難しい年頃にまで成長した孫娘を母親から引き裂いてまで引き取りたいものか。 

しかも高校生になるからには毎日弁当作ってやらねばならない。高齢の身では負担も多いことだろう……。 

これもあゆ子が仕掛けた罠だったのかも知れない気がした。 

とにかくあゆ子の怒りを沈めるために回避(我慢)と逃避(危険から逃げる)と決めて生きるしか考えはもてないでいた。 

何故なら幹男は体そのものが凶器なのだ。拳ひとつで簡単に女ひとりくらい殺めてしまう。だからどんな時でも冷静でいられなくてはならない。そんな鍛錬も充分心得てきた。 

幹男の努力とは裏腹にあけても暮れても獣のような声が途絶えることはなく音量までも最大値まで広がった。狂っている、いいや確かにあゆ子は完全に狂っていたのだ。決して豪に来たせいだけではないはずだ。 

「今まで猫かぶっていただけなのか? 以前は可愛い焼きもちだと思っていたよ」 

「ミキがみんな悪いんやないの! 女好きやから!」 

幹男は一度目の妻にも二度目の妻にもそんなことはいわれたことはない。いたって真面目な夫だったし、それぞれ合わないところはあったが、あゆ子は一筋縄ではいかないどころの問題ではないのだ。 

 

夜中に大喧嘩されては大迷惑だと二度目の家でもオーナーが通報したらしく警察官がやってきて幹男の体を見て息を呑んだ。 

滅茶苦茶に裂かれたTシャツからドクドク流血して他にも体中に瘡蓋が残っているではないか。背中はざっり切り裂かれまるで猛獣に襲われたかのような傷だったからだ。事情を聞かれたがまさか妻の暴力とは言っても誠しやかな嘘とだろう取り合うことはしてくれない。面倒だった。 

「預かっていた大型犬にやられて傷ついた」 

そう言って押し通したらすぐに信じてもらえた、こちらの方なら誰が聞いても信憑性があるからだろう。 

医者に行きたかったが出掛けることにまた発狂されるのが分かっていたので温いシャワーを浴びてバスタオルで止血した。この古傷は二次感染を起こし後々まで幹男を苦しめている。 

次は家屋の購入しかないと考えた。田舎の安い平屋の古い家なら何とか買えるからと相談したが取りあわず散々、甲斐性がない男だとなじられ、立つ瀬がない。それでも背に腹は代えられずにすぐに見つけたが気に入らないらしい。 

けれども持ち家になってからはもう住居の心配だけはないと多少は気休めにはなったがあゆ子の疳の虫は少しも静かにしてはいられない。相変わらず奇想天外なままだった。むしろ、より勢力を発揮し衰退するはずもないか。 

しばらくぶりにジェイが訪ねて来たので熱い珈琲を挽いてゆっくりと飲むことができたのは地獄に神が降臨した思いだった。しかし幹男の生々しい傷を見てジェイは彼の苦しみをすぐに察したようだ。その様子にあゆ子は浮足立って、付かず離れずで気にしている。そんなわけでサラは連れてくるなと、あゆ子はそばにいたが意味は分からないので気楽に話せた。ジェイはとても心配してそんな女すぐに日本へ返せと嘆いていたが、幹男はあゆ子から自ら帰るのをひたすら待って堪えているから心配するなとだけ伝えた。 

本当は今の状態で日本へ帰したら幹男の日本の家族にどんな危害が及ぶか分からない、それを一番危惧していたのだ。 

一時(いっとき)だがジェイが来てくれたお陰であゆ子がいくらかおとなしい夜だった。燐家から犬たちの鳴き声が聞こえてきた、そっと窓越しに除くと子犬がクンクン鳴いている。 

燐人は犬のブローカーだったのか。 

関西人はケチやから財布の紐は固いとあゆ子から聞いていたが今まで贅沢なんてしたはいなかったはずだ、文句はないだろう。仔犬を買うために一緒に銀行に行って現金を用意していくつかの犬種を見にて一目ぼれしたのがチビでおどおどしていて泣き虫の茶色の仔犬だった。 

「こんなん手間がかかる! アユを何処へも出さないためか! 面倒やな!」 

やはり文句は言っていたが幹男が世話を一任するということでそれは解決した。 

「名前は親がつけるものだからな、おまえは茶子! 茶色いから茶子!どうだい茶子? 今日から私がダディだからね」 

幹男は〝茶子のために仕事を頑張ろう〟という気持ちに置き換えると重い荷物の重みも柔らいだ。 

休日はあゆ子の地獄の責苦に浴びせられ主夫の仕事追われては仕事の疲れは少しも取れず二人きりの家は苦痛に塗れて空気も澱んで感じたが茶子の存在はクッションになってくれた。 

茶子は幹男が傷つけられる度にくすぐったいほどその傷口を舐めてくれた。幹男に寄り添って毎日眠った。どんなに朝が早くても幹男と共に起き出して珈琲につきあってくれた。毎朝見送り毎夕シッポを振って迎えてくれた。幹男の話を聞いてくれた。 

いつも守ってくれた。そして毎日心配してくれた。 

 

あゆ子の長女が遊びに来るからと、おかしなことで約束させられる。 

「絶対に娘に手を出すな!」 

一週間ほど滞在しただろうか。食事はいつものように幹男が作りもてなしたが挨拶ていどの会話で過ごした。 

「あれほど娘に手を出すなといったのに! 何で娘にちょっかいだした!」 

また得意の妄想劇場が始まった。 

「娘がそう言った! ミキからメールも送られてきたと言っていたんや!」 

どんな構想をする母親なのか。第一あんな厳戒態勢ではメールアドレスなんて知る由もない。 

一年も我慢すると堪忍袋も限界いっぱいになっていた。 

それでも幹男は毎日仕事のために、朝は自分で退いた珈琲を味わい自分でYシャツにアイロンかけてランチの用意をして出かけて行く。しかしあゆ子は邪魔するだけでもういい加減にしてくれないか! 

幹男も言いたい時は我慢しないようにした。あゆ子は幹男が怒るとその反撃はこれまで以上に過激化し、このままではいつまで自制が効くのか自分でも自信が失せてきた。 

〈もうその日を生きられたことを幸せに思えばいい…明日はどうにかなるさケセラセラ〉 

それを自分のスローガンにして生き延びた。 

 

あゆ子は何のためにこの国へ来たのだろうと疑問がわいた。 

外国暮らし憧れたが変なプライドが邪魔をして言葉や異文化を習得出来ずに夢と違うと感じたのだろうか。青い目の男子にモテはやされるとでも勘違いしていたのだろうか。努力もなしに現実はそんなに甘いものではないと気付いたか。 

毎度の口癖が少し変わってきたのは一年と半年が過ぎた頃 

「ミキが女ばかり見てるからもういやや、アユは日本に帰りたい」 

「帰る! 帰る!」 

あゆこはそう言っては泣きわめく。 

「帰れ! 帰れ!」 

幹男は本音で言っている。 

幹男のカードでブランド品を買いあさり日本に荷物を送りだした。二十箱もの荷物の空輸費もカードで支払い幹男の唯一の宝物のロレックスの時計とオパールのタイピンが五個市役所から貸与されたMIKIと名前入りの新品のジャケット、そして初めて訪れた時にプレゼントされたルイ・ヴィトンのセカンドバッグがなくなっていた。 

あれらを日本で売るつもりなのだろうかと思うとあゆ子らしい。 

幹男の貯金の三万ドルは勝手に自分だけのものにして 

「日本に帰ってから不安やから絶対に返すから貸してや」 

幹男の全財産の三万五千ドルを持ち去った。借用書でも要求したらまた暴れ出すに違いない、その言葉だけを信じることにしたが嘘だった。 

手元に残ったのは千ドルだけ。 

帰国後に。連絡をとったが返す気はなくもらったと言い張る。 

そしてまた渡豪するから荷物を受け取っておけとは何処まで厚かましい女なのか。 

あゆ子は日本でマンション買ったからあそびに来てやとやけに上機嫌だった。 

「もういい。会いたくない!」 

幹男はきっぱり断って終わりにしようと決めたのだ。 

およそ七万ドルもの財の全てを奪われたのだ。あゆ子には何の未練も残ってないが奪い取られた金には未練があった。しかし、こうして生きているだけでよかったか。 

金はまた働けばいいのだ。地獄の生活は終焉を迎えて自由な生活が始まった。 

「これでサラもジェイと一緒にいつでもどうぞ、心配掛けて悪かったな」 

優しい息子である、幹男の背中の深い傷を見て泣いてくれた。 

「それから茶子に感謝してるよ、いつもダディのそばにいてくれた」 

あゆ子の呪縛が解けてからというものは休みの一日は遠方の公園で茶子と散歩デート。毎回色々散策して、もう一日の休みの日はジェイと一緒にゴルフコースを回って食事をする。 

爆弾が消えて茶子のために一生懸命働いて節約して広い家に乗り換えた。順風満帆な人生がやって来たと思っていた。もう後ろは振り向かない、嫌なことはすぐ忘れる、幹男のここが一番いいところだ。 

 

 

幹男はジェイと別れてジャカランダが咲くのを楽しみにを車を走らせて帰宅を急いいだ。茶子が首を長くして待っているに違いない。 

「ただいま、茶子」 

返事がない。いつもなら喜び勇んで飛び出してくる茶子がいない。電気を点けて部屋を見渡す。 

「クウン」 

茶子の声……しかしいつもの茶子じゃないのはすぐに分かった。及び腰で歩けないのだ。おかしい……急いで医者に診せた。 

「前もこんな様子がありました、でも放っておいたらすぐに元気になったんですが」 

幹男は心配ないと言葉がほしくて先にそう訴えた。 

「ミキ! チャコの背中の軟骨3本がかなり傷んだ状態だ」 

「ドクター! 手術は? 手術はできないんですか?」 

「骨の位置が内側すぎて危険なのとうまく行っても一生立てずにこのまま生きられるか……そう長くはない。痛かったはずですよ、でも犬はそれを言葉にして言えないからね。このまま静かに眠らせてあげるのがチャコには楽な道です」 

選択は幹男に委ねられた。点滴を受ける茶子の元に近寄って行った。 

「茶子……」 

今朝までの元気いっぱい駆け回る茶子の姿を思い浮かべた。 

ジャカランダの花が咲かぬうち逝かせるのはあまりにも悲しい。 

幹男が一番辛い時いつも慰めてくれた可愛いヤツがもうすく幹男から離れていくのか。 

茶子はダディのところにきて幸せだったかい? 

ダディは茶子が1番大事だったよ。ごめんな、苦しかったんだね。 

「茶子…愛してるよ」 

茶子がクウンとか細い答えてくれた。まあるい目でじっと幹男の顔を見上げていた。もう幹男には茶子の顔が見られなかった。 

「ドクター、お願いします、茶子をこのまま天国へ逝かせてあげてください」 

「じゃあ、今から楽になれる点滴で三十分後には楽に眠れるからね」 

幹男は振り向かずに必死で車内まで突っ走った。早く一人になりたかった、車の中で声を出して泣いた。 

 

あの時のことは覚えている。茶子に広い海を見せたくて、茶子と朝一番でビーチへ行った日。楽しすぎてはしゃぎ過ぎたっけ。 

そっと帰ると、いつもならまだ寝ているはずのあゆ子が狂乱してたんだ。 

「女と泊りに行ってきたんやろ!」 

そりゃあ凄い剣幕で車の中の隅々まで見て 

「女の髪があった!」 

怒りも頂点にまで届いたようだった。 

「それはアユの髪の毛でしょう?」 

「じゃあ、今すぐにDNA鑑定しいや! ほんま何処の女と寝たん?」 

それからは台所用品持ち出して手当たり次第に投げ出して重いフランス製の鍋が茶子の背中で鈍い音を立てていた。ごめんな。守ってやれなくて……ごめんな。 

あれからすぐに医者に診せればよかった。自由になる金があればよかった。たかがペットと言われた時に争う気持ちがなくなっていたんだ。だから茶子はこんなにまで我慢してくれたんだね。痛かったよなあ。それでもいつも元気でいてくれたね。ありがとうの感謝でいっぱいだよ。 

 

やっと平和と自由がやって来たばかりなのに、こんなに悲しいことがあるもんか。 

自宅に戻ると茶子のお気に入りのピンクの毛布が目についた。 

「茶子、そろそろ洗濯しなくちゃな」 

それからジェイに連絡をした。 

「明日は夕飯食べに来ないか?」 

彼らは幹男の手「料理の大ファンなのだ。誘われるとすぐに飛んでくる。 

――「やあ、ジェイにサラ。今夜はダディ特製餃子だぞ。餡から手作り、最高だからな」 

「おーい、茶子! 今夜はおまえの大好物の餃子だからな」 

「そういえば茶子、出て来ないね?」 

いつもの専用椅子に現れない。 

「……」 

「ダディ?」 

「浅ましくて、卑しくて、喧嘩っぱやくて、弱虫で、馬鹿で、変な友だち連れて来て……ダディにいつも叱られて……」 

「でもね、ダディが一番苦しんでる時ずっと一緒にいてくれた。たった三年だったけど。茶子は昨日天国へ逝ったんだよ」 

幹男の背中が小さく震えた。背後から大きな腕を伸ばしてジェイがそっと腕を掛けた。 

 

豪にわたってから辛いことの方が多かった。でも一度も涙はこぼさなかったのに今は溢れて止まらない。 

 

茶子、愛しているよ、ずっと。 

あくる日、茶子愛用のテーブルの上に一枝のジャカランダの花が手向(たむ)けられていた。 

茶子と眺めたかった花だ……サラが供えてくれたものだった。 

#創作大賞2022

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