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#11 恋とか愛とかやさしさなら【読書感想文】

ファインダーを覗く時、いつもかすかな罪悪感を覚えた。——誰かの眼差しを、記憶を、乗っ取っているのかもしれないという、おそれに似た後ろめたさだった。

一穂ミチ『恋とか愛とかやさしさなら』P7

 カメラの構える時の繊細な描写から始まるこの本。写真とは現実を美しく切り取るものだと感じていたが、この「罪悪感」というのは一体どういうことなのか?そう思いながら読み進める。「恋愛×カメラ」といえば、私の記憶に新しいのは川村元気さんの『四月になれば彼女は』である。しかし、この物語は写真という題材で全く別の運命を辿る衝撃な恋愛小説である。


カメラマンである新夏は交際して五年になる恋人の啓久がいた。友人の結婚式の前撮り写真を撮る仕事帰り、東京駅で合致した啓久にプロポーズをされる。将来に想いを馳せ、啓久となら何があっても人生が楽しめるとそう考えていた。翌日、啓久が通勤中に女子高生を盗撮し警察に捕まったと連絡が入る。「二度としない」と謝罪し誓う啓久とやり直せるか。信じるとは、許すとは、愛するとは。


男の欲望って、女から見ればブラックボックスみたいなところあるよね。得体が知れなくて。

一穂ミチ『恋とか愛とかやさしさなら』P67

 先に注釈しておくがこの物語は主に男性から女性への欲望が語られることが多い為、その矢印での講評とする。“性犯罪は被害者の性別を問わない”という観点を持った上で講評する。私は男性であるからこそ、この物語を通して語られる女性の傷、それはおそらく誰しも経験したことがあるであろう無数の、そして犯罪として名前が付かないような数多の傷を知り、心が苦しくなった。作中ではかなり具体例が出てくるのだが、私の愛する人々が日々このような恐怖に遭っているのかと想像すると居ても立っても居られなかった。

 性犯罪は程度に関係なく重罪である。作中では程度問わず、そういった犯罪者を“目鼻も人格もない「ヒトのオス」というのっぺらぼうの生命体”と称した。それは自らを愛してくれる恋人とは全く別の存在であった。しかし、その恋人が、他の女性に対して、“のっぺらぼうの生命体”と化した時、やり直すことが出来るのか。「信じる」とは、どういうことをいうのか。新夏の葛藤は測り知れない。

どうしてだろう。恋とか愛とかやさしさなら、打算や疑いを含んでいて当然で、無垢に捧げすぎれば、時に愚かだ幼稚だと批判される。なのに「信じる」という行為はひたすらに純度を求められる。一点の傷も汚れも許されないレンズのように澄みきっていなければ、信じていることにならない。

一穂ミチ『恋とか愛とかやさしさなら』P100

 作中では、新夏の友人である葵が登場し、彼女自身も夫から浮気されたことがあると語り、必要なのは許容と新夏を諭すシーンもある。このような考えを持つ登場人物がいる事で作品にスパイスが出ており、より一層読者は、新夏の決断が気になり頁を捲る。

男と女だもん。わからない部分にこだわるより、わかり合える部分を擦り合わせてくしかないんじゃないの。

一穂ミチ『恋とか愛とかやさしさなら』P88


 物語後半は主に啓久視点で物語が展開する。ほんの“出来心”を許すわけではないが、その後悔の描写に何度も胸が締め付けられる。ある一つの出来事を境に、人生が転落していく。

まだ何も起こっていなかった日とシチュエーションをそろえたところで時間を巻き戻せるわけじゃない。でも、あの夕方の自分の残影が今もここに座っているような気がして、迎えに行きたいと思った。

一穂ミチ『恋とか愛とかやさしさなら』P114

 著者直筆のメッセージから私はこうまとめる。
人生には、謝っても取り返しのつかないような過ちはいくらでもある。それは誰にでもあるだろう。自身かもしれないし、愛する誰かかもしれない。でも、それでも私たちは何かを選んで、辛くても悲しくても生きていかなければならない。その判断の領域には、正しい正しくないは存在しないのかもしれない。

好きだから別れる、好きだから別れない、どっちも成立しますもんね

一穂ミチ『恋とか愛とかやさしさなら』P208

一穂ミチ『恋とか愛とかやさしさなら』(小学館、2024)

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