「知音」友を得ること、喪うこと。
自分の中の魅力や才能は自分ひとりの力だけでつくり上げられるものではなく、他者との出会いの中で発見されることが多いものです。その出会いは恋愛であったり、友情であったり、良き師とのとの出会いであったりするかもしれません。いったん魅力的な出会いを体験すると、自分の心の中にその人のイメージが棲むようになって、あたかもその人が背後に立っているかのように指示をしたり忠告したりすることがあります。例えば「そういう無神経で愚かな振る舞いをしてはいけない。君らしくないよ」と言われているかのようにです。そして、その相手があなたの目の前からいなくなった後も、そのイメージがあなたを導いてくれるかもしれません。「あの人だったら、こういうときどう考えるだろう?」「あの先生が今ここにいたら何と言ってくれるだろうか?」と考え、内的な想像をめぐらしているうちに、自ずから答えが見つかったり、納得が得られたり、方向性が見えてくることがあります。
「知音」とは中国の故事にまつわる言葉で、その昔、春秋時代に伯牙(はくが)と鐘子期(しょうしき)という二人の男がいました。伯牙は琴の演奏に秀でた名人で、鐘子期は琴の音を聴くことに優れた名人でした。鐘子期は伯牙の奏でる琴の音を聴くことを無上の喜びとして生きていましたし、伯牙は鐘子期に聴いてもらえるこを励みとして、一生懸命に琴を弾くことに打ち込んでいました。そういう二人に突然不幸が訪れ、鐘子期が病に斃れて死んでしまったのです。すると伯牙は無上の情熱を傾けていた琴の弦を断ち切り、その後一切琴を弾くことをしなくなったのです。これが「伯牙断弦」の故事として今日まで伝わっています。
偉大な音の創造をする人は、その創造を本当に理解してくれる理解者を必要としますし、同時に理解者は、その耳を心から喜ばせてくれる創造者を必要としています。それぞれは別々の能力でありながら、音の創造を中心として深く通じ合う世界を共有しているのです。
私も一人の心理療法家としてクライエントの「知音」であることができれば、どんなに素晴らしいことだろうかと思います。人は自分の本当の良さや魅力を発見するためには、それをよく知り、理解してくれる別の「個」を必要とします。自分にとって知音と呼べる人と出会うと、人は本来の自由と創造性を取り戻すことができるのです。知音のまなざしの中で、自分でも信じられないほどの力を発揮することもあります。自らの魅力や可能性は、自分自身ではなかなか見つけ出すことができないものかもしれません。自分の魅力を本当に知る他者を得て初めて、それまで自分の中に埋もれていた輝きが光を放ち始めることがあります。人と人との出会いの不思議さと妙味は、まさにこの一点にあるのでしょう。
しかし問題は、自分にとって知音と呼べるほどの本当の友は、この世に数多くはいないということです。「一緒にいてくれるんだったら誰でもいい」というような友人なら沢山いても、そういう友人を知音と呼ぶことはできません。私が会いたい時にいつでも知音に出会えるわけではないのです。出会いにはそれなりの「時」があります。本当の友と呼べるような人と出会おうとするなら、その時が来るまでじっと孤独に耐えて待たなければならないのです。鐘子期を失った伯牙が、その後の人生を一人孤独に耐えて生きたように、です。
『発句経』の中に、
「もし聡明で行い正しく賢明な同行の友を得たいのならば、あらゆる危機を乗り越えて、喜んで彼と共に行くがよい」という言葉があります。
「知音」と呼べる友を得たならば、「あらゆる危機を乗り越え」「喜んで」「共に行く」ことができます。知音の友である鐘子期と共に生きることができた時の伯牙です。しかし、『発句経』の言葉はさら次のように続きます。
「もしも、行い正しく賢明な同行の友が得られないならば、ひとりで行くがよい。まるで王が征服した国土を捨てるように、また森の中をひとり行く象のように。」
鐘子期を失った伯牙は、その後の人生を「林を行く象のように」「ひとりで行く」ほかはありませんでした。充実した人生を送るために、「知音」それほど本質的なものだと言えるでしょう。