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けむくじゃらのゾウ│短編小説

 ぼくは、生まれたときから、けむくじゃらだったらしい。
 茶色くて、体中をおおってしまうぐらいの毛が、ぼくには生えていた。
 ぼくだけに、生えていた。

 物心ついた時には、群れの他の子ゾウから、いつもからかわれていた。
 「けむくじゃら」と言っては、ぼくの毛を引っ張る。ぼくが水浴びを終えて、ぶるっと身震いすると、毛先についた水滴が飛び散る。それを見てみんな大笑いする。汗っかきなぼくが、ふぅふぅ言いながら大人たちを追いかけているのを、群れの後ろの方で真似しているのだって、ぼくは知っているんだ。
 ぼくは彼らが嫌いだった。
 けむくじゃらの自分も、嫌いだった。

 ぼくがもっと小さい頃、からかわれたぼくが半ベソをかきながら帰ってくると、お母さんは優しく慰めてくれた。
 「かわいいぼうや。お母さんはぼうやのことも、ぼうやの毛並みも大好きよ。」
 お母さんはいつもそう言って、ぼくが泣きつかれて眠るまでそばにいてくれた。お母さんが撫でてくれている間だけは、自分がけむくじゃらであることを忘れられた。 

 「水浴びに行こう。」
 そう声をかけてきたのは、群れで一番年上の雄のゾウだった。群れの誰からも慕われていて、ぼくにも優しくしてくれた。木の実を分けてくれたり、高いところにある葉っぱの取り方を教えてくれたりしたのも彼だ。まぶたの上から伸びた白い毛はふさふさと誰よりも長く、ぼくは“おじいちゃん”と呼んでいた。
 今日は少し離れた水場まで行こう、おじいちゃんはそう言って、ゆっくりと歩き出した。
 「この先に水場があるの」
 「さあ、どうかねぇ」
 「何もなかったらどうするの」
 「そん時は、明日は別の水場を探さにゃいかんのぅ」
 ホッホッ、とおじいちゃんは愉快そうに笑った。
 ぼくらは毎晩、水場を探して旅をする。どちらの方向に行くかは、いつも大人たちで決めるのだが、おじいちゃんが指す方向は、いつだって正解だった。おじいちゃんみたいなゾウを“長老”と言うんだと、お母さんが教えてくれた。
 ほどなくして、辺りを背の高い草木に囲まれた水場が姿を現した。ぼくとおじいちゃんが入るといっぱいになるような、小さな水場だった。
 「群れのみんなには内緒じゃな」
 「きれいな水だね」
 水面を覗き込むと、そこには雲一つない青空が広がっていた。
 品のいいゾウは、水浴びの時になるべく水しぶきをたてない。そして、手足、胴体、頭、と順番に丁寧に洗っていくのだと、お母さんから教わった。そして、自分の体を洗い終わったら、周りのゾウにも同じようにしてやるのが、一人前のゾウなのだそうだ。
 鼻で水をすくって背中にかけてあげると、おじいちゃんはとても喜んでいた。歳を取ると、鼻周りの動きがぎこちなくなるらしい。
  
 サバンナの昼は熱い。ひととおり水浴びを終えると、近くの木陰にぼくらは移動した。

 そよそよと風が草花を揺らしていた。遠くの方で、ピョンピョン跳ねる影が見える。インパラか何かが、大地を駆け回っているのだろう。
 しばらくの沈黙のあと、おじいちゃんが口を開いた。
 「どうじゃ、最近は。」
 おじいちゃんは、たまにこうしてふたりきりの時間を作っては、ぼくの話を聞いてくれていた。ぼくにはお母さんしかいないから、気にかけてくれていたのだと思う。
 ぼくはいつも通り、他愛もない話をした。初めて食べた赤い実が甘くて美味しかったこと、昼間のライオンは案外ぐうたらなこと、群れの子ゾウたちが相変わらずからかってくること、苦い木の実を子ゾウの食事に混ぜて仕返しをしてやったこと…。
 おじいちゃんは、いつものように相槌を打って聞いてくれていたけれど、今日はどことなく様子がおかしかった。
 曖昧な返事が多く、何かを尋ねてもどうにも歯切れが悪い。まるで何かを話すタイミングを伺っているようだった。
 やがて、ぼくの話題が尽きてきた頃、おじいちゃんはつぶやくように言った。
 「お母さんとは、うまくやれておるか」
 うまくやれている、というのがどういうことかは分からなかったが、お母さんが群れの誰よりもぼくを可愛がってくれているのは確かだった。
 頷いたぼくの様子を見て、おじいちゃんは、ホッとしたような、それでもまだ何かを迷っているような顔をしていた。
 「おまえさんに大事な話があってな」
 そう言ったきり、黙りこくっている。
 時折口元を小さく震わせたかと思うと薄く息を吐くばかりである。そんなことを3回ほど繰り返したあと、地面をじっと見つめたまま、おじいちゃんは言った。
 
 「実は、あの子はおまえさんの母親ではないんじゃ。」
 
 おじいちゃんはぼくを気遣いながら、たくさんのことを教えてくれた。
 おじいちゃんたちの群れがサバンナを旅していた時、木立の中で一頭のゾウが泣いていた。そのゾウはまだ赤ちゃんで、どうやら生まれてすぐに親とはぐれてしまったようだ。赤ちゃんゾウは全身が深い体毛で覆われており、ひと目で自分たちとは違う種類だと分かった。どうするか話し合っていた時、ある一頭の雌のゾウが、「絶対に迷惑をかけないから、拾って育てたい」と言った。言葉通り、雌のゾウは、寝る間も惜しんで赤ちゃんゾウの世話を焼いた。他のゾウが寄せてくれた善意はありがたく受け入れたが、むやみに仲間を頼ることや、群れの迷惑になることは絶対にしなかった。
 「もう分かったとは思うが」
 おじいちゃんは付け加えるように言った。
 雌のゾウは、ぼくが“お母さん”と呼んでいるゾウであること。
 そして、拾われた赤ちゃんゾウ――ぼく――は“マンモスゾウ”の血を引くゾウだったこと。

 自分の見た目が、群れのみんなと違いすぎることについては合点がいったが、種類が違うからだということは、考えたこともなかった。
 ぼくはみんなと違うこと。そして、ぼくの“お母さん”は産みの親ではなかったこと、それでもたくさんの愛情を注いでくれていたこと。
 一度に抱えるにはあまりに大きすぎる衝撃に、ぼくは思わずかぶりを振った。
 木のそばを吹き抜けていく風は、ひどく乾いていて、時々砂を巻き上げていった。ぼくは砂が入らないように目を閉じたり、サバンナの向こうの方に目をやったりした。そこにインパラの姿はもうなかった。
 いつもは気にならない、生き物たちの鳴き声や動く音が、今日ははっきり聞こえるような気がした。
 
 やり場のない気持ちが、溜め息と一緒に口からこぼれていく。ふと気がつくと、乾ききった頬を温かいものが伝っていた。
 隣でおじいちゃんが何か言いたそうに口を開いた気配を感じ、マズいと思った。
 「どうりで…他の子と違うと思ったよ!」
 とっさにわざと明るく言い放つと、ぼくは再び水場に駆け寄った。
 「もう一回、水浴びするね。」
 言いながらざぶざぶと水の中に入り、高く鼻を突き上げて水を噴き出した。全身を満遍なく濡らし、顔には念入りに、2回水をかけた。
 「それがいいじゃろう。」
 おじいちゃんは、ぼくに背を向け、ゆっくりとその場に腰掛けた。
 「しばらくは雨も降らん。今日も暑いからのぅ。」
 
 太陽が傾きかけた頃、ぼくらは帰路についた。

 もうすぐ群れがいた場所に到着できるかという頃、前を行くおじいちゃんが突然立ち止まった。俯いて歩いていたぼくは、おじいちゃんのおしりに鼻をぶつけてしまった。
 「静かに」
 それまでずっと無言だったおじいちゃんが鋭く言い放ち、少し身をかがめた。こういう時、大きな動きをとってはダメだ。ぼくはそろりそろりと、草の間から前方を伺った。
 大きくて四角いかたまりが、草木のひらけたところに停まっていた。汚れた水場に生える苔のような色をしているが、全然軟らかくないことをぼくは知っている。一度だけ近寄ったことがあるが、夜の荒野にそびえる岩場のように、冷たくて固かった。4つの足があるのに生き物ではなく、滑るように移動するので、気味が悪い。
 かたまりの中から飛び出すようにして、いくつか小さな影が現れた。二足歩行で、それぞれに目立つ色の布を身にまとっている。
 ニンゲンだ。
 背負っていた細長い棒を両手で持ち、顔の高さまでかかげ、わずかに頭をかしげる仕草をしている。
 ぼくはあの棒の正体を知らないが、ニンゲンのあの仕草は何度も見たことがある。あの棒の先が向けられたら、ぼくらは全速力で逃げるか、身を隠さねばならなかった。そうでなければどうなるか、ぼくらはよく知っていた。
 足の遅いゾウや、群れからはぐれたキリンはもちろん、あの棒の前では、ヌーやワニ、ライオンまでもが無力だった。

 ニンゲン達の視線の先に、ぼくらの群れがいるのが見えた。群れのみんなもニンゲンに気づいていて、様子を伺いながら立ち往生しているようだ。ニンゲン達と群れの間に距離はあるものの、狙われているのは間違いなかった。
 ふとひとりのニンゲンが、こちらに気づいた。しばらくじっとぼくを見つめたあと、興奮した様子で、両手をせわしなく動かしながら別のニンゲンと話しはじめた。時折こちらを指差したり、互いの背中を叩きあったりしながら、喜んでいるようだった。
 ぼくが、けむくじゃらだからに違いない。見た目が違うということは、ニンゲンにとっても特別な意味を持つらしいと分かった。
 彼らはもう、群れの方など見ていなかった。その視線の全てが、ぼくだけに注がれていた。群れの子ゾウのような軽蔑の眼差しではない代わりに、品定めするような、何としてでも手に入れたいと願うような、そんな欲望にまみれた目が、ぼくをとらえて離さなかった。

 「おじいちゃん、お願いがあるんだ―――」
 ぼくは切り出した。
 おじいちゃんは、ニンゲンを睨みつけたまま、ぼくの話を黙って聞いてくれていた。

 ぼくらは背の高い草が生えているところを選んで歩き、群れの後方へと近付いた。
 それに気づいたゾウたちが、一斉に長老のもとへと駆け寄る。大人たちは、険しい顔で何やら相談し始めた。
 「ぼうや!」
 振り返ると、お母さんがひどく安堵した様子で、今にも泣き出しそうな顔をして立っていた。
 「無事でよかった。」
 お母さんはぎゅうっとぼくを抱きしめると、鼻先で優しく背中を撫でてくれた。
 群れのリーダーが近付いてきた。おじいちゃんから、ぼくの“お願い”を聞いたのだろう。リーダーは、ぼくの目をしっかり見て言った。
 「夜になれば、ニンゲンからは逃げられる。それまでみんなで走り続ける。ニンゲンから逃げ切ったら、太陽が沈む方向を目指して走れ、いいね。」
 ぼくがこくりと頷くと、リーダーの顔がほんの少しだけ歪んだ。目を伏せ、のどの奥の方で「でも…」と唸った。
 「みんなで一緒になって逃げれば、きっと…」 
 「いいんだ。」
 ぼくは彼の言葉を遮って言った。
 「これは、ぼくにしかできないことだから。」

 そばで聞いていたお母さんも、ぼくがしようとしていることが分かったようだった。
 「気をつけるのよ。」と言って、もう一度ぼくを強く抱きしめた。
 ぼくは鼻をお母さんの頬に擦り付けた。
 「お母さん、うまく逃げてね。」

 ぼくが草木の間から顔を出すと、ニンゲン達は歓声をあげ、何かを早口で言い合ったあと、持っていた棒を構え直した。
 それを合図にしたかのように、群れのみんなが一斉に走り出す。群れから離れるようにぼくが動くと、思ったとおり、ニンゲン達はぼくを追ってきた。
 木々が生い茂るところまで行けたら、やり過ごせると思った。その後で群れを追いかければいい。今までもそうやって、みんなと逃げてきた。ぼくは走るのが苦手だけれど、一生懸命走ったあとは、いつもお母さんが褒めてくれた。今ぼくが走るのをやめてしまえば、きっとお母さんを悲しませる。それだけは確かだった。
 周囲を警戒しながら走っていたから、目の前に突然現れたアカシアの木に気付くのが一瞬遅れてしまった。枝で息をひそめていたのであろう、鳥たちが一斉に飛び立つ。
 あっと思ったのと、おしりのあたりに鈍い衝撃が走ったのは同時だった。
 すぐさま足に力が入らなくなり、気づくと視界が反転していた。すぐそこに地面があり、自分が横転したのだと分かった。ぼくの意志とは関係なく、まぶたが閉じてくる。視界の端に、あのニンゲン達が近づいてくるのが見えたが、もう立ち上がることはおろか、声を上げる気力も湧いてこない。サバンナの地面は熱いはずなのに、体中がぶるぶる震え、手足は大地に縛り付けられたかのように動かなかった。

 ゾウは死に方を選べない。
 いつか、おじいちゃんがそんな話をしていた。
 飢えるか、ライオンやチーターに喰われるか、ニンゲンに捕まるか…いずれにせよ、死はぼくらに等しくおとずれる。けむくじゃらであろうとなかろうと、だ。
 「冬の夜空を埋め尽くす星の瞬きや、水場で仲間と踊り明かした日のことは、いつまでも覚えているものじゃ。たとえいつかライオンに喰われてしまったとしても、その思い出にこそ意味があるのじゃ…」
 死に方は選べないが、大切なのは死に方ではないそうだ。
 「ぼくはライオンに食べられるのは嫌だよ」
 「おまえさんには、まだ難しいかもしれんのぅ」
 おじいちゃんはそう言って笑うと、太い鼻でぼくの頭を撫でた。
 死ぬ間際だというのに、ぼくはそんなことを思い出していた。

 群れの足音が遠のいていくのが、地面を伝って聞こえてきた。
 もう、お母さんやおじいちゃんが捕まることはないだろう。

 ぼくは、けむくじゃらの自分が嫌いだった。それでも、けむくじゃらでよかったと思える瞬間があったことを、ぼくはきっと忘れない。

 マンモスゾウの子どもは、満足げに目を閉じた。
 沈みかけた夕陽が、サバンナを赤く照らしていた。

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