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宇野津暢子/昭和の終わりに死んだ父と平成の終わりに取り壊された父の会社

 父と一緒にいる、という最初の記憶は、国道16号線の鵜野森交差点付近にある「すかいらーく」の店内だ。「スカイラーク1号店」が東京・国立市にできたのは1970年。新しもの好きの父と私がすかいらーく鵜野森店でよくお茶をしたのは1976年。父55歳、私3歳のときのことだ。

 当時のすかいらーくには、午前11時までに入店するとコンソメスープがつくサービスがあり、私はデザート、父はコーヒーを注文し、私だけがサービスでつくコンソメスープも飲んだ。祖父と孫に見られがちな私たち親子は、これから、もうすぐ父が開業する国立相模原病院前の調剤薬局の建設経過を見に行くのだ。

 その頃、薬の処方箋といえば、病院内の薬局や受付で渡すのが一般的だったが、「これからは薬局での院外処方箋を主流に」というアイディアが生まれるなか、薬剤師の父はそれをいち早く実行するために国立相模原病院のお向かいでの開業を決めたらしい。

 調剤薬局が完成し、父、母、ひとりっ子の私は世田谷の三軒茶屋から町田市玉川学園に引っ越した。三軒茶屋で過ごした記憶はアルバムの中にしかないから、私の生活は、すかいらーくのコンソメスープを経て、玉川学園から始まる。

 玉川学園は子ども心にもちょっとあか抜けた町だった。日曜日になると、私と父は駅のとなりのオダキューOXの2階にある日用品コーナーによく買い物に行った。父は『キャンディ♥キャンディ』のシールが貼ってある石けんとか、プラスチックカバーがタータンチェックの、ちょっと大人っぽいセロテープとか、『花の子ルンルン』の切り取り式着せ替えとか、ほしいものはなんでも買ってくれた。ときどきおせっかいな店員さんに「おじいちゃんと一緒でいいわね」などと言われて不愉快な気持ちになったが、それを抜かせばOXは父との楽しいデート場所だった。

 そして日本中がそうだったと思うけれど、昭和50年代の玉川学園商店街は活気があった。八百屋さん、魚屋さん、金物屋さん、プロパンガスの店、本屋さん、文房具屋さん、食堂。思えば、毎日がちょっとしたお祭りみたいだった。3歳の私は母が押す白と青のストライプのバギーに乗り、玉川学園の商店街を観察した。母の立ち話、八百屋さんの隅っこのドラム缶で焼き芋が焼けるにおい、魚屋さんがデッキブラシでリズミカルに道路を洗う音……玉川学園商店街には、いろんな音やにおいがあふれていた。

 とはいえ、引っ越してわりとすぐ「こんな山坂の多いところじゃ、車がないと無理」と母が言い出し、その後、母は南大谷交差点にある自動車教習所に通って免許を取った。幼稚園に通い始めた私は、商店街から一歩入ったところにあるクラシックバレエ教室、絵画教室、ピアノにも通い(習い事はなんでもやりたがり、でも長続きしない子どもだった)、父は自宅から相模原の調剤薬局に出勤した。私たち家族の普通の生活は10年ちょっと続いた。

 父は、私が中3になったばかりの春に66歳で亡くなった。そのとき私は14歳。父より昭和天皇の方が先に具合が悪くなった気がするけれど、父の方がずいぶん先に亡くなった。父は昭和が終わったことを知らない。

 私はその頃、小田急線の柿生という、私が降りる側には雑草とマルエツしかないような駅からバスで20分かかる、不便でやたら人数の多い進学校に通っていた。そして今じゃ考えられないような上下関係の厳しい剣道部に入っていた。毎日部活が終わるのは夕方6時15分。柿生駅のバス停に着くのは7時。駅前にある中村屋で友だちと肉まんを食べ、そこにいない友だちと部活顧問の悪口を言い、小田急線の下り電車に乗るのが7時15分。ふたつ先の、自宅の最寄り駅である玉川学園前駅で電車を降りるのが7時25分。私は駅の改札口を出て、玉川学園の南口方面に住んでいる友だちに「じゃあね」と言って、ひとりで北口の階段を一番下まで降りる。そして一度降りた階段を何事もなかったようにもう一度登り、定期券を改札口の駅員さんに見せて、また小田急線に乗る。私にはこのあと、父が入院している病院にお見舞いに行くというミッションがある。でもこのことは絶対に友だちに悟られてはいけない。〝かわいそうな宇野津さん〟と思われるわけにはいかないのだ。この夜の数分は1日のうちでもっとも気の重い時間だった。私は玉川学園の駅で、いつも緊張していた。

 父が入院している北里大学病院に行くのに、相模大野までは2駅。相模大野から病院行きのバスで20分ほど。乗っている人の雰囲気は玉川学園の人たちとずいぶん違っていて、車窓から見える景色も冬の暗さと相まって、とても怖かった。これからたぶん怖いことが起きるとわかっていたから、余計。

 今は周囲も様変わりしているかもしれないけれど、当時の北里大学病院は、まわりののどかさとのギャップが激しくて、変だった。何棟も並ぶ高い建物とか、地下にある帝国ホテルのレストランとか、まあ昼だったら、かっこいい最新医療の拠点、みたいに見えなくもなかったけれど、夜は〝違和感〟のひと言。そんな違和感方面へ路線バスで向かう人はごくわずかで、〝終点北里大学病院〟で降りるのは私だけということもよくあった。ひとりになるとホッとした。これでもう友だちに会わない。

 父は先にお見舞いに行っている母と、私が来るのを待っている。高い階のデラックスな個室で、夕食はフタ付きの立派な陶器に入っていて、いい待遇なんだというのはすぐわかるけれど、それがまた怖い。「やっぱり、死ぬから?」と思ってしまう。で父は、立派な陶器に入った白身魚の煮物なんかを、食べずに、私の夕食用にと取っておいてくれるのだが、それは冷めていてちっともおいしくない。柿生で食べた中村屋の肉まんの方が100倍おいしい。でも私は「おなかすいた」「おいしいね」と言って食べる。父はもうそんなに食べられないから。私がそういうと喜ぶから。

 私と母は面会時間終了の9時に病棟を出て家に帰る。季節は冬で、2階建ての立体駐車場には車が数台しか停まってなくて、体はぐったりだ。しかも母とふたりになると、さらに気詰まりだった。母は父ががんで、余命半年ということを早々に告げられていたそうだが、当時は「がんですよ」というのは結構タブーで、母は私にも父にもそのことを言わなかった。けれどもちろん父の先が長くないのは見ればわかる。そういうモヤモヤを、風通しの悪さを、ないことのように扱いながら、自然っぽく日々をやり過ごすのはパワーが必要だった。母も苦しかったと思う。

 父が亡くなった昭和最後の春はとても寒くて、例年より桜が咲くのが遅かった。父が火葬場で焼かれている4月15日に満開の桜が散りはじめた。父が危篤、といわれた4月12日は新学期登校2日目で環境調査書などいろいろな配布物をもらっているときに「宇野津さん、ちょっと」と職員室に呼ばれた。私はピンときて、そのまま母の友人の車に乗って北里大学病院に行った。車の中でカバンに入っている環境調査書のことを思い、「今のうちに環境調査書を書いちゃえば、父の名前の欄を斜線とか空欄とか死亡にしないですむなあ」なんて思った。

 父が亡くなってからも、私は父が亡くなったことをできるだけ悟られないように過ごした。父が亡くなったことより〝私は父親のいない子である〟と周囲に認識されるのが堪えがたいと思った。クラスのみんなが私の父の死を知っているのか、知らないのか、私は知らない。でもそれは聞かないし、私から父がらみの発言は絶対しない。ああ、こういうのって疲れるな、とときどきうんざりしたけれど、父が亡くなったことを隠さずにいられない気持ち、もっというと、いやまだ生きてますよと思いたい気持ちは、20歳くらいまで続いた。事実を隠さなくて大丈夫になって、父が生きていないことを認められるようになって、私はようやく解放された。

 3歳の私が最初に見たときはまださら地だった調剤薬局は、2019年2月8日金曜日、完全に壊され、壊されたコンクリートのかたまりはトラックに積まれ、再びさら地になった。何もなかったところに建物ができ、建てた父は昭和の終わりに亡くなり、平成の終わりに建物がなくなった。この原稿依頼のおかげで、建物の最期を運よく見ることができてよかった。

 私は今、新しく作った家族と玉川学園に住んでいる。父亡き後、会社を存続させ、10年ほど前に引退した私の母も一緒だ。玉川学園に引っ越してきたとき39歳だった母は81歳になった。父と母は、父が15歳年上の父再婚、母初婚カップルだったが、今では母81歳、父66歳ということで、数字の上では母が15歳年上だ。年齢差が逆転した。

 玉川学園前駅のホームに立っていると、今でもたまに〝父が入院している北里大学病院に行くのに、友だちにどうか会いませんように、と極度に緊張している私〟を思い出す。今は思い出すだけでいいから本当にラクだ。14歳の私に「そんな大変なことはその先そうそうないから安心して」と言いたい。

【初出:2019年4月/ウィッチンケア第10掲載】


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