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中野 純/美しく暗い未来のために

 失われた夜の闇をふたたび普及させるために、生きてきた。
 昔にもどりたいのではない。古き良き時代にはもどれないし、もどりたくもない。いい加減、二十世紀的な生きかた、二十世紀的な社会を葬り去って、ただただ、もっともっと先へ行きたい。もっとずっと先へ行くために、夜の闇を復興したいのだ。
 終電で行くミッドナイトハイクをはじめとして、ひたすら闇を求めて遊びまくる『闇を歩く』を上梓したときは、酔狂だと思われたし、私自身、酔狂かなと思っていた。いずれ闇に飽きるだろうと思っていた。
 ところが、偶然のミッドナイトハイクに魂を奪われて以来十八年間、闇に飽きる気配など一向になく、気がついたら、仕事の九割以上が暗闇関連になっていた。もうこのまま、闇に人生を捧げることになるのだろう。

 昔の夜は暗かった。闇こそが日常だった。だが今や、北朝鮮など一部の地域を除けば、世界中の都市の夜はとても明るくなった。とくに日本はものすごい。人工衛星が写した地球の夜の写真を見ると、日本列島はバカみたいに明るい。夜も昼のように明るいのが日常になり、闇は非日常になった。だからこそ闇は刺激的で、心惹かれるのだ。初めはシンプルにそう考えていた。
 だが、戦後生まれのいくばくかの人たちが『闇を歩く』に共鳴してくれる中で、私の親の世代である昭和ヒトケター(昭和元年〜九年生まれの人たち)が、この本を複雑な思いで読んでいることに気づいた。
 彼らがまだ子どもだった戦時中、灯火管制で夜の街は真っ暗になり、空襲警報が鳴ると防空壕に逃げ込んで、窮屈な闇の中でB29の爆音に震えながら息を潜めた。都会から田舎へ学童疎開させられた子たちは、体験したことのない田舎の闇夜の深さに戦いた。
 闇は本来、怖ろしいものであるとともに、ファンタスティックで心安らぐものでもあるのだが、昭和ヒトケターは子ども時代に、ひたすら怖ろしいだけの闇をイヤというほど体験させられ、一生分の闇を味わわされた。もう闇なんていらない。闇はバイ菌と一緒に駆逐しよう。未来は明るくなくてはいけない。未来は光の中にある。光の中にしかない。
 昭和ヒトケターは、そういう強い気持ちで戦後の高度経済成長を牽引した。「光る東芝」の蛍光管を振りかざした磯野家とともに。「明るいナショナル」のロゴをどこぞの紋所のようにまぶしく拝みながら。蛍光灯の光は、わずかの闇も許さないという純白の意志をもって、部屋の隅々まで均質に照らし出した。
 そうして日本列島は光にあふれ、明るい未来がおおむね実現した。ところが今度は逆に、私など昭和ヒトケターの子の世代、高度成長期に生まれ育った人たちが、知らず知らずのうちに闇不足に悩むことになる。
 昔は、夜明けと日暮れという、一日二回の激しい闇と光のドラマを、毎日体験しながら暮らしていた。ところが高度成長期以降、昼も夜もずっと、ぼんやりと明るい光の中で暮らすようになった。闇と光のドラマを失ったこの単調な生活は、私たちにとんでもなく強いストレスを与え続けていると確信している。ミッドナイトハイクなどで闇を体験すると、劇的なストレス解消感を覚えるのは、そのせいだと思い至った。
 世界的に夜が明るくなる中で、日本が突出して明るくなった原因は、戦争にあった。とくに、負け戦を粘りに粘って戦争の闇を無用に長引かせ、怖いだけの闇を増産しすぎたことに、のちの闇不足を招く大きな原因があった。
 ということは、この先戦争からどんどん遠ざかって平和を守っていけば、いずれ闇不足は解消されていくかもしれない。そして、アトムもウランちゃんも絶句するような、美しく暗い未来が実現するかもしれない。実際、『不都合な真実』以降の総エコ化の流れの中で、ここ数年は闇復興への追い風を感じることが多くなった。

 ところがアトムは黙っていなかった。
 二〇一一年三月。前世紀的社会がもたらした空前の大人災、東日本大人災が福島から首都圏を直撃し、全国(と世界)を巻き込んだ。首都圏はあっという間に、灯火管制と学童疎開の時代に逆もどりした。
 大節電と無計画停電・非輪番停電のおかげで、闇がある程度もどってきた。それを喜びたいところではあったが、その闇には、大量の放射性物質が付着していた。まさに灯火管制下の街のように、無用な灯りは消し、窓を閉め雨戸を立てて息を潜め、B29ならぬCs-137などの空襲に怯えながら暮らす。しかも、その闇がいつまで続くのか当初はまったくわからず、太平洋戦争のように出口の見えない深い闇だった。ひたすら怖いだけの闇だった。
 ドジョウがなんと言おうとまだなにも終わってはいないけれど、人々が呑み込んだ放射性物質は喉元を過ぎ、多くの人が早くも熱さを忘れ始めている。あれほど暗かった東京の街にはもうだいぶ光がもどってきたし、大人災以降に開発・再開発された土地では、大人災以前より明るくなってしまったところもある。
 闇は気持ちを下げる。暗い夜なんてもうたくさんだ。多くの人がそう思っている。美しく暗い未来の実現は一瞬近づいたように見えて、むしろ遠くなってしまった。
 涼しい顔で「これは天災ですから」と言いながら、天になど存在しなかった人工放射性物質を撒き散らして天を侮辱する。そんな恐るべき敵を知るために原発について勉強していたら、『危険な話』に感化された当時には思い至らなかった原発の意志に気づいた。
 原発こそが、闇の復興を妨げ続けてきたのではないか。夜の街がこれほど明るくなったのは、原発のせいではないか。
 日本の原子力発電は、高度成長期にその礎を築き、石油危機以降、化石燃料に頼らない発電法として図に乗った。チェルノブイリの事故を受けた反原発運動を札束で一掃し、米仏に続く世界三位の原発大国になった。二〇一〇年の時点で、原発は日本の総発電量の約三割を担い(東電も同様)、二〇一九年度には、東電はそれを五割近くに引き上げようと目論んでいた。イケイケ原発! 日本の技術力! その気になれば核兵器をつくるなんて朝飯前なんだよベランメエ!
 世界で唯一、核兵器によって惨敗した国だからこそ、原子力の圧倒的な力をほかのどの国よりも実感していた。だからこそ、ほかのすべての力を圧するこの力を、どうしても手に入れたかったのだろう。日本という国家の心情として、一度はこの道を通らなくてはならなかったのだと思うがそれはさておき。
 原発の大きな特徴のひとつに、一度運転したらそうそう停めるわけにはいかない(あるいは、そうそう停めたくない)ということがある。停めたり出力調整したりしやすい火力発電と違って、日本の原発は一日中、同じ出力で運転しっぱなし。
 ところが、電力需要は夕食時以降、とくに深夜に激減する。だから、原発を推進していけば、深夜の電力供給にどんどん余裕が出てくる。そこで、夜間に生産した電気を実質的に蓄える揚水発電という副産物ができたが、これが昼間の電力供給を助けるものであるとはいえ、ダムをつくらなきゃならないしロスが多いしで、ウケがよくない。もっとストレートに深夜の電力需要が増えてくれれば、原発の存在価値はかんたんに高まる。逆に言えば、原発を推進していくなら深夜にいくら電気を使ってもかまわないし、深夜に電気を使いまくることこそが、原発と日本のお国のためになる。
 国民の生き血を啜るのが得意な人たちは、高度成長期以降ずっと、そう考えてきたのではないか。

 思い当たることがある。十年ちょっと前に田舎暮らしを始めて、田舎の社会にどっぷり浸かってみた。そこで印象的だったのが、「あそこは暗いから防犯上問題がある。街灯を設置してほしい」という陳情が、実にかんたんに通るということ。防犯上の問題なんてあろうがなかろうが、「街灯を」と言えば「ホイきた」とすぐ設置されるのだ。そして夜もすがら点けっぱなす。
 ミッドナイトハイクをしていて印象的なのは、深夜の山頂から見下ろすと、夜景のほとんどが街灯(と信号機)の光だということ。都市の深夜にはいろんな光があるが、田舎の深夜の灯りは九割以上が街灯で、広大な田舎のあちこちの道に光の行列ができ、車も人もほとんど通らない深夜の道をご丁寧に照らしている。
 この夜景色を見たらどうしたって、夜間に電気をたくさん使おうという強い意志が、社会の根底にあるとしか思えない。「これは原発のためになる」と思って街灯の陳情をしているわけではないだろう。もっと無邪気に陳情している。だが、街灯が無闇に増えて、日本の街が異常に明るくなった根底には、明らかにまっすぐな意志がある。それは、昭和ヒトケターの意志だけでなく、原発の意志でもあったし、今世紀になってからは原発の意志のほうが勝っていたのだと思う。
 原発の代わりに太陽光発電を本気で推進していけば、夜間の電力を無闇に使いたいという発想は、どう考えたって出てこない。原発は闇に厳しく、陽発は闇にやさしい。
 夜の闇の復興にとって、最も厄介な敵は、原発だったのだ。昼も夜も関係なく、二十四時間ずっと同じ出力で発電する原発と、二十四時間ずっと同じような明るさの中で暮らす私たちは、同期していたのだ。そして私は、『危険な話』の熱から醒めた九〇年代前半以降、図らずも、美しく暗い未来を求めることを通して、ひたむきに脱原発運動をしていたのだった。
 じゃあもう、このままそれでいく。

【初出:2012年4月/ウィッチンケア第3号掲載】

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