仲俣暁生/大切な本はいつも、家の外にあった
自分がいつどこで、どうやって本や雑誌と出会ってきたかを振り返ると、思いのほか、それは家の外で起きた出来事だったことを思い出す。親から与えられた絵本はともかく、自分から進んで読みたいと思い、あるいは偶然に出会ったことで好きになり、そのことで気づかぬうちに自分の人生に大きな影響を与えた本や雑誌とは、ほぼすべて家の外で出会った。しかもそうした本や雑誌を私は、結局のところ自分自身では所有することがなかった。それらは原っぱと同様、いわば子どもたちの共有財だった。
小学校五年の春まで、東京の東北部 、葛飾区の水元という集落に住んでいた。そこは東京区内に残った数少ない農村地帯のひとつで、旧町名は小合上町といった(いまは「東水元」という、なんとも味気ない名前になってしまった) 。町の名前の由来である、小合溜という大きな池というか沼というか、とにかく「水溜り」があり、その周辺が名高い水元公園を含めた水郷地帯になっている。その小合溜の脇を「桜土手」と呼ばれていた土手道が南北に走っている。その桜土手を降りて、常磐線と京成線の金町駅まで続くバス通りへと戻る途中に当時の私の家はあった。教員住宅として利用されていた、小さな平屋の一軒家である。
この小さな家には、いくら書いても書きあきないほどの思い出がある。この教員住宅を私の家族は隣のS家と、いま風にいえば「シェア」していた。千六百円の家賃を折半しており、わずか八百円だと親から聞いたときは子ども心に驚いた。当時の私の小遣いは一日二十円、つまり月額六百円だった。そんなに安く家を借りられるのか、と子ども心に思ったことが、のちに引越しを繰り返す人生につながった可能性は大きい。
さて、その教員住宅の五つの部屋のうち、五人家族の我が家に充てがわれた部屋は六畳三畳の二間とキッチン。S家は四人家族にもかかわらず、小さな部屋がひとつ余計にあった。窓に面したその部屋は子ども部屋になっていたから、窓から出入りしてそこに遊びにいくのが好きだった。隣家の上の子は私と同級生の女の子のヒロミちゃん、下はうちの次男と同い年の男の子でノリくん。ノリくんはオカッパ頭をしていた。ヒロミちゃんの顔はもう忘れてしまった。
同じ集落(その一画は、どぶ川に囲まれていた)にはあと二家族があり、子どもの数は総勢九人だった。教員住宅に暮らす余所者の二家族(つまりどちらも親が学校の先生)に対し、残りの二家族はこのあたりの地主一家と、その敷地内の小さな家に間借りしている若い母親とその子たちだった。この家に父親がいたかどうかは記憶があいまいだ。母親はまだ二十代で水商売をしていたのではなかったか。
地主の子の名前はタカシくんで、妹がクミちゃん。若い母親の子どもはテルくんで、さらに妹がいたと思う。やがて「十人目」が地主の家に生まれたのだが、その子は父親の運転する車に誤って轢かれ、ごく小さいうちに亡くなった。
子ども九人のなかで最年長の私が、なんとなく全体のリーダー役となった。地主の子の家はカネ持ちだったようで、その家だけカラーテレビが入った時期が早く、どうしても色付きで見たい番組は言えば見せてくれた。掘りごたつのある部屋に集まり、皆でサッカーゲームをしたこともある。それ以外はたいてい、外で石蹴りをして遊んだ。
そんな集落で育ったものだから、マンガ週刊誌との出会いも、その地主の子どもの持ち物をみなで回覧したのが最初だと思う。よく覚えているのは怖かった作品のことばかりである。借りるとすぐに怖いマンガの前後を手で挟んで隠し、心の準備ができないうちは読めないようにして、それ以外をこころゆくまで十分に楽しみ、最後に覚悟を決めて、本丸である「怖いマンガ」を読んだ。
便利なもので、いまはウィキペディアで調べれば、当時の私が夢中になっていたマンガの連載期間がわかる。いちばん怖かった楳図かずおの『漂流教室』は「週刊少年サンデー」で1972年から74年までの連載、もう一つ忘れられないジョージ秋山の『灰になる少年』は1973年に「週刊少年ジャンプ」で連載されていた。私は1974年の春にはこの集落を離れてしまったから、これらのマンガは水元での暮らしの記憶と切り離すことができない。
マンガ週刊誌を読むことを親はとくに禁じなかったが、もっと豪華な付録つきの子ども雑誌、たとえば秋田書店の『冒険王』は買うことも読むことも許されなかった。
当時、学研の「科学」と「学習」という子ども向け学習雑誌が人気だった。発売日になると、通っていた小学校の校門の前でこれらの頒布が行われ、購読している家の子どもたちはそこで雑誌と付録を受け取って帰っていた。私の家では「科学」も「学習」もとってくれなかったので、校門のところで友だちが雑誌をもらって帰るのを羨ましくみていた。たまに付録の数が多すぎて余ると、頒布役のおばさんがこっそり分けてくれた。それは当時の私にとって、何よりもうれしいことだった。
それより前、まだ学童保育に預けられていた小学一年から二年にかけての時期、学童保育の家で読んだのであろう雑誌のことも、ずっと気になっていた。その雑誌について、ぼんやりと覚えているのは二つ。一つは子ども向けの偉人伝で、劇画風の絵がついていたものがあったこと。世界一周航海をはじめて成し遂げたマゼランの一行が、南アメリカ大陸の南端に発見したマゼラン海峡を通過するときの恐ろしい出来事を描いた回が、なかでも鮮明に記憶に残っている。のちにノンフィクションという分野の読み物が好きになったのは、間違いなくこのおかげである。
もう一つは、ギャグマンガとして描かれたヴィクトル・ユゴー原作の『あゝ無情』を読んだこと。これものちに調べてすぐにわかった。みなもと太郎の『レ・ミゼラブル』である。インターネット上の名著復刊サイト「復刊ドットコム」が2004年に「完全版」と銘打って復刻してくれたおかげで、三十数年ぶりに読み返すことができた。
インターネットで調べると、この作品が掲載された雑誌の名前は「希望の友」だとわかった。創価学会系の潮出版社が出していた定期購読のみの雑誌で、書店では売られていなかった。学童保育の家が創価学会の信者の家だったのか、それとも誰かが持ち込んだものがあったのか、どちらかわからないが、この偶然のおかげで、私は物語とノンフィクション、両方の面白さに目覚めることができたのだった。
これもインターネットで調べてみると、当時の「希望の友」には錚々たる大家がマンガを描いていたことがわかる。うっすらと記憶があるのだが、横山光輝の『三国志』もこの雑誌に長期連載されていた。のちに私は「コミックトム」という雑誌に載った一連のマニアックなマンガが好きになる。星野之宣、諸星大二郎、坂口尚、安彦良和といった人たちだ。この「コミックトム」こそ、「希望の友」が名称とコンセプトを変え、市販の雑誌として生まれ変わったものであることを、ずいぶん後になって知った。
小学五年の春に、東京の辺境から江戸川を越えた先、千葉県船橋市に引越した。その町には小さな本屋がいくつもあり、そこで初めて私は自分の小遣いで本や雑誌を買うという経験をした。水元の集落には、小学校の前に文具屋があるのを除けば、タバコ屋と酒屋と蕎麦屋とラーメン屋とお茶漬け屋、あとは床屋と小さなスーパーしかなかった。
中学に入ると、小学校ではずっと別のクラスだった、リエコという背の高い勝ち気な女の子と仲良くなった。引越し先の家からほど近い、小学校にかよう道の途中(というより、正門のすぐ近く)にリエコの家はあったから、風邪で休んだときにプリントを届ける役割がときどきまわってきた。それでリエコの両親にも顔を覚えてもらえるようになった。
思えば初恋のようなものだったと思うのだが、リエコの部屋と自分の部屋の間でトランシーバーの電波を飛ばせたら、とよく夢想した。携帯電話どころか親子電話もない時代だったから、パーソナルな通信は電話では無理で(お互いの親という門番がいた)、現物のやりとりに頼るしかなかった。
なにがきっかけだったか忘れたが、こちらが好きな音楽をカセットテープにとったものを渡すのと引き換えに、リエコが面白いと思うマンガ本を貸してくれる、という交換条約が成立した。手紙やノートを交換した記憶はなく、とにかくモノとモノとを交換した。こちらはラジオから録音した初期オフコースの曲入りカセットなどを貸したように思う。そのときに借りたマンガのことはほとんど忘れてしまったのだが、一つだけ、歴史マンガがあったことを覚えていた。
少女マンガなのにとても精密に描かれており、しかも主人公は源義平。そう、平治の乱で敗れて関東に下る途中で殺された源義朝の長男で、「悪源太」と呼ばれた少年の物語だった。保元・平治の乱から鎌倉幕府の成立にいたる、日本の古代最後の時代を描いた作品が私はとても好きなのだが、その原体験はまちがいなく、中学時代にリエコから借りたこのマンガだった。
さて、この少女マンガはいったい誰のなんという作品だったのか。これもインターネットで「少女マンガ 源義平」で検索すればすぐにわかった。西谷祥子の『飛んでゆく雲』である。1976年に集英社漫画文庫に収められており、時期から考えてこれを借りたはずだ。
この作品と現実に再会するまでは、ずいぶん長い時間がかかった。なにしろ中古本でさえ、ネット通販でも手に入らない。四十年も昔の少女マンガを大事にとっておく人は少なく、ほとんどがゴミとして捨てられてしまったのだろう。当時はまだ、マンガの社会的な地位が高くなかったのだから仕方がない。
「少女まんが館(女ま館)」という活動をしている人たちと知り合ったおかげで、再会の夢はかなった。「女ま館」は東京の郊外、あきる野市に建てられた少女マンガばかりをあつめた私設の図書館だ。ここを取材で訪れた際、私にはひそかに目的があった。西谷祥子の『飛んでゆく雲』をまた読んでみたい。ここならばきっとあるはずだ。
もちろん、あった。ただし文庫版ではなく、1971年に出た「別冊セブンティーン」の2月号と3月号に掲載された初出バージョンである。前後編各100ページで情報量も多く、取材の合間には読み進められない。キャラクターの顔立ちを確認する程度にとどめ、物語の筋を追うことは諦めた。いつのことになるかわからないが、どこかで文庫版を手に入れて、ゆっくり読みたい。
ところでリエコから借りたマンガ本には、ときどきお煎餅のくずが挟まっていた。そうか、あの子はお煎餅をかじりながらこのマンガを読んだのか、と想像するのが楽しかった。どんな手紙や交換日記より、それが幼い恋心を刺激したのだった。
【初出:2018年4月/ウィッチンケア第9号掲載】