内輪感とたたかう
日頃から「内輪感」と言われるものを意識することが多い。コワーキングスペースしかり、地域やソフトウェアにまつわる各種コミュニティしかり。コミュニティあるところ内輪感との戦いがある。
おおよその場合、外から「内輪ノリ」を叩かれるのは外部に対する何らかの対応のまずさに起因することが多い。反省すべきと思うところは反省すればいいのだが、中にはやっかみ、あるいは単純な悪意以外の何物でもないような意見を目にすることもあり、なかなか心に整理をつけることは難しい。
僕はかねがねコミュニティはひとつの指揮系統下に単一化するのではなく、中小のコミュニティの総体となっていることが望ましいと言っているが、その中小のコミュニティが「これおかしいんじゃねえの」と言い出したところが勝負なのだろう。
「そんなこと言ったって、君だってウチならではの特殊な事情は知ってるだろう」と言いたくなる、それが内輪ノリ以外のなんでもないのだ。ここにどう対応するかで決まる。こういった場面では感情で物事を進めようとしてはいけない。人に説明できる筋が通っているのか、それを何より重んじなければならない。
僕自身がそういったことで成功したから書くのではない。あるときは成功していたかもしれないが、内輪感というのは安心した瞬間にコミュニティに巣食う。だから日頃気をつけよう、ということ。まさにノート。
飲食店における「常連は放っておけ、新規の人をちゃんと見ろ」というよく聞くノウハウはそこをよく言い表したものだと思う(ただしこれは店舗のプレミアム感によって変わってくるものではあると思うが)。
追記:
ひとつ気づいた。いわゆるコミュニティ批判をするときに「内輪ノリ」という言葉を使って批判するのはとても簡単だということだ。
コミュニティの外側に対する不祥事・不手際は簡単に「身内同士のチェックの甘さ・外部に対する責任感の欠如」という構成員のメンタルの問題に置き換えられがちなのである。
不手際を指摘する/されるのはありがたいことなのだけれど、これを「内輪ノリ」という問題に置き換えてしまうと、なんだか感情的な議論に陥りそうだ。
(この文章はここで終わりです。もしもいいなと思ったら、わたしの酒か音楽に消える可能性が多分にありますが買ってください)
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