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~人生とは、偉大なるグルである~
~この物質社会こそが、
私たちの学ぶべきもっとも理想的な学校なのです~
~すべての人が、
模範的にせよ反面的にせよ誰かにとっての教師になっている~
少し本題から外れた話から…になりますが、アカシック・レコードを読むとき、情報をうまく引き出して『読む』ことが出来るかどうかというのは、
読む内容に関して、基礎(予備)的知識があるかどうか、というのに掛かっていたりします。
アクセスすることが出来たとしても、上手く解読できなければ、すべての内容を理解して、全容を明かすことも、情報として成り立たせることも出来ないのですね。
この場合の基礎知識とは、例えば、物理学に関するアカシック情報を読もうとしたとき、物理学の用語とか記号とか基礎的知識の理解がないと、そこに何が書いてあるのか判らず、読むことは不可能って具合に。
別に物理学でなくても、医学でも数学でも考古学でも地理でも、文学でもITでも土木建築でも料理でも、どんな分野でもいいんですが、さわり程度の基礎がないと、その先を理解することが出来ないからです。
例えば、料理を一度もしたことのない人に、
小さじスプーン1/2、アクとり、調味料はさしすせその順番で…とか言っても、頭の上が「?」となるでしょう? 初心者向けの、小学生にも解るような料理本ならいざ知らず、一流の調理師学校を出た、専門的なその道のシェフ向けの、しかも17世紀の小難しい料理本を読んで、その料理の作り方を他の人に解説してみせろって言われても、すぐには理解も説明も出来ないのと同じです。
アカシック・レコードのことで言えば、それは形の無いものであり、一種のエネルギーの塊のようなものだから、『言語』として綴られているモノではないので、それを解釈して理解するのは、その人の霊性如何に掛かっているのは勿論のこと、『ロゴス』にいかに通じているのかということが一番で、経験と智恵をどれほどに所有しているか、というのも関わってきます。
うんと…ここ説明するのが難しいんですけど、解りやすくいいますと、
何処まで豊かな『ボキャブラリー』を持っている人か、みたいなもんかな。
たくさんの知識とか智恵とか経験とか、人を見る目とか・・・感情の豊かさ、視野の広さや見識の深さとかとか。。。そういうもん。どの分野の情報を読むのかにも寄りますけど。だから、読むのに得意な分野とか不得意な分野とか、そういうのもあったりしますね。
その辺りのことで、優秀なアカシックの読み手とそうでない人というのに分かれてしまうかも。それは致し方なし。
ある言語を別の外国語に翻訳・通訳するときにだって、翻訳の上手下手はあるし、意図を汲み取れてないものとか、訳された文は整っていても、雰囲気が伝わらないような翻訳もあるし。
それはアカシックも同じです。
とくに言語として書物やDVDなどの媒体に書かれているわけでは無いものを、自分の中のイメージ(この場合ロゴスで受け取る)で受け取って、それを言語化して組み立てるわけですから、読み取る人の個性が強く出るというか誤訳や間違いも出て当然だし、置き換えられないところがたくさんあって然り。
翻訳過程での誤訳と言えば、昔の魔術関係の本なんか、ハーブのことを知らない人が訳しているようで、スキャルキャップをまんま、「骸骨の頭」とか・・・笑ってしまう訳が多々。昨今だと海外のゲームの翻訳も結構笑えるものが多く、アイテム探しだと妙な日本語に訳されていて、探せなくて困りました(笑)
てなわけで、予備知識すなわち基礎がないことには、その先の知識・・・次の段階の内容を理解することが出来ないので、物事を学ぶには順番というものがあるわけです。
霊的な知識もやっぱりそうで、その人のレベルに合わせた段階というのがあったりします。
レベルをどうやって測るかというと、霊性=霊的な成長度(三つの身体が何処の次元に属しているのか)…が基本になってきます。ていうか、それがその人の知識に対する理解力になるからです。
(知っている人に説明するなら、この霊的成長度って、6次元の身体=第四の身体(神体)、すなわちサイコノエティカル体の成長度のことです。これが何処まで育っているのか・・・49ある階層のどこに所属しているのか・・・に左右される。)
知識に触れて勉強するだけなら、この物質社会においては誰でも学ぶことは出来るけど、聴いた知識や学んだことを『理解』出来るかどうか、は別問題なので。
昔は・・・霊的知識は一部の人にしか開示されていなかったのですけど、今は誰でもそれを知ることが出来ます。残念なことにそのお陰で、理解できる段階に達していない人には、『真理』は正しく伝わらず、湾曲して伝わってしまったり、難しすぎて誤解されてしまうことも多いのです。
とはいうものの、自分の理解できる範囲のことだけを学ぶべきだとか、その人の霊性のレベルにあった勉強だけをすればいいとか、理解出来ないであろうことを学ぶ必要はない・・・なんてことを言っているのではありません。
例え、今は全容を理解出来なくても、学ぶ意味はあります。それを当人が望み、求めるのであれば、学ぶことで霊性を高めていく方法はいくらでもあるのですから。何故なら、霊的真理とは、そのための知識だからです。「知る」ことからすべては始まるわけで。そして、「法則」を知ることで正しい生き方が出来るようになり、その生き方を通して波動を上げて霊性を高めるための方法として、古代からの叡智として、霊的な『知識』も存在しているのです。本来、スピリチュアルというのはそういうものです。
今のその人には難しい知識であっても、いつか役に立つ日は来るし、何かしらの形で戻ってきます。後で、ああ…これはこういうことだったのだな…と、必ず昇華できる日が来るからです。それが今生ではなくても、知って損はないということだけ言っておきましょう。ただ本人が、学ぶことを自主的に望んで選ぶかどうかってだけです。強制的に与えたり無理やり教える知識ではありませんから。(興味のないことには誰だって学習意欲は湧きません。従って身につきませんし)
学びはいつ何処にだってあり、学ぶべきことは常に身の回りにあふれています。いつでも何処からでも、どんな場所でもどんな人からも、何処にいても、どんな環境やどのような状況からも、私たちは何かしら学ぶべきテーマを見つけることができます。
日々の生活から、人生から、人間の心理や営みから、世間の出来事から、あらゆる森羅万象の移り変わり、動物たちや自然の摂理や生命の神秘から。宇宙の有り様が、人そのものが、私達に様々なことを教えてくれます。自分自身の心の動きや反応でさえも。
学びは特別な場所だけにあるわけではありません。観察力と好奇心が人を叡智に導きます。一のことから十を学ぶ人もいれば、十のことから一のことしか学べない人もいます。
五感を開いて、心の眼で世の中を見ようとしてみれば、
今まで何も見ようとはしてこなかったことに気づかされるでしょう。
知るべきことはたくさんあり、気づくべきことは山ほどあります。私たちはまだまだ、自分の能力の何分の一かも使用してはいません。そして、自分自身が唯一無二の「存在」であること、人間であるということを楽しめてもいないのです。誰でもない自分自身を使いこなせていないというのかな。
さてさて。
今の世ではたくさん、いろんな知識があふれています。霊能者さんとかヒーラーさんとかチャネラーさんとか数はいるけども、それらの知識を表わしてくれている日本人の著書さんはさほど多くないですね。でも、海外の本とか翻訳されていないものの、色んな人が霊的な知識を文章にしてくれています。ネットでもそうです。私のこのブログも。昔からの本でのスタンダードな情報もあるし、新しい情報も、日々いろいろと開示されている。
色んな人が色んなことを言っているので、どれが本当なのか迷うことも多いと思います。でも、どれが間違っているとか正しいとか、そういうことはないのです。
みんな霊性のレベル(居場所)が異なっているので、その人のいる次元からの知識ですから、決して嘘ではなく、その人がいる場所からの、自分が経験として所有している知識、自分なりに噛み砕いたこととか、そういうのを書いているので、違ってて当たり前なんですよ。一人ひとり見えてるものも見え方も、見える景色も違うんだから。
そして必要な知識はひとつだけじゃない、というのがあります。
それを説明する前にちょっとここで解説。
この物質社会には、色んな人がいます。物質社会-三次元はひとつの場所しかないんですが、肉体以外の霊的な二つの身体は49ある階層のうち、いずれかに属しています。
判りやすく省略していうと、
人の心のレベル及び霊性は、49のレベルに分けることが出来ます。目に見える肉体はみんな同じで対して代わりが無いですが、(ジェンダーとか肌の色や容姿の違いとか人種とかは置いておいて)霊性は、49あるので、霊的な身体の状態は皆違うわけです。
これを学校の学年としてみましょう。
49学年です。
1から49まで、下の数から上の数に行くに従ってが上級になります。
物質社会での地位とか立場とか人種とか、
宗教やジェンダーや実年齢(肉体の歳)とかは関係ありません。
物質としての肉体が90歳でも、霊性の学年は3だという人もいる。まだ5歳の乳幼児でも、霊性の学年は41という人もいる。親が12学年くらいなのに、子供のほうが24学年だったり、48の学年である女性の夫が、30学年ってこともある。
親子でも兄弟姉妹でも一つの家族でも、霊性の学年はそれぞれバラバラ。ただ、友達とか親しくなる人、意志疎通がうまくいく、意見や気の合う人というのは、引き寄せの法則で、近い学年の人をセレクトすることになりますが。家族・家庭や親戚、職場、それ以外(ご近所)は、『学びの場』になりますので、色んな学年同士が集まることになる。
でないと、学べないからです。同じレベルの人と群れあっていても、人って成長できないんです。自分と異なる学習レベルの人と交じり合って、共に学ぶことで、人は成長していけるんですね。
自分より出来る人、出来ない人、レベルの高い人、低い人・・・色んなレベルにいる人たちといることで、互いに学びあうことが出来るんです。
まあ、この世のことでいうなら、保育園の乳幼児たちと大学院までの学年が、ひとつ同じ教室の中で、一緒に勉強している感じ。
それがこの世、私達の社会です。
乳幼児に振り回され、ときにお守りをし、自分より上の学年の人に家庭教師のように教えてもらいつつ、下の子に教え、また、教えることで学びを深めつつ・・・そうやって、色んなことを総合的に学ぶのが「この世の学校」です。それが、私達の学びであり、学びの場なのです。教えてもらったり、教えたりの環境が大事ということです。
この世に生きる意味はそこにあります。
で、霊的学びの順番。
霊的な学びにも、基礎的なレベルというものがあります。
先に出した学年で言うなら、学年の若い人向けの知識というのがある。
例えば、幼稚園児にいきなり高校生の教科書の説明をしても、よっぽどの超天才児でない限り、理解できる子はいません。数字の読み方を教えないことには、というのもあるし、数学の前に算数をやっとかないと、です。算数が理解できるから、その上の数学が判るわけなので。
国語だって、まず「あいうえお」から入って、漢字の書き取りとか、日常会話とか、基本的な読み書き、文法が判らないことには、作文も日記も書けないし、古文だの漢文だの言語学だの、その先には進めません。
そんな訳で、霊的な知識も基礎的な判りやすい説明から、そのレベルの人向けの知識から、なんですね。
もう一つ例えでいうと、霊的な次元のルールなどは、霊的な学年の低い人ほど禁止事項が多くなります。「あーしてはいけない」みたいな決まりごとや注意など。そして上の学年に行くほど、本人の自由意志尊重・・・みたくなってきます。
これは、保育園の年少さんたちに、
「危ないから絶対に道路に出てはいけませんよ!」
と、理由を説明するより、とにかく「ダメ」と行動を制止する。
そういうのと同じです。
あまりにも小さな子供に、「道路は車が走っていて危ない」
と、なぜいけないのか詳細やらキケンということを説明しても、
車がどういうもので、どんな風にキケンなのか、危ないことはどういうことなのか、はねられたらどういう風になるのか、死ぬということはどういうことか?
彼らは上手くイメージできないし、把握することが出来ません。
けれど、相手が中学生だったら危険を制止する説明は違ってくるし、大学生とか大人だったら、さらに言葉の言い方も違ってきます。大人の場合は、完全に自己責任になりますし。
なので、霊的な世界の説明は、
初心者向けの入門編があって、中級者向け、さらに上級者向け…その上…
となってくるのです。
それで矛盾も出てきてしまうんです。
初心者には、まだ「説明できない」ことがたくさんあるので、中級の知識、上級の知識・・・と来る段階で、説明のされ方が違っていたり、以前聞いたことと違うってのもありで。
(世界各地、世に存在している多種多様な教義、秘教的知識、多くの人が説明している霊的な事柄についての解説、意見。これらの共通点と表現の違い、相違点などに気づき、矛盾点に疑問を感じることが、真の知識・真理の扉に近づく第一歩だったりします。そこを追求していくことが、神の恩寵を知り真理を知る(それを知る資格を得ている)ことでもあるので)
もちろん、それを解説する人の知識の幅もあります。その人が中級レベルの人だったら、中級から下の知識しかないので、それ以上のことは説明できないし、今の段階で理解している範囲のこと、そのレベルでの言い方、表現でしか伝えられないからです。
確かに間違って解釈してしまっている人もいます。でも、誤った知識とは一概に言えません。文化とか宗教とか言語の違いとか、そういう背景もあるし、既存の思想形態の上に成り立っている知識の場合は、どうしてもその説明、その表現にならざるを得ない場合も多いからです。
いずれにしても、学ぶ人の理解力も様々ですから、自分が理解しやすい内容かどうか、自分にとって腑に落ちるか否か、それに尽きると思います。この段階では自分の霊性のレベルなんかは別に気にしなくていいと思います。
ただ、他人からの既存の知識に頼り切らないことは大切で、どんな情報も丸呑みせずに、客観的に、疑念の目を持って、少し突き放した目線で観るくらいがちょうどいいです。そして、何事も自分で経験して、確信するまでは
信じすぎてはいけません。
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