いじめは犯罪~贖罪と因果応報
世間を騒がせていることについて、また少し思ったこと。
それが赤の他人であっても家族であっても、他者にされた酷いことって、そうそう忘れられるものではありません。被害者はみんな覚えています。時間が癒すこともあるけれど、今の幸せによって、過去の傷がぬぐわれることもあるけれど…いつまで経っても、消えない傷もあります。忘れたくても、後を引いて、脳裏と心身に刻まれた、その痛みによって苦しめられ続けている人も少なくないのです。
人は変われるかもしれないし、未来は変えられるけど、過去は変えられないんだわ。人生はやり直せるっていう言葉も、過去をなかったことにできる意味ではないと思うし、カズレーザーが指摘したようにそれを埋め合わせる行動をした人に向けられた言葉であるべき。だから、正直色々出てきて、彼には痛々しさを感じてしまうが、やはり同情や擁護はできないな。
上記の言葉は、今回の騒動関連の記事のコメント(ヤフー)てすが、激しく同意と言うことで引用させて頂きました。
そしてこのコメントも同様に思いました。
言うべきかわからないが、せめて何も考えずにイジメをしている子供
(だけじゃなく大人もか)、が立ち止まり、自分の行いを振り替えって悔い改める機会になればいいな、と思う
そうですね。今それをしている人たちは、今回叩かれている某氏のことを未来の自分の姿なのだと想像して、自分のやっていることがどういうことなのか、その意味や行動の先を自覚して欲しいと思います。たまに大人になってから、虐め被害者と加害者が再会して、立場が逆転していたことでエライ目に遭うというライン動画も見ますし、実際にその手のハナシも聞きますが、遠い未来に復讐や制裁される可能性も知って欲しいです。もっとも、バッシングされたり、復讐されるのが嫌だから、虐めや犯罪をしないという自己保身からの発想も、反省からでは無いということで困りものですがね。
それでも今苦しい思いをして、辛い目に遭っている人を減らせるなら、そのような脅しも効果的であると考えるべきなのかな。
今回の騒動は、過去にいじめ加害者であったとしても、自分のしたことを心から反省し、その償いのためにも無償で協力したいというような、そういう姿勢で今を生きられている人であったなら、批判はされなかったろうにもな、と思います。でも、そうじゃないですからね。
いじめや差別については過去記事でも触れていますので良かったら、そちらもどうぞ。
幸いにも私は学生時代、酷い虐めには合わずに済みました。女子からの仲間外れ(ハブられる、口利かない)とか、一部の男子女子からのおちょくりや攻撃に遭ったことはあるけれど、悪質なイジメと言えるほどのものではなく、スルーしたり反撃しりしてやり過ごしたかな。正義感が強くて男勝りでキツイ性格だったと言うのもありますし、時代的にまだそこまで歪んでなかったというのが大きいかもしれません。
むしろ、社会人になってからの方が職場でいじめ的な嫌がらせは受けたかな。コンプライアンスが厳しい今の時代だったら、パワハラとかセクハラとかで訴えることも出来たでしょうけど、昭和や平成の初期の頃は男尊女卑な男性優位社会というのが当たり前の価値観でしたからね。騒ぐ方がおかしいとされていました。
軽井沢プリンスにシーズンバイトに行った時には、都会から来た奴は気に入らないとかで(当時の私はまだ千葉在住、千葉は都会なのか?微妙)、半袖の制服のまま、スキー場の掃除と備品集めをさせられましたし。重いものを持って移動する際に足を引っかけられるとかね、そういう嫌がらせもされました<どこの大映ドラマだよってな感じ
大人になっても陰湿ないじめとかをする人、他人を陥れようとする人、ハブろうとする人はいつでもどこにでもいるもんです。
さて、私自身のことはともかくとして、周囲で全く無かったと言うことはなく、今の時代ほど酷くなかったと私や周囲が思っていたとしても、いじめられた当人にとってはそうではないってこともあるわけです。
事実、私の友人はいじめを受けていました。と言っても、男子からだけ。女子は彼女をいじめることはありませんでした。彼女とは小学校、中学校が同じでしたが、同級生になったのは中学の一年間だけ。家が近所で登校班が一緒だったから何度か遊んだこともあったけど。親しくするようになったの同じクラスになってからかなあ。
なぜ、彼女がいじめのターゲットになったのか。それは髪の毛が無かったから。けれど、彼女はとても明るい人だった。だから、一部の女子は距離を置いていたけれど(陰では解らないけど表で露骨にいじめることはしない)、ほとんどの女子はまあまあ普通に接していたわけです。そして、彼女が自分で自分のことを自虐的にギャグに出来るほど明るい人だったので、友人としての私たちも楽しく付き合えていました。でも、一部の男子は違う。「ハゲ」と露骨に言葉を投げかけて、フォークダンスなどでも「えんがちょ」と言って避ける人もいるわけです。
いじめと言っても暴行とかでは無かったから、先生が怒って終わりになってたのかな。その意味ではやはり、まだ酷いイジメが横行していなかった時代と言えるかも知れない。
で、ずっと生えてこなかった彼女の髪の毛は高校生になった頃、綺麗に生えてきました。そして、大人になった彼女は美人さんになり、彼氏も出来ましたし、今では三児の母です。さらさらロングヘアの美人さんになった彼女と地元で飲んでいた時、かつて彼女のことをバイキンのように扱っていた同級生の男子たちが、私たちに話しかけてきて、「キレイになったねー」なんて言っていた時には臍で茶が沸いてしまいました。愛想笑いで懐かしい話には付き合ったけれども、誰がお前らの誘いになんか乗るか、ボケッー!って二人して思いましたもんね。
因果は巡ります。自分がしたことは必ず自分に返ってきます。それは法則でもあり、避けられない成長のためのレッスンである。
因果応報、身から出た錆び…と言う言葉もありますが、他人に対して行うことは未来の自分に対して行うことであり、自分が同じことを他人からされたいという意思表示であり、自分が希望する(求める)未来をリクエストすることでもあります<引き寄せの法則たる波動の法則
でもって、それは今生だけに限ったことではないのです。
今生でしたことは当事者たちにとっては記憶と自覚があるし、周囲も覚えていたり、物的証拠や証言から糾弾も出来るけど…そして、覚えていることからその反省の弁や償いの姿勢を周囲に見せていくことも出来るけど…
過去生のことはね。普通みんなは覚えてないから。だから、関係性に苦しめられる人もいる。
己が罪を自覚して反省した加害者にとっては、理由の解らない罪悪感として。被害者にとっては、理由の解らないマイナスな感情(相手への怒りや憎しみなど)として。
記憶としては無いし、思い出したとしても、今生のことではないので、証拠が無いのですよ。
どちらか片方、特に被害者側が覚えていたりすると、これまた不幸でもある。相手に謝罪させたり、償わせたりする権利(理由)が無いから。
「なんで、私にあんなことをしておいて、あなたは笑っているの? 幸せそうな顔をして、好きなことをして、いかにもイイヒトですって、そんなイメージを振りまいて世渡りして、のんきにしていられるの??」なんて、ドス黒い感情も出てきちゃう。
上記の記事でも書いたけど。
私にもそういう相手がいました。過去生において、8回もご縁があって、何回か殺されたり、あれやこれや色々とありましたの。けれど、お互いに乗り越えられました(すべてではないけど相手も思い出しています)。今ではとても良いご縁、関係性です。でもって、似たような関係でまた別の人に対しては、まだまだ葛藤があるんだな、これが。私みたいな職業の人間は、「怒り」を手放すことが課題で、一番乗り越えなくてはいけない問題であって、相手を赦すところまで何とか感情を昇華させていかないとなあ、と日々悶えてますけども。
そうですね。
相手がちゃんと今を誠実に生きて、周囲の人や縁や人としての大事なものを大切にして生きてくれているのならば… なんですけどね。でも、そうでないとこを見つけると腹立つのです。最初はあの人がこんな風に変われたんだなあって少し喜んで見守る気持ちもあったけど、やっぱ変わってないじゃん!相変わらずじゃん!ってなった時には、般若になるわけですよ。マジ。こいつ、やっぱ許せねぇ!みたいなね。怒りに支配されちゃう。
まあ、罪を贖うためだけ、償いのためだけに人は生きているわけではなく…人は誰しも罪深いものであり、輪廻転生の、過去から今の人生に至るまでの果てしなき旅において、罪を犯したことのないものなど、一人としていないわけで、私自身も他人に自慢できる人生をずっと生きられているわけではなく、今生でも他人を傷付けたり迷惑をかけることも多々しているわけで、己が罪深いことも自覚していますが。こちらがそう思ってなくても、その人からしたら、酷いことをされたと恨んでいたり、憎しみを抱かれていたり、激しい嫌悪の情を抱えている人もいないとは言えません。気づかないうちに犯す罪もそれなりにあるわけです。知らないうちに、無自覚なままに、誰かの人生を狂わせたことがないとは否定出来ません。
人は罪深いものです。罪を犯していない人など、何処にもいません。だから他人を責めることなど、誰にも出来ません。ですが、行動そのもの、行いについては批評・批判したり、その是非やことの善悪について、全ての人が考えるべき事柄だと思います。
今回の騒動は「呪われたオリンピック」「国民が開催を望まないオリンピック」と言うような、オリンピックの精神や存在と開催意義そのものを問うこと、それ自体を象徴するかのような問題だけども。イジメという犯罪をすることがどういうことであるのか、どのような結果をもたらすものであるのか、これまで道徳心なく他者の尊厳を踏みにじってきた人たちへの、社会からの警鐘となり、イジメという犯罪行為を抑制する出来事になればと願うばかりです。