お金とスピリチュアル(中)
占い師やヒーラー、セラピスト、チャネラー、霊能者など、スピリチュアリティな職種を生業にする人の中には、その職業を通して稼ぎ・収入を得ること、お金を頂くことに抵抗を感じるという人が結構多かったりする。
もちろん、専門職と割り切り、専門的な知識や技術提供の代金として、商売繁盛に余念のない人もいるが(それはしごく当然のことで、何ら責められたりするような悪いことではない)。
「困っている人が多いしね」
「相手の弱みにつけこんでいるみたいで・・・」
ということを口にする人は多く、人の悩みをネタにお金儲けしているんじゃないかなって罪悪感に苛まれる人も少なくなかったりする。
私も占い師をしているとき、そうした考えに悩まされたものでした。
街中の占い館にお客さんとして来る人の中には、人生が上手くいってない人も多くて、失業していたり、病気をしていたり、つまるところ生活に困っているカネコマ(どうにも2ch脳だ)な人が多かったりなんかして。こちらも仕事なので定められた代金は頂くものの、そのような方を相手にしたときは、「うーん」と思ってしまう未消化な気持ちが日々残ったりしたものだった。
この辺りの葛藤を抱えている人は少なくないだろうし、色んな人が通ってきた道でもあるだろうと思う。
同業同種の人の多くは、自分の仕事に値段を設定するのが苦手だと言う。
でも、設定したお金を頂くことは妥当であって、「無料(ただ)」というのは施し以外のナニモノでもなく、相手を貶めることでもあり、甘やかすばかりの良くない行為なのだと、随分長い年月をかけて気が付かされました、私の場合は。気づくまでに痛い勉強をすることになりましたけれども。
お金を支払うということは、第一に自分が相手から与えてもらうモノや情報や体験に対する正当な取引(双方が納得した上での)対価であるし、受け取る事柄や物品に対して、それらを金銭と引き換えに受領してするという自らの行動に責任を取るという行為でもある。また、情報であるならば頭を下げて「教えて下さい」という姿勢を表すことでもあるし、相手が自分にしてくれることに対して礼を礼として示し尽くすことでもある。自分が相手から「与えられること」を望み、願ったことであるという意思表示。
少し話は逸れるが、この手のスピリチュアルなサービスを受ける場合において、無料(無償的行為)に甘えてしまうのは、相手に問題を丸投げするってことになり、相手のカルマを背負い、引き受けますという意味にもなってしまうので、それ相応の対価と言うペナルティを貸すことは必要なことだったりします。それは次回に持ち越しますが。
で、このあたりの説明をする前に・・・
さて、西洋諸国ではドネーション制度という考えがありまして、相手が自分にしてくれたサービスに、してもらった側が価格をつけて支払うっていうものなのですが、(もしくは自分がしてもらったことと同等の対価を別の必要としている人にしてあげることで相殺する<恩送りと言われる行為) それが根付いてたりします。キリスト教徒の国に関しては。
これは階級制度というものが前提の社会ありきで、富裕層が貧困層に対して施しをするのが当前になっている文化圏によく見られる制度だったりします。ボランティアや慈善活動が文化として道徳的に根付いている国での話ですね。日本の場合は「困ったときはお互い様」と言う助け合いの考えの方が、古くから身に着いているものだと思います。
そして、スピリットの力を用いてヒーリングをするヒーラーは、もともと無料のエネルギー(氣、エーテルバイタリティー)を用いて、スピリットの代わりに、見えない存在に手伝ってもらってヒーリングという行為を慈愛で行うのだから、お金を頂くのはおかしいって…そのような考えもあるのです。
グノーシスの教義にもスピリチュアリズムの考えの中にも。
だから、お金を頂く事は、この「教え」に反することだから、他人にヒーリングやスピリットのメッセージを伝えることは、無償の行為たるボランティアとして行われるべきではないのか?? と疑問を呈する人がいたりします。
そこで、多くの人が悩むわけです。
お金を頂いて、プロとして、人の悩み相談に乗ったり、ヒーリングやセラピーを行うのは、やってはいけないことではないのか・・・?? そのように葛藤して、罪悪感を抱いたり、自分を責めたり、お金を稼ぐことに抵抗を感じてしまったり、とかとか。苦しんでしまう。
でも、実はここにお試しとしての振るい分けトラップがあったりします。
だって、それを言うなら、どんな商売も慈愛の行為として、同胞に無償のサービスをするべきで、対価を頂いて行うべきではない・・・になってしまいます。
すべてのものは、もとは無料なのだから。植物の種も魚も動物たちも、本来は無料のもの。水も太陽も酸素も、土地もそうです。
サービスや相手のためにしてあげる行為というよりも、同等の金額に相当する価値の交換行為…すなわちお金とお金の取引なわけで、商売の基本に立ち返って考えればいいのです。物々交換だった頃を思い出せばいい。
そもそもお金は何のためにあるのか? 欲しいものを、必要なものを入手するために、自分の持っているものとそれを確実に取引するためのもの。
もし、他人に対価としてのお金を払いたくなければ、すべてを自分で賄えばいいだけのこと。魚が食べたければ、自分で釣りに行けばいいし、お肉を食べたければ、自分でイノシシでも鹿でも鴨でも撃ちに行って、解体して保存して、食べればいいわけです。もしくは牛でも鳥でも飼えばいい。お米も自分で作ればいい。井戸も掘ればいい。電気も自家発電すればいい。
それが出来ないから、生きるのに必要なもの全てを自分一人で賄えないから、自分の出来ること、能力を用いて人は「奉仕」という形の労働をして、金銭に換え、自分が創りだせない必要なものと取引しているのです。
マグロを釣りに行けないから、他の人が釣ってきてくれたマグロにお金を払って、それを食べるわけです。そのマグロをそのままの状態で食べたいわけでなく、美味しいお寿司に握られたものが食べたいから、お寿司屋さんで職人さんたちが握ってくれたものを食べる。マグロの価格と調理という加工技術と時間と後片付けまで含むすべての手間賃、そしてその場所で食べさせて頂くという席料などなど加算されての食事代。そのようなことに人はお金を払うことの価値を見出しているわけです。
365日、畑で野菜やお米を育てたり、牧畜したり、パンを焼いたり、食品を加工してくれたりって、そういうのにお金を払うわけです。自分が出来ないこと、しないことを人がやってくれたことに、「お金」を払うことをしているわけです。
自分がすればほぼタダになること、だけど。
思うに、それが相場として妥当であるかどうか、でしょうね。法外でなければ、といいますか、提供する内容(サービス)や商品が金額に見合っているか否か、が全てではないかと。
サービスと金額に価値を見出す人がいて、
受け取る側が満足出来ていれば、相応かと思うのです。
で…確かに、経済的基盤がしっかりあって、生活に余裕があり、精神的にもゆとりがあって、他人のために使える時間がたっぷりある人ならば、
自分がしたことに感謝もしない人に対して腹も立てず、いきなり夜中訪ねてくるような人でもにっこりと笑って根気よく対応できるほどの懐広い人であるならば…無料で他人の相談に乗ったり、ヒーリングをしたり、霊的な仕事をすることも出来るでしょう。
そういう人なら、「無償」で施しをしても、
その行為が自分への虐待や差別になることはないから。
お金を頂く事って、ある意味、自分を守るためのもの。ある種の人たちから自分を保護するボーダーラインにもなります。自分が提供するサービスや商品を買って頂くお客様を選ぶ基準にもなるんですよね。つまり自分とこの商品を渡す相手をこっちでも選びたいって、意思表示でもあります。
誰にでもってわけじゃない、中には自分とこのモノを買って欲しくない相手もいる。自分のとこで提供するサービスや商品に、この金額の価値を見出してくれない人には売りたくないって、振り分けているというのでしょうか。
お客さんの生活水準うんぬんを秤にかけるというより、他人が自分のためにしてくれることに対してその金額と同等の「ありがたみ」「感謝」を人に与えることの出来る人かどうか。そこを見たいというか、秤にかけるとこも大きいかと。
価格で明確に振り分けることができるものではないけれど、それが一定のボーダーになっているのは一面の事実のような気もします。現実において、対価を払わず、タダで他人に何かをしてもらおう・・・と考える人たちは、確かにモンスターさんたちが多いのは否めませんので。
本当に生活が苦しくて、無料の恩恵に預かるべき人は、たいてい遠慮しいで、何とかしてお金を払おうとするものですし。
そうですね。お金を払わないで得をしよう、という人たちがいるのは事実です。クレクレというか、なんというか、厚かましい人たち、悲しいことに一定数はいますから。
そして、話戻りまして、先のドネーション制度。
キリスト教圏では根付いていて、しっかり機能しているのですが、日本ではダメなの。まったく機能しないの。たいてい、五円玉とか10円とか、100円とかお賽銭の感覚で小銭投げて終わりな人が多い。裕福な人でも。自分で金額決めろって言われたとき、やれ、払わずに済むとばかり、小銭入れる人もいたりするのです。
してもらったことを金額に換算して支払うことの出来ない人が、実に多いんですよ、わりと日本人に。払えない生活をしてなくても。
日本人は誠実だと、海外の人はそう言ってくれるけど、Non-non!
決してそんなことない。
もちろん、ちゃんと支払おうとする人もいますよ。(うちでもたまに、所定の金額以上の料金を支払おうとして下さる人いたりします)
なんていうのかな、価格が決まっていれば払うことはするけれど、価格を自分で決めて下さいって言われたとき、高いものをなるべく安く、お金を出さないで済むなら払わずにゲットして「得」したって、そうした満足感に浸りたい人も一部いたりするですの。
(高いものにありがたみを感じて、高価なものを買える自分に
酔うような面もあるし、見栄っ張りな意識から、
高級品を入手し、それを利用する自分スゴイでしょって、
ステイタスほこりーので、それやりたいがための人もいますが)
中国の人はそうした人が顕著だけれども、日本人にもいます。そういうところをモロに人前で見せないだけで、見えないところでは出し渋るわ、出し惜しみするわ、結構シビアなものです。
値切りが悪いってわけではないです。何ていうか気持ちの良い値切りとそうでない値切りがあるといいましょうか。嫌らしいというか、卑しいやり方をする人もたまにいるわけです。きっぷのいい、気前のいい人もいると同時に。
(出し惜しみする人、安く済むなら・・・って考えがちな人は、結局、それだけの価値のものしか出会えず、それ相応の人生しか生きられてない人だったりしますが)
お金に関してはそういう一面が出やすいですよね。お金が絡む事柄というのは、その人の本質を一番垣間見せてくれる事象でもあります。
なんとなく日本人は、たぶんモノの価値を決めるのが苦手な人が多いのではないかなって気がします。それは自己評価の低さに通じるもので、他人が自分にしてくれたことに対しても、その「感謝」の気持ちを対価として表すことに慣れてないというか、上手くない人が多いのです。
お礼やお返し、ご祝儀や見舞金、土産等の文化があるわりには、現代ではその風習は既にそれは互いの負担となってしまっていて、本当に相手が喜ぶものを返礼出来ないイヤげものを選択しがちな人が多いことからも、その辺りは容易に推察できますよね(オカンアートをもらってしまった日には色々と悩むことになりますし)。
だから、日本では、しっかりとサービスに対する金額(対価)は決めておいたほうがいいのです。なあなあにしては決していけない部分でもあります。お金の問題は。人間関係でお金の貸し借りはもってのほかという理由とそれは同等の意味で。
価格設定は、互いの人間関係の境界線をきっかりと引いて、自分が与えたいと(仕事で相手にしたいと)思う人をある程度決める、マーケティングの一環にもなりますし。そして、それは自らの価値を決めることにも通じます。
安くて誰でも気軽に利用できるっていうモノを提供しようというのと、ボランティアでわけ隔てなくサービスを提供するということは、与える行為の本質や動機も違うものだし、そのことで生じる結果も全く違ってきます。後者は下僕になるのと同じくらいの覚悟が必要になるもの。
無償で、無料で相手がしてくれることに感謝できる人って、本当に少なくて・・・むしろ、タダなものだからって、してもらったことや与えてもらったモノを大事にせず、いつ捨ててもいいようなものとして、ぞんざいに扱い、アドバイスにしても軽視する人のほうが圧倒的なので。
でもって、日本でスピリチュアルなことをするのに、
お金という対価が必要であるって理由については次回の講釈にて。
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