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含笑入地 / 会者定離~幽明境を異にす
【含笑入地】
~朝(あした)に道を聞かば夕べに死ぬとも可なり~
ネットでのまた聞きの話になるが、看護師を数年している人曰く、ある日、ふと気づいたのだそう。入院患者が、好きなもの、食べたいと言っていたものを食べると、その直後に息を引き取るケースが多いということに。
最後の最後、食べたいものを口にすることが出来て、まるでこの世の願いが叶ったと言わんばかりに「もう思い残すことはない」と、満足してこと切れるのか…
それは病故に、住み慣れた自宅を離れ、病院という仮住まいの居にて、行動を制限され食べるものをも選ぶことが出来ないという、不自由さと選択肢のない生活の中。最後に叶えられる望みだったからなのか…その望みを叶えられたことで生への執着が消え、肉体を離れる心積もりが出来たからなのか…
その理由はわからない。
ただ、この仕事をしている中で時おり、"肉体を亡くした存在"と接する機会があるのだが、彼らはいちように、「〇〇が食べたい」「タバコが吸いたい」「酒が飲みたい」と肉体の感覚に根差した欲求を口にするのだ。
それは時におふくろの味であり、故郷の味であり、大好きなものであり、叶えられなかった生前の最後の欲求でもある。
けれど彼らには既に肉体がない。その欲求を満たそうにも、味わうための物理的な身体がないのだ。
たまに私はそんな人たちに肉体を貸す。時に意識的に…そして無意識的に。
霊媒体質であるが故のボランティアのようなもの。私の身体はときに船のように彼らの乗り物となり、願いを叶えるものとなる。
南方戦線にて散った、大日本帝国の軍人さん。
「白いお米のメシが食べたい」
「水が飲みたい」
「おふくろの握ってくれた、おむすびが食べたい」
どんなにか飢えていたことだろう。
白いご飯が食べたいと涙ながらに訴える。
梅干しも入っていない、現代のように贅沢な具沢山でもない、ただの塩結びを、海苔だけのおにぎりを美味しい美味しいといって満足する。
バブルの時代に、損失の責任で自殺した男性。「最後に一服したかった」と宣う。長く禁煙していた身体ではあるが、一箱あけたならば満足した模様。買ったのは私の吸っことのない銘柄。
「塩バターケーキが食べたい」と訴えてきた人もいた。
残念ながら、その人が求めるバターケーキを捜すこと能わず。コンビニのスイーツ含めて似たようなものいく種類か、色々と一か月食べまくって、ようやくそれであきらめてくれた。
数年も前のことであるが最近になってようやく、その人が求めていたお菓子がクランベットらしいということに気づいた(既に肉体を亡くした存在との対話は言葉や声でなくイメージの流入であるから)。
当時知っていれば探せたのにと後悔せずにはいられない。
その他にも色々と。一番困るのが私が嫌いなもの、食べれないものもリクされること。アレルギーばかりはどうにもならないの。ごめんね~
でもまあ…こうして書くと、いささか美談的な話になってもしまうが。
実際のところ、人間というのは、煩悩…肉体的欲求につくづく抗えないものであると、そういう見方をすることも出来る。
でもまた同時に、食べる、ということは生きようとする意志ではあるが、その食べ物、味覚の刺激の裏の向こうに、それにまつわる想い出や記憶が染みついているもので、人はそれを「食べ物」「嗜好品」によって、追体験というか再現しようとしているのかも知れない。
ワインを味わうことが、そのワインの醸造された時代を味わうことであるがごとく…好きな食べ物を味わうことで、この人生の一番楽しかった時間を懐かしみ、この生は満たされていたのだという想いと共に、その味とともに良き日々を味わいながら、その「想い」を手土産にして、人は旅立っていくものなのかも知れない。
さて私は最後の最後に 何を食べたいと望むのだろう。
どんな想い出を手土産にして旅立つのだろう。
やっぱ最後の晩餐はお寿司と焼き鳥と茶碗蒸しとジャガイモ料理かなっっ
【会者定離~幽明境を異にす】
会うは別れの始めなり。
別れの来ない出会いはない。人は死に向かって生きており、共に人生を生き、同じ道のりを生きていたとしても、やがて「死」が互いの居場所を引き離す。出会ったときから、別れは常に付きまとう。
いつか必ず別れの時は訪れる。どんな風に「別れる」か…互いの関係性をどんなふうに締めくくるのか、出会いと別れまでの物語をどのように飾るのか、心の中の、思い出という置き場所にどのようにしまい、どう位置づけるのか…それだけ。
どんなに大好きな相手とも、大嫌いな相手とも、憎くてたまらない恨めしい相手とも、憧れの人であっても、さみしいかな、「会わない」「会えない」という選択以外に、「死」が確実に互いの居場所を分かつのである。
別れの日は誰にでも公平に訪れる。
和解は生きている間でこそ。
「あの世」での再会なんて幻でしかない。死んでしまえば、その人生での出来事も、お互いのことも、何もかも忘れてしまうので。
だから、生きている間に、仲良くできる人とは仲良くしていたほうがいい。
二度と会えなくなってしまう前に。できるだけ会いたい人とは会っておいたほうがいい。
「別れ」の日は、望もうが望むまいが、思いがけずあっという間に訪れてしまうのだから。
下手なプライドに振り回されて、意地を張って、強情でいる間に、相手はこの世から去ってしまうのだから。
すべてを失って後悔した後には何もかもが手遅れなのだから。
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