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魂のデトックス~肉体の痛みとケガレとカルマ

通常、カルマのレッスン(及び創造したエレメンタルの顕現)と言うのは出来事(災難や病気含む)と言う物質的事象や、自分の写し鏡(エレメンタルの人象化)でもある配役たる他者の存在を通して、学びの機会を与えられる人生のドリルではあるのですが…

だからまあ、それは人生そのもので遭遇すること総ての出来事が「学び」であり「カルマのレッスンとの対峙」になるので、起こることは人生全体を通してになるので、とてもゆっくりであると…そのように考えてもいいわけです。
人によっては一度に様々なことが起こる人もいるわけですので、ケースバイケースで個々により差異があるので、一概には言えないと言うか、決めつけることは出来ないのですが。

例えばそうですね…霊的なエクササイズ、この場合は宗教的かつ秘教的な教義などの精神的な修行になりますけれど、そのようなものを始めると、まずほとんどのそのような修行(精神的な鍛練)が、自らの業や邪な欲望と向き合うことからスタートさせられるわけです。(西洋魔術とかはちょっと毛色が違いますが)

執着や煩悩を断ち切ったり、悔い改めをしたり、禊をして宿業を乗り越えることをしたり、魂の罪ケガレを落とすことなど、エゴイズムをそぎ落とすことからと言う行為。
ヨガも仏教もキリスト教も仙道も道教も、方法と方向性の違いはあれど、その辺りは変わりません。

ひたすら肉体と魂を浄化する…自分の中の邪心や魔、罪、欲望と言ったものをただひたすら手放す、断ち切る、洗い流す。集中して集中して、とにかく過去の自分を捨て去って、新しくと言うか再度無垢な自分に生まれ変わるごとくに。

普通に人生を生きていたならば、受け身で待つ状態で起こるに任せていることを、積極(能動)的に自分から、その波に飛び込んでいくことをしているわけですね。

100年かかって起きることを数か月いやさ数年、あるいは何百年と掛かって取り組むべき課題を数年で取り組むみたいな、そんな感じです。

過去生ヒーリングに取り組むこともそれに似ています。
いやさ、ある側面では精神修養と同様の意味を持つことになっていたりするんですね。

一般的な過去生ヒーリング(前世療法)は、単純に今の人生において苦悩の原因となっていること、今の人生を生きるに当たって悪い影響を与えていたり、障害となっている考えや想い癖、トラウマやPTSD的な感情のありか(潜在意識の底に沈んだ刷り込み)を探し、解放すると言う、「癒し」とも言えるセラピー行為なんですけれども。

チャクラのお掃除とか、過去生ヒーリング(解放ワーク)を極めていくと、それ自体とどのつまりが体内に貯めこまれたケガレの浄化に他ならず、罪や咎など、あらゆるカルマの解放と浄化に繋がっていきます。これはやり方にもよるんですけども。はい。

ただ、過去にこんなことがありましたって言う情報を知ることだけではそうはならないのですが…まず内省ありきで、そこから教訓と気づきが得られることが条件になってきます。本人(クライアントさん)が己が過去生と対峙して、大きな気づきを得られるか否か…に掛かっていまして、その気づきを通して得るもの、人としての意識の変化や学びを得られさえすれば、心が何かを知ることが出来たならば、それは霊的な修行を通して得たことと同じくらいの意味を持ちますし、その種のエクササイズの禊を通して、自らの魂からケガレを取り除いたこととまったく同じ状態でもあるのです。

とは言うものの、そこから得た「気づき」からの学びを里の修行場(日常生活)にきちんと行動して実践してみないことには…と言うお約束がありますが。

なので、過去生ヒーリング(前世療法)を受けること=ケガレ・カルマやエゴイズムの克服に必ずしもなるというわけではありません。ヒーリングの質と言うか、受け方やその内容にもよるということをお忘れなく。

※過去に自分がどこの誰だったか、何をしていたのかってだけを知って満足するだけのセッションである場合は、単なる情報を得る行為にしか過ぎませんから。

で…
霊的かつ秘教的な修行なんかでは、それを勧めていく過程において、肉体の何処かに痛みが出る…ということがよくあります。この辺りはヨガの教義で良く説明されていたりしますけども。溜まっていたカルマが噴出するとか、ケガレが出てくると言うような表現をしますよね。

そして、過去生ヒーリング(うちではチャクラヒーリングのセッションにおいての解放ワーク)で、クライアントさんにそのようなことが多々起こったりします。

確かにサイキカル体が発達していたり、霊的に敏感な人は他者の攻撃的な感情や想念からのダメージを受けた時に、特定の箇所に痛みとして出てしまうことがあったりするのですが。そのようなダメージだけでは無く、その人自身のカルマの噴出、ケガレが出ている現象で、肉体の痛みが出ることもあったりします。なので、そのどちらであるか、見分ける必要があります。

ただ、ここでは現代医学を無視してはいけません。まず、そのような疾患や影響も考慮して、検査を勧めることも忘れずに。その可能性も排除してはいけないということです。そこも考えながら、それ以外の非科学的な原因も見てみるというのが肝心でしょうか。

現代医学の見立てで特に異常がないのに、肉体に痛みが出てしまっている場合は、サイキカルアタックやアサルトなのか…もしくはカルマの噴出なのか否か…その双方の可能性を疑って、どちらかであるか精査しないといけません。

ただ、サイキカルアタックやアサルトなど霊的な作用からの影響では無かった場合、カルマが「経験すべき出来事」では無く、肉体の痛みとして顕現した理由を見逃してはなりません。そこにしっかり着目すべきなんですね。

例えば、過去生でその部分にダメージを負っているとか(怪我や死に至るような傷を負わされたとか、病気によるダメージか否か)、その箇所に溜まっているエレメンタル=過去生のパーソナリティとその時に想い残した感情など、誰か特定の他者や土地と結びついたものであるのか否か等など。
色々なものが深く、根っこを生やしてたくさん溜まっているかもしれませんから、慎重に少しずつ抜いていくことをしないといけません。すべてのチャクラ(エーテルセンター)は関連し合っていますし、7つの箇所に分類されていますから、一度では取り切れないのが実状です。

ですので、一度チャクラヒーリングで過去生を掘り起こすと集中的に次々と「これでもか!」って、色々と絶え間なく、しかも用意周到に…まるで図られたかのように、芋ずる式にあとからあとから出てきて、何処で止まるか解らないってくらい、様々なカルマが出てきたり、肉体のあちこちの痛みを経験する人がいます(ずっと同じ場所が痛んでいたり、患い続けることになる人も)。

セッションを受けに来た、総ての人がと言うわけでは無いのですが、うちにいらっしゃる三分の一位の人が、この修行的な禊的カルマ落しのような状態になったりします。

いやさ、本人は無意識なんですけれども、たぶん魂の奥底でそれを望んだからこそ…なんですね。
今生ではそのことを意図してでのセレクトでは無いにせよ、自らに起きている非日常的な現象の解決を図ったことで、結果的にカルマの手放しと魂のミソギ、浄化など魂の望みを叶えることとなり、副次的にその他のことも解決に向かっているという事ならば、すべては結果オーライ…というところでしょうか。

山に籠って世俗離れて、写経・写仏して読経をする生活とか、滝に打たれたり山駆けをしたり火渡りや断食をするとかひたすら坐禅を組んで空を求めるとか、カルマヨガやクンダリーニヨガをやりまくるとかとか…そのような方法で体内に貯めこまれたケガレを落とし、過去の宿業と向き合ったり、エゴイズムを失くすための鍛錬をするのでは無く…な方法をたまたまセレクトしている…そんな感じですし。

まあ、でも色々な方法がありますので、好きな方法、自分に合う方法があるってことです。ただ、うちみたいなサロンに通って、専門家のサポートを借りるのはお金と時間が掛かる方法になりますので、人生で起きることに任せる方が自然で無料で済む方法ということにはなりますでしょうか。
普通の人…誰しもがその過程を皆、踏んでいるわけですし。

起きるに任せるのも大事なことだと思います。

そこは何に価値を置くかどうかですよね。
精神的な成長すなわち霊的な進化と成長、過去生を信じた上で自らの罪ケガレを一日も早く手放したいと思うか否か…

ちなみに肉体の痛みや病気としてカルマの噴出が出る場合ですが、霊的修養に取り組む過程において出てくるものと、人生の起きるに任せる状態で怪我や病気、障害(不自由や損傷部位)を抱えることになるなどなどと言うのでは、ちょっと出方や意味合いが異なってくるものです。後者は生まれつきのものか後からのものかでも異なりますが。

この辺りは誤解を招きやすい部分でもありますので、文章にはせず、口頭で質問あれば回答させて頂きますね。セッションやレッスンの折に…



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The Sacred Journey ~スピリチュアル・セラピーの現場から
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