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憂患に生き安楽に死す

どちらかというと、
タイトルは『喉元過ぎれば熱さを忘れる』のほうが、
周知で判りやすいというか、適切だったかもと思いつつ。

ちなみに喉元・・・の意味。

コトバンクより《苦しい経験も、過ぎ去ってしまえばその苦しさを忘れてしまう。また、苦しいときに助けてもらっても、楽になってしまえばその恩義を忘れてしまう。》

さて、 人は衣食住満ち足りて、 充足感を味わえているときには、"金持ちケンカせず"ではないけど、ほとんどの人が"いい人"でいることができる。

環境的に満たされていて、 不平不満のない状態であるならば、対外的に優しく温厚で、にこやかな人でいることは、誰もがさほど困難のないことなのだとは、人の言う。

けれど、 そうした温室のような整った環境というのは、時として人を堕落させるし、 それ以上の成長を止めてもしまう。

(停滞してしまうし弱体化もするし>無菌室)
生物学的にも "種"としての私たちが進化しつづけるために、多少のストレスや緊張(プレッシャー)が 必要であるのと同様に、(筋肉も多少の負荷を与えないと鍛えることはできない)

人が精神的成長と霊的に進化していくためには、イレギュラーな人生や種々様々に変化していく環境は必要不可欠で、ファイティングスピリットをかき立てられるような体験や、挫折して壁にぶち当たって閉塞感を覚え、 自らの限界を知ったり、心を揺さぶられるような感動を味わったり、身を切られるような哀しみや慟哭や嗚咽、 孤独を味わったりと、喜怒哀楽のすべてを知り尽くすことが 求められていたりする。

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とどのつまりが、
我々人間がこの世に生まれた 究極の意味と目的を言うならば、どんな環境、どんな状況に直面しても、動じず、決してそれらに左右されることなく、それでいてすべてに柔軟に対応できる、誰でもない自分自身で在ること・・・を保てることこそをば、 そこがゴールであり輪廻の終着駅。

そこに行き着くことが『悟り』であり解脱の道であり、神体たる直霊(なおひ)を獲得し、分離の世界からワンネスに戻るということになる。

とはいうものの、
地獄絵図のような劣悪な環境に生まれ、衣食住すべてが不足していて、健康や保護的存在なども欠損していて、優しさも温かさも微塵もなく、心がささくれ立つような状況にあって、仏のような慈愛と慈悲の心を育んだり、あるいは、そのような精神や心の充足感を保つのは限りなく難しい。

ともあれ、 上記のようなケースは極端であるけれど、事実、人というものは、恵まれた環境で乳母日傘で 大事にされているときよりも、壁にぶち当たり、挫折を味わったり、プライドや自信を心を粉々に砕かれたり、嫉妬やコンプレックスに苦しみ、失恋を味わい、哀しみや苦しみの涙に暮れているときのほうが、何がいけないのかと自分自身を振り返ることもするし、周囲を見渡して、他者と自分を比較するなど、良くも悪くも原因を追究したりする。

物事がすべて順調で、上手く行っていると思っているときには、人は、自分にも自分のやり方にも、人生にも疑問を持たないものだ。

だから、壁にぶつかったとき・・・ 艱難辛苦のときというのは、成長の過程であり、 同時にチャンスであるとも言えるし、変わることを求められている時期であったりする。

逆を言えば、変わろうとしないから・・・ 『変化』に抗うから、余計どつぼにはまって、八方塞になってしまう。

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物事が上手くいかないのには・・・ 障害があるのには理由がある。
そして、人生にはムダはなく、 起きていることすべてに意味がある。

苦しかったり、辛かったりするのは、 心の成長痛のようなものだ。

誰だってしんどいのはイヤだし、 不快な経験もしたくないもの。けれど、その経験をどう感じるか・・・ どう受け止めるのかは、すべてその人の心が決めていること。

心が痛くて、避けたいと思う、 憂鬱な経験として感じるのか、チャレンジ精神や負けん気が 湧き上がる経験として捉えるのか、ネガティブに捉えるのもポジティブに捉えるのも、 心の反応次第。

・・・なんだけど。

人は、快楽であるか不快であるか、甘きか、痛みか、の いずれかで物事を判断するもので、なかなか苦労を買ってでもしようという人は少ないもの。

目の前の大きな壁を見ることで奮起して、チャレンジすることの悦びを感じられる人は多くない。たいていの人が騒いだり、落ち込んだり、嘆いたり、
「なぜこんなことが自分に起こるのか?」って、天を恨んだり、運命を呪ったり、 誰か他人のせいにしたり・・・。

そして、そこから・・・ 苦しみのある場所から、いかにして逃げ出すかって、 どうすれば抜け出せるのか、起きている出来事の意味を考えたり、自分が気づくべきことや自らの行動を振り返ったりするより先に、楽になるための安易な道を本能的に探すことをする。

それを悪いこととは言わないけれど、
それが悪いわけではないけれど・・・・・・

何故って、人は弱いものだから。

しかし弱くもあり、強いものでもあったりする。

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てなわけで、 逆境っていうのは、その人に何かを教えている。

その人を鍛えるための何か「学び」があったり、気づかなければいけないことがあったり…など。挫折したり、不幸の中に、 人は様々なことを苦悩し、様々なことを思考する。

物事が上手く行かないとき、
失敗したとき、スランプに陥ったときetc

こういうときでないと、
なかなか他人の立場や気持ちを自分と鑑みて、他者のことを知ったり、推し量ったり、相手に対する思いやりを育むことなど、「心」を成長させる機会ってないから。(恋愛という人間関係もそういう意味で貴重な学び)

だけど、その時には・・・
自分がしんどい時には、わかった風でも、人っていうのは、ひとたび『楽』になってしまうと、苦しかったり辛かったり惨めだったりしたときに、反省したり、「ああそうだ」って 心からそう思ったことも忘れてしまう。

後悔して嗚咽するかのごとく慟哭して涙しても、
鳴いたカラスはすぐ笑うかのごとく、
辛い体験から得たことも涙とともに流してしまいがち。

まるで二日酔いの翌日に、「もう酒やめたー」と言いつつ、治ってしまえば泥酔してしまうように。都合の悪いことはすぐ忘れてしまうのが、それもまた人間の得意技。

人っていうのは、何度痛い目にあっても、
懲りないというか何も学ばない生き物というか・・・。

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さて私事だけれども、 この仕事をして、
過去に『失敗したなあ』ということが多々ある。

その失敗したパターンのひとつとして、その人(クライアント)のしんどさ、辛い状況というのは、ある考えの偏りや性格の問題を矯正するためだったり、他者の痛みが判る人になるためだったり、あるいは また強すぎる自惚れを抑制するためだったりとか、何かしらカルマの意図が働いていて、必要で起きていることだったのに、肝心のそこを見逃していたというか、目先の重荷を取り除くこと、精神的に楽になる道を追求してしまい、運命の意図と学びを無視して、 甘やかしてしまって、言うべきことをきちんと言ってあげなかったばかりか、必要なものとして置かれている重石を、軽率な自己判断でとってしまうかのような、早まったことをしたことが。

つまり、時期を誤ったというもの。

まだまだ悩んで、苦しんで、その中でその人は気づくべき答えを見つけなければならなかったのに。

案の定、 その経験をして直されるべきだった、考えの根、 性格の問題は改善されず。

その人の肥大した自我が、矯正される機会が次に訪れるのは、はるか後のことであろう。

そして後回しになってしまったことで、その時に味わう苦しみは先のものよりさらに深くなる。だから、 その人のことを思えばこそ、希望も救いも必要だけれども、 時に鬼になるべきときもある。

必要があって、その人に起きていることに、誰も関与できないのだから。

どんなものであっても、 例え神であったとしても、
必要で起きていることを、 勝手に解決することは出来ないのだ。

すべては必然で、 何一つ意味のないことはないのだから。

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話変わって。

また人は、 どんどん我がままになっていくものでもあったりする。

とても就業環境の悪い職場から・・・例えば残業代もつかない、 給料も安くて有給ももらえない、セクハラパワハラ当たり前の、ブラック企業のようなところで働いていて、次に転職したところが、 それよりかはずっとマシな職場で、残業や休日出勤は多いけど手当てはついて給料は良くて、仕事の出来ない上司や感じの悪いお局はいても、別段イジメのターゲットにされるわけでもない環境で、以前の職場と比較すると、 随分と楽な職場に出合えたとしても・・・

最初こそ、前職場と比較して 良い部分に目を向けることが出来るものの、
徐々に、あそこがイヤだ、あの人がイヤだ、もう少しこうだったら・・・など、気に入らない点とか不快なところを見つけ出して憂鬱になり、その職場のマイナスな面に不平不満を抱き、あれこれと文句が増え、ネガティブな方向へと意識をどんどん向けてしまったりする。

そういう人は次に転職しても、 何処に行っても大体同じだ。

必ずといっていいほど、何か不満のタネを見つけ出すことをする。
もっと酷い環境を知っていたとしても。そこと比較したときに、 どれほど働きやすく、条件のいい仕事であっても。

そりように、どんどん貪欲にエスカレートしていく要求、贅沢にならされていくと「感謝を忘れてしまう」感覚は、何も仕事やパートナーに対する条件に限ったことではない。

政治とか行政とか、国家に対する要求も同じだ。

例えば、
戦争とか殺し合い、 無秩序と犯罪の反乱などの混乱とか、外からの恐怖、物資の欠乏、どん底の貧乏、飢えなど、生きるか死ぬか、といったギリギリのところにいる人は、今日をどう生き伸びるかということしかなく、それ以外のことでは悩んでいるヒマがない。

生か死か、それがすべてだし、最大のプライオリティーなので。

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だけど、ひとたび「生か死か」という状況から逃れ、生活に余裕が出てくると、 どうでもいいことが気になりだして、あれやこれやと気に入らないこととか、自分のカンに触ること、他人のアラ探しをしたり文句をつけだしたりするなど、余計な神経を働かせ、 何かしら悩みごとのタネを見つけ出す。

空から爆弾が降ってきて、 火の海を逃げ回ったり、空腹であっても、 食べるものが何処にもない状況を考えれば、そんなことどうでもいいことなのに。

誰がイジワルで自分に優しくないとか、 口を聴いてくれないとか、言葉遣いが悪いとか、 服装がだらしないとか、臭いがきついとか・・・そんなのは、 いきなり他国が攻めてきたり、大地震や津波に呑まれて すべてを失ってしまうことに比べれば、そんなことはまったく対したことではないのに。

明日自分が嫌いなその人は死んでしまうかも知れないし 、この地球に隕石が落ちてくるかも知れないし、原爆がどこぞの国から落とされるかも知れないし、いきなり日本が独裁国家になって戒厳令しかれて、スターリン政権下みたいに 自由がなくなってしまうことを考えれば・・・。

そんなのはきっと対したことではないのに。

けれども、人はどんどん贅沢になる。あれも欲しい、これも欲しいと欲望は尽きず、何を得ても、欲しいものを手に入れても、満足しない。

人の欲望は深く、果てが無い。
まったくもって尽きることを知らないのだ。

足ることを知り、 満ちることを知れば、充足できるのに。足りないことを知った後で与えられても、 それに満足する人は少ない。そして苦労をし、哀しみや苦悩を知った後でも、喜びを知らず、すべてを忘却のかなたへと押しやり、そしてお金では買うことのできない 経験という名の宝の価値を、見出すこともなく、 経験を智慧に変えることをせず、同じ場所に片足を残して、ぐるぐると回り続けている。

歴史は繰り返す。

人の歴史も世界の歴史も、過去から学べるようになるのはいつのことだろう

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