鹿を逐う者は山を見ず
「・・・ねぇ
黒いサラブレッドなんて
いないって知ってる?
白いサラブレッドも
私たちがそう見えると思っているだけなの
彼らの毛は実際には
明るい色と暗い色が混じりあっている
黒も白も錯覚なの
多くの人は
自分が正しいと思っていることをするけれど
みんなが間違っているように見えることもある
誰が正しいのか間違っているのか
・・・・・・私にはわからないわ
だって白も黒もないのよ
結局 私にわかったのは
すべて愛のためだったということだけ
あの夜、
あなたのお兄さんは
家族の愛ゆえに厩舎に行った
でもあの馬への愛ゆえに引き返した
ひとりの父親も娘への愛ゆえに
厩舎に行き、あなたと娘をひき会わせた
オットーは
私たち家族への愛ゆえに真実を隠した
・・・そしてダニーは
息子への愛ゆえにこのケンタッキーに戻り
あなたへの愛ゆえに真実を語った
あなたが絶望的なまでに知りたがっていた真実を」
by『あの夜をさがして』ダーリーン・スカレーラ
誰もが、自分が「正しい」と思ったことをする。
それ自体は間違いではない。
人は何事も自分自身を頼りにすべきだからだ。
人が何かを判断するとき、行動するとき・・・
その人なりの理由があって、それを顕すことになる。
その表現方法を選んだ行動理由とは、信念だったり、観念だったり、直感だったり・・・経験から来る比較だったり。あるいは環境や誰かから植え付けられた、刷り込み的な価値観かも知れない。
衝動的な感情に任せるでなく、理性的に、よくよく熟考したと思えることでも、後から振り返ってみると、浅はかで思慮のない行動であったと、そう後悔することが度々あるのが、人生というものだ。
そうせざるを得なくて、することもたくさんある。
いずれにしたって、それに従って、どのような結果を自らにもたらすことになるのか・・・痛みを感じるのか、充足感を得られるのか、こればかりは経験をしてみないことには、その先はわからない。
言えていることは、どんなことも、絶対的な正解はないということだけだ。
答えは、何もひとつしか存在しないのではなく、人がいれば人の数だけ「答え」は存在するし、そして無限の数ほど、動機の数と同じだけ、「答え」は複数存在している。
誰もが、たった一つの正解、
間違えの無い正しい道を探していたりするけれど…
そんなものは存在しない、ともいえるし、正しいことも間違っていることも、どちらもが正解とも言える。たくさんある選択肢のうちの、ひとつでしかなく。
大事なのは、正しいか正しくないか、ではなく、
どの道を選ぶことが、自分に後悔がないか、なんだろう。
さて、自分が「正しいことをしている」と思い込んで、
はなから疑いをもたない人ほど、厄介なものはない。
自らは正義であると、それを行っているのだと、そのような大義名分をまとったものは、概しておのが信念に盲目的になり、行過ぎた考えを振り返る「良心」や「疑念」という名のブレーキを持たずして、 我等こそが社会や他人を裁定し、制裁を下す権利のある執政者や創造主か何かと勘違いして暴走しがちだ。
1995年3月19日。
その日私は、アロマトリートメントの講習会に参加するため、八丁堀から日比谷線に乗り換え、東横線直通の電車に乗った。
丸一日の講習を終え、食事を済ませて帰る時間は遅く、休日だったため、空いていた帰りの電車でうとうとしていたのだが、何故かふと「霞が関」で目が覚めてしまった。
その時、目にした「霞が関」という文字が今でも目に焼きついている。
八丁堀にはまだ数駅あったので、再び目を瞑ってしまった。
翌日朝に流れたニュース、あの痛ましい光景は一生忘れないだろう。
神戸の地震ももちろんだけれど。
占い師をしていた職業柄、同業者で怪しい魔術団体に参加している人や、
なかには宗教に属している人もいるのは知っていた。私自身、新興宗教アレルギーではあったものの、無理に押し付けてくるわけでなければ、そういう人を避けたり、批判することもないと思った。
ただ、信仰に忠実なあまり、協調性がないな、と思われるようなときには
まー不快感は丸出しにしていた。
で、私の場合、なぜか最初から、カレラに対してはアレルギー反応がめちゃくちゃ出てしまって、批判精神がムクムクと・・・それがどうしてかは理由はとにかく分からないけれど、本能的に毛嫌いしていたのです。
なんか、理由無き拒絶反応?で。
当時、カレラ・・・は、メジャーなオカルト雑誌にも広告をたくさん出していて、ニューエイジの分野にも、彼らの信者さんたちはそれなりにいたので、信者という人をまったく知らないではなかった。
実際、私の知っている女性占い師で、信者と付き合っている人もいた。彼女は、そのカレを私に会わせたがったり、カレラに対して批判的な私を説得しようとしてかしないでか、電話口で無理やり話をさせるものの、教条的なその言い方に私は強烈な反発心を覚えてしまい、案の定、ひどいケンカになってしまったものだった。
事件の犯人が彼らでは?と、騒ぎになり始めてからだろうか・・・当時の知人に、新興宗教を研究しているW大の人間がいて、研究目的と称して、ありとあらゆる宗教に潜入していたから、(後で名簿に名があったことで警察が事情聴取に来たらしい)もしかして?と思ったら、案の定。まあ、彼は洗脳されてはいなかったけれど、彼もカレラがまさかそんなことをするわけないでしょう、などと、カレラには同情的で疑いもしていなかった。
その時に、彼に届いた、たくさん勧誘のお手紙・・・露出度の高いベリーダンス衣装のようなものを身にまとって、くねくねとセクシーポーズを取っている女性の写真やら、これって見合い写真ですか?な、まるでアイドルのブロマイドのような女性の写真。可愛らしい便箋にたどたどしいマンガ文字で書かれた、甘いラブレターのような誘い文句。
「○○さんにお会いできなくて寂しいわぁ」
「私があなたの担当です」みたいなことが書いてあったような??
そういうモノをたくさん見せてもらったのでした。(ある意味、貴重な体験)
一言で言うなら、これじゃ、水商売の営業ぢゃん!!
(でも銀座のおねーさんやキャバクラ嬢のメールのほうが、もうちょっとマシだと思うよ。顔もボディも負けてるし)
なんかねー女性に対してはどうだか分かりませんが、男のスケベ心にアピールする宗教って、どうよ??「こんなものもらっても、カレラがおかしいってこと、まだ気づかないのか?!」(そんな猜疑心の薄い人が研究家は無理がありすぎでは?簡単に洗脳されやすいしつーか、カモがネギしょって・・・でしょ)
まあ、とにかく、カレラの宗教的教義や理屈、勧誘の仕方は私にでもわかるくらい、明らかにおかしかったンですよ。うさんくさい私でさえ、 「こいつら、やっぱりうさんくせぇ」と思う程度には。
ちょっと前に、たまたま、近頃では事件が遠い過去のものになってしまって、カレラが起こした事件のことを良く知らない若い世代が、たくさん入信しているのだと、そういうようなことをニュースで見る機会があった。そして、改めてあれこれと思い出したり、考えてみたりした。歪んだ家族から逃げ出した四女の方の手記も読んだ。
最近の事件での、あのオソロシー洗脳事件のことも含めて。
(あれはまた、質の違う事件だけれども)
結論として、主犯となったカレラは・・・結局反省してないというか、自分たちの信念たる教義、宗教法人という「カタチ」を残すことに必死で、何も変わってないんだなあ、と。すごく残念なことだ。
だけど、まあ、確かにキリスト教も血塗られているし、(十字軍、異端尋問、ユグノー教徒狩りetc...)仏教も一向宗弾圧のこととか、いろいろそれなり。
神の名のもとに行われる正義、愚かな戦争や大量殺戮は今に始ったことじゃない。原爆投下だって、見方を変えれば、キリスト教徒ではない、しかも白人ではない人種に対するジェノサイドだし。
でも、そんな過去や歴史があったとしても、今は今。過去があったからといって、今の時代にそれを認めては・・・なんですよね。
そして、過ちを犯してしまったからこそ、流してしまった血の量、命の重さを、もっと真摯に受け止めて、そこから学んで欲しいと思う。
でなければ、何のための宗教なんだろう。
人の心を教えない宗教なんて、他人の命を敬えない宗教なんて、自らの信念に忠実なことから、大勢の人を不幸にし、人生を狂わし、巻き込んで、人の命を奪ってしまったことに対して、罪の意識や贖いの気持ちを持たない心にしてしまう宗教なんて、そこに真の信仰心なんて、あるんだろうか?
あの事件で迷惑を被ったのは、何も直接の被害者だけでないし。たくさん職を失ったヨガや瞑想教室とかそちら方面の教師の人とかもいたのです。
さてさて。本当に言いたかったのは、上記のことではなくて。
正しいと思っていること、世の中のため、人のためになること・・・と信じていたとしても、行き過ぎてしまうと、盲目的になって、道がそれてしまうことがある。
それが「正義」だと、あまりにも信じ込みすぎてしまうと、それしかないのだ、と思い込んでしまうと、周りが見えなくなって、冷静になれなくて、それ以外の道が見えなくなってしまうことがある。
何かひとつの考え、想いに囚われてしまうと、
それがすべてになってしまって、全体が見えなくなってしまうことが。
恋なんかが、その主たる例かも知れない。
「正義」や大義名分なんかの場合だと・・・例えば、ハリウッドの映画やマンガなんかでもたまに描かれる、悪を憎むあまりに、正義の執行役を気取って、犯罪者たちを血祭りにあげてしまう、警察官とか夜神クンとか・・・
(あくまでマンガとか映画のハナシ)
あと革命家(うまく行ったケースはいつだって正になりますが)。クーデターを起こしたり、暗殺を謀ったり、連合赤軍みたいな、何かのためといって、自分の行為を正当化する人などすべて。
彼らはみんな、自分が正しいと思って、それを心から信じて、行動していたりする。彼らからしたら、周囲のほうが間違っているのだから。
見えない世界、にもね、そういうのがあります。
霊たちも・・・そう。悪霊ばかりではないのですよ、人を惑わすのは。
それが正義だと、世の中のためになることだと、人のために、こうしなければ・・・と、良いことをしようとする霊たちがいて。
(霊というか既にエレメンタルになってるのがほとんどだけど)
彼らは決して悪ではないのよね。世のこと、人のこと、社会のことを思って、憂う気持ちがあって、何とかしたいと思ってたりする。こうしなければならないという気持ちが強くて・・・
そうですね。
例えば、日本で言うと、坊さんだったり、行者さんだったりとかが多いんだけど。外国だと、司教とか牧師さんとか?シャーマンとかとか。
だけど、彼らには既に肉体がない。善行とか、彼らが遣り残したことをしたいと思っても、肉体がない。そして、なんだかんだ。それが「良きこと」であったとしても、それは神の計画には添わない、人間の考えから生まれた「エゴイズム」には違わないから、エレメンタルである彼らには、この三次元に力を及ぼすほどの、現象は起こせない。
では、そういうとき、どうなるか・・・
寄り代たる、人間を探すことになる。自分の志を継いでくれる、それを実現するものをね。まぁ、でも、基本的に探し回ることはしないから、たまたま波動があったときに、キャッチしてきちゃうって感じ。
お互いの目的が一致していれば、需要と供給の関係でいいのだろう。
それはそれで。
でも、それが霊界 (この場合、この世のシステムや六次元以上のルールのある世界をさす)と外れたものである場合・・・ちょっと問題が出てきてしまう。一歩間違えると、傀儡、にされちゃうことですからね。
彼らがしようとしていることは、決して悪いことではないし、むしろ「善行」なのだけど、傀儡的になってしまう場合、それは、その人の人格や今生での目的を見失わせてしまうことにもなりかねないので、とてもよくないことなのです。
だから、悪霊の奴隷にもなってはいけないけれど、良い人で良いことを行おうとしている霊だからって、傀儡には決してなってはいけない。
神さまと取引をしてはいけないという理由もここにある。
だから、チャネリングというのは怖いもの。善き存在とは行っても、しょせん、「人」だから。宇宙意識にしても、「人」であったもの、ですし。
他者の意識に波動をあわせすぎて、自分を見失うのはもっとも危険なこと。自らの「神」である部分に、まずは意識をあわせられないことには、他者に意識をのっとられて、他人に人生を預けてしまうことになってしまう。
従うべきは、自分の中の「神」であり、良心の声。
他人ももう一人の自分ではあるけれど、
別々の個性として、認識していくべきなのです。
さてさて、ハナシがあちこち、四方八方にちらかってしまいましたけれど。何事も、それに囚われすぎるのは良くないってこと。何が正しいのか間違っているのか、正義なのか悪なのかって、二元論だけで測ろうとはしないこと。ひとつの考えに縛られたり、物事を自分たちだけの目線で見ないことが大事。
なにものにも囚われず、一歩ひいて、物事を見ようとしないと、「木を見て、森を見ず」で、何も見ていないのと同じになってしまう。
一点だけに集中せず、それだけを盲信せず、
同時にあらゆることを考えて、いろんな可能性を受け入れていかないとね。一箇所だけの視点で物事を測ろうとするものじゃない。
多元的な存在とつながることよりも、多元的(多角的)なものの見方をできることのほうこそが大切なのです。
そして、自分の師であっても、その人自身を崇拝して、盲信してはいけない。その人の言葉に感動し、人格を尊敬すれこそ、すべてその人に従ってはいけない。
自分を持つこと。
自分にとっての正しいこと、間違っていること、他人の意見を聞いたとしても、それは参考意見でしかなく、そのアドバイスに従うか従わないかは、自分の価値観、そうしたいかしたくないか、で決めないといけない。
間違いであろうが、正しかろうが、
自分で決めなくちゃ、自分として人生を生きている意味が無い。
たとえ、誤った道を選択してしまったとしても、大きな代償を払ったり、寄り道をすることになったとしても、どんなことも自分が決めたことなら、間違いはない。自分が望まない結果になったとしても、いさぎよく受け入れて、次に生かしていくだけだ。
自分だけのオリジナルの生き方を楽しむだけだ。
正しい答え、なんて、何処にもないんだから。
でなければ、自分に生まれてきた意味もないし、自分であることの必要もない。自分の人生として、自分をしっかりと生きないと。