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知る苦しみ、知らない苦しみ


ここ数日、色々なことがあった。

だから、ずっと頭が冴えている、一方で、曇った状態。


それは、答えが見つからないから。

否、そもそも、答えなんて、存在しないと分かっているから。


知る苦しみ、知らない苦しみ。


結局、私も、どんな人も、

この輪廻からは逃れられないのかなと、

1つは先週の出張で、もう1つは親戚の余命宣告で、

私の頭の中で廻っている。


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先週、実験実習のため、とある研究室にお邪魔していた。

そこで、2人の学生さんに、実験を教わり、そして、とても良くして頂いた。

教えてくれた学生の1人は、女性のドクターだった。

彼女から、たった数日間だったけれど、

お互いの研究室の内情などを話し合い、知ることができた。


ただ、彼女が私と違うのは、

私は、他にドクターがたくさん在籍する研究室に所属しているが、

彼女は、その研究室で、実質1人のドクターであった。


だから、私は、思わず、

「色々とお一人で大変ではないですか?」

と聞いてしまった。


その時、彼女は、

「そうですね。大変なんですよ。聞いて下さい。」

と話して下さった。


内容は、少し重かったけれど、

私には、彼女が酷く思いつめているようには見えなかった。


それが、単純に不思議だった。


勿論、個々の性格もあるだろうけれど。


なぜなのか、ずっとその後、考えていた。


そこで、1つ思ったのが、

彼女のいるところが、良くも悪くも、

俗に言う、"孤独"を、

認識しない (できない) 環境であるのかもしれないと。


同時に、迂闊に「大変ではないですか?」と聞いてしまったことを恥じた。


そのような環境にいる彼女に対して、

"大変"だと認識させてしまうこと、

"辛い"と感じさせてしまうこと、

"おかしい"と気づかせてしまうこと、

それは、ある意味、"苦しみ"であるのかもしれない、

と思ったからだ。



知ってしまったがゆえに苦しむこと。

私もたくさん経験してきたはずなのに。



ただ、彼女とは、

このこと以上に、もっと深い部分についても話すことができた。


だから、

彼女と同じ境遇の人がここにもいる、ということを、

逆に、知ってもらうことができたなら、

とても嬉しく思う。


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先日、突然、私の大叔母が余命宣告を受けたと連絡が入った。


私が幼い時には、とてもお世話になった大叔母だが、

かねてから、乳がんを患い、闘病生活を送っていた。


とても正直で、真っ直ぐで、大胆な性格なので、

そんなことは、微塵も感じさせない人だった。


だけど、抗がん剤治療があまりにも辛いため、

その治療を止めると本人が決断したそうだ。

この決断は、近親者も納得している。


その決断を聞いた上で、担当医師が本人と近親者に余命宣告をした。


私は、大叔母の決断も、近親者の覚悟も、否定するつもりはない。


ただ、だいぶ考えてしまった。


やはり、こういうことっていうのは、いつも考えてしまう。

人として、当たり前であって、当たり前でない、"生き死に"のこと。


私自身、つい先ごろ、ふとよぎった。


医療・ヘルスケア、というのは、

人が"生きたい"という欲望・願いが無ければ、成立しない。


とても冷酷な響きだが、当たらずとも遠からずだと思っている。


そして同時に、人として"生きる"ことを願わなくなった時、

その人は、何を見ているのだろうか、

その人の見ている景色は、どんななのだろうか、と。


生を知った上で、死を知った苦しみ。

一方で、死を知らされない苦しみ。


いずれ私も知らされるときが来るのか、

それとも、知らされずに、その時が来るのか、

今の私には、どちらが良いのか、何が答えなのか、

分からないけれど、その時が来れば分かるのだろうか。


たぶん、これから先、

何度も何度も、数えきれないくらい考えるだろう。



いずれにしても、死を知った大叔母の苦しみを、

私は、知らないふりをして、知ったような口ぶりのまま、

私の中にもある、知った苦しみと一緒に抱える覚悟をした。

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wisteria
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