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研究とお金と人間と心

私は、理系大学院生。
博士後期課程学生である。

これ以上の詳細な身分を明かすことは、できないのだが、
日々、研究室に通い、研究と人間と向き合っている。

そんな中で、最近、深く考えたことがある。


それは、研究と研究費に関すること。


日常での、生活と生活費の関係性に似ている。


そう、研究費なしに、研究はできない。

だけど、研究費は、
誰にでも頂けるわけでも、
容易く得られるものでもない。

申請書を書いて、提出し、審査で通らねば得られない。

その審査は、決して甘いものではない。

だから、得られないまま、研究に苦心する人も多い。


日本では、科学技術に対する研究費は少なくないと言われている。

だが、どれだけ良いアイデアを持っていたとしても、
どれだけ斬新な、革新的な構想を持っていたとしても、

そのアイデアを実現するためには、
非常に高価な試薬、機器、物品が必要な場合が多く存在する。


すなわち、研究費がないため、
実現したくでもできない環境は、
この国において、数多く存在すると思われる。


この現状を、今年、ノーベル物理学賞を受賞された真鍋淑郎さんの言葉からも、映し出されたことだ。

アメリカでは自分の研究のために好きなことをすることができます。
私の上司は、私がやりたいことを何でもさせてくれる大らかな人で、
実際のところ、彼はすべてのコンピュータの予算を確保してくれました。
私は人生で一度も研究計画書を書いたことがありませんでした。自分の使いたいコンピュータをすべて手に入れ、やりたいことを何でもできました。それが日本に帰りたくない一つの理由です。なぜなら、私は他の人と調和的に生活することができないからです。

個人的な視点で言うと、
日本では、
非常に輝かしい成果を挙げた者に、研究費を支給するといった印象で、
そのこと自体が悪いとは言わないが、
これが、知らず知らずのうちに、新芽を踏みつけにしていないだろうか?

日本の研究費に関しては、
その在り方から、
否、日本とって研究とは?という点から、
大いに見直すべきなのではないだろうか。

研究費を得るために、
申請書を血眼になって書くのは、
もしかすると、ある種の時代遅れかもしれない。

このままだと、日本の研究は、衰退の一途を辿る気がする。

未熟な研究者として、そう強く思う。



また、余談だが、真鍋淑郎さんは、こうも仰っていた。

日本では人々はいつも他人を邪魔しないようお互いに気遣っています。
彼らはとても調和的な関係を作っています。日本人が仲がいいのはそれが主な理由です。ほかの人のことを考え、邪魔になることをしないようにします。日本で「はい」「いいえ」と答える形の質問があるとき、「はい」は必ずしも「はい」を意味しません。「いいえ」の可能性もあります。
なぜそう言うかというと、彼らは他人の気持ちを傷つけたくないからです。だから他人を邪魔するようなことをしたくないのです。

この言葉に、何度頷いただろうか。

相手を慮るばかりに、研究上での対立を恐れる。

曖昧さは、日本人の良い点も悪い点も孕んでいるが、

研究において、協調性の使い分けを考えなければならない。

常々、思うことだが、
イエスマンばかりが周りにいると、
本当の正しさやあるべき姿を見失うように思う。

これは、どこにでも言えることだろう。


より良い研究、仕事を実現するためには、
自分の心の思うままに、発言したいものだ。

イエスかノーか、はっきりと言える環境。

否、その様な環境を創らねば。



最後に、自戒と共に。

協調することと相手に迎合することは、
うっかり取り違えるととんでもないよ。
協調というのはお互いに信頼し合って、
目指すものに足をそろえて、向かっていくようなもの。

でも迎合は相手を信頼してもいないのに、
その場しのぎで口を合わせておくこと。

迎合しても何にもいいものは生まれてこないとよく覚えておきなさい。

石川真理子

決して正しいと思えない意見であれば、
相手に合わせる理由はない。

そのときは確固として、自分の考えを守りなさい。

石川真理子

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