問と解 : “鬼滅” 対談
昨日、こちら ↓ を視聴しました。
愛猫が予断を許さない状況だったため (やり取りの途中で退席せざるを
得なくなると困るので)、直接質問をすることは控えましたが、久方ぶりに
気持ちが洗われる思いがしました。
私が送った質問がスライドに表示されたのでびっくり (笑)。
こんな ↓ 内容でした (※ スライドではもっときちんとした文章になって
いました)。
我ながら、誰に対して どんな答えを求めているのか がわかりにくい問い
だったと思いますが、採り上げていただいたことに感謝です 🙏
植先生の答えは、端的にいえば 「彼女たちを対比・対立させる必要がない
から」 といったことだったかと思いますが、それを伺って、私が欲しかった
のは ”共感を得る” ことだったのだなと得心が行きました。
女性同士の対立や対決が描かれないのは、そういう次元の物語ではない
から。
女性が、女性だからという理由で排除されることも、侮られることも、
許容されることも、庇護されることもなく、ただ “そこに在る個” として
生き、死んでいくことができる世界。
女性間の比較や対立の構造を面白がる目線が差し込まれる余地などなく、
女隊士と女鬼のライバル関係に光があてられることもない。
書評でも言及したように、『鬼滅の刃』 は種々のバイアスを超え、あらゆる
「普通」 から解き放たれた物語です。
既存の作品にはよくみられる “お約束” をことごとく裏切るからこそ、
『鬼滅』 における人対鬼の抗争の過酷さが、類をみないリアリティを
帯びて読者の心に迫るのではないでしょうか。
そして、苛烈で情状酌量のない描写がされているがゆえに (人によっては
蛇足だと評価されているらしい最終巻の現代編においてすら)、『鬼滅』 は
人間への深い愛に満ちた物語だ、といえるのでしょう。
ちなみに、こうした独特のというよりむしろ力みのない非常にニュートラル
なジェンダー観ゆえに、私は吾峠呼世晴先生女性説を支持するわけですが、
これも一種の差別的な決めつけになってしまうのでしょうか? 😓
特典コラムも大変興味深く拝読いたしました。
私未だに 「研究ってなんだっけ?」 「論文ってこんな感じでよかったっけ?」
と迷うことがあるので、これはひとつの道標にさせていただきます!
猗窩座の名前に関する考察は私もいろいろと目にしたことがありますが、
こうして言語化していただくとある程度ピシッと落ち着くものですね。
(ちなみに猗窩座のイントネーションはオペラと同じだと聞いたことが
あります。が、私は座にアクセントを置いてしまいそうになります。
それと猗という字は猗窩座で初めて知りました)
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