西加奈子さんについて
5年前の自分用のメモが今の自分にすごく響いたので記載。
西加奈子さんについて書いてみます。
西加奈子さんは小説家で、私が唯一長く読み続けている作家さんです。
何がいいのか説明するとすれば、その説明にさえ私自身が的確に、丁寧に、ことばをすくいとって他の人に伝えなきゃと使命感にかられるほど、私にとって大事な文章を書く人です。小難しい伝え方ではなく、やわらかくて気の抜ける、しかし油断したその先にまったく尖った鋭さでものを言い当て、巧妙にことばを絡ませ、物語やその中でのたうち回る人間に恋をさせるのです。読んでいるうち、私は何度も何度も自分にとって刺さった過去のことを想起し、たまらない気持ちになって、ちょっと他人には面倒に思われるくらいには涙が滲みます。
この人の伝えているものは(私なりに言えば)、ありふれた日常すぎる日常--おどろくほど簡単に唾棄されるであろう日々の出来事やこまやかな感情の機微が、実は途方もないほどに自分自身の心を打ち砕くことがあるという事実を知っていて、そのひとつひとつを丁寧に、けして馬鹿にせずに、書きほどいてくれる。そういうものだと感じています。
たとえば、自分に何か小さな事件が起こって、それが結果的に自分の内側で大変な威力をもってして殴りかかってきた場合でも、そんなことは、他人からすれば存じ上げぬことです。いつまでもそんなところで感情の渦に浸かっていないで、早く前に進んでくれ。そう思われることでしょう。そして、私たちもまたそう思われることを解っていて、そのようなありふれた日常のことはできるだけ唾棄していく。
しかしたったひとつのなんでもない小石が、人を立ち上がれなくさせてしまうこと、また逆に震えるほど幸福にすることもあると私は信じています。道を行く人々が蹴飛ばす小石が、その人にとっては蹴飛ばすにふさわしい小石として出会ったとしても、他の人にとってはそうでないかもしれない。拾い上げて陽にかざして、大事にポケットにしまうべき小石かもしれない。そういったものの理を信じている。
それでも、その考えに不安になるときがある。だってそれは"世間にとっては"蹴飛ばすべき小石、唾棄すべきありふれた日常だから。自分が大事に磨いていた小石を、もし目の前で何の気なしに蹴飛ばされてしまったら、それはきっと、悲しくてたまらない。自分が強ければ、周りを気にしなければ、そんなことはないでしょうと誰かが言ったとしても、悲しまないことは難しい。だって私たちは他人とつながって生きていたいのだから。
そんな思いを、西さんの小説の中で私は、強く想起します。同時に、そういった思いをまったく馬鹿にしない、むしろ肯定してくれるような、当然のものとして"書いてくれている"ような心地がします。