綺麗な写真を撮るのが嫌になった話
最近写真について考え直す機会が増えたので自分の記録として書いてみる。
ざっくりとした流れはこう。
・好きな人間に影響されミラーレスPenから始める
・絵が描けなくなり、逃げ道として写真に没頭する
・物か風景ばかりで人は撮れない
・恋人と別れ、その人が撮った自分の写真について考えるようになる
・フィルムで撮り始める。Nikon FM2
・ギャラリーに入り浸り、魂の近い女の子と出会う
・写真にまつわる人々やその子と話すことでポートレートに興味が出る
・その時の恋人に撮られた自分に違和感を感じるようになる
・あの人が撮ってくれた写真のことを再び考えるようになり、別れる
・人と過ごす時間を撮るようになり、展示もするようになる
・ありきたりな日常を撮って残していくことが自分の指針になる
・「綺麗で」「オシャレで」「幸福そうな」写真に違和感を覚える
・写真を“綺麗に”撮ることが嫌になる
・自分が撮った祖父の遺影写真によって写真観が変わる
・労働に忙殺され、写真を撮らなくなる
・摺り変わるように没頭していた二次創作での推しが写真家になる
・推しの考察によって再び写真について考えるようになる
最後の急カーブがすごい。
オタクになった自分はある程度もう一次創作というか純粋な作品づくりからは足を洗った気でいたのだが、そうでもないのかもしれない。最近素直に写真を撮ることが楽しいと思い直せたのは数奇ながらも二次創作のおかげであるが、肩の力を抜いてもう一度写真を始めるのは自分が思っていたより楽しいことなのかもしれない。
最近買った写真集のことを考える。
川内倫子さん。学生の頃もこの人の写真が好きだった。
でも当たり前に“良い写真”すぎて、そしてある種彼女の写真も「綺麗な」写真と言えなくもなくて、(ただもっと本質的なところで命や世界について撮っていることは確かだったけど)その写真に傾倒していくことも少し恥ずかしくなってしまっていた。今思えば自分が未熟だったのだな。
そうして数年ぶりに巡り合った彼女の写真集はこの世の光をあつめたもので、それは不鮮明な夜の闇に混じる飛沫のきらめきや、夕方の昏い空に無数に羽ばたく鳥の群れ、鍛冶屋が夜空に放り上げる火の粉、海の波打ち際に淡く溢れる白い転々、そのような光の粒子、抽象的な世界の断片、だった。
これをあの頃の自分が見たらどう思うだろう。やはり「綺麗な」写真と思って嫌悪するだろうか。
この写真集の巻末、ステートメントにはこう書かれている。
銀河系にある小さな星の、さらに小さな生き物たちはきょうもそれぞれの役割をまっとうしている。
太陽の光のなかで。薄い氷の上を歩くようなバランスで。祈るようにして美しいものを探しながら。
それぞれの領域を、幾重にも重なるなにかに守られながら。
美しいものは罪なんだろうか?少なくともあの頃の自分には嘘をついていると思えた。ありきたりな日常を記録したかったから、全てが綺麗だなんて嘘っぱちだろうと憤った。
美しいものを求める人間の根源的な欲求はなんだろうか?
それを今私は否定できるのだろうか?
それと、祖父の遺影写真のことは自分にとって大事なことだから記載しておく。書き直すのが面倒なのでTwitterそのまま引用。
私は大好きな祖父のお葬式で遺影の中の彼と目があったことがある。それは私が撮った写真だった。
祖父がどんな人だったかは割愛するけどとにかく彼が私の人生からいなくなることが寂しくて寂しくて仕方なかった。お葬式の最中、棺桶のもう動かない身体ですらどこかにいってしまうことが嫌だった。
お経を聞きながらずっと遺影の中の祖父を見つめていた。唐突に気づいたことがあった。
写真の中の祖父は笑っている。誰に笑いかけているかというと、それはこの式場にいる他者の誰でもなく、あの日祖父にカメラを向けた私に笑いかけている。彼が向けた私への視線がそこにあった。生きていた。私は“生きて私を見ている祖父”を切り取っていたんだと気付いた。
うまく表現するのが難しい…。とにかく私にとって“写真”というものが全く変わってしまった瞬間だった。もう祖父には会えないけど、私が彼を写し取ったその物体はいつでも私に祖父からの視線、笑みを再構築してくれる。それがどれだけ有難いことか分からなかった。
それが彼の遺影であることが誇らしかった。
これが今のところの、私の写真に対する雑感である。
綺麗な写真を嫌いになった自分は再びまた違う考えを持とうとし始めている。それはまだ言語化には至らない。それが言葉になるとき、また何らかの形で記録して残そうと思う。