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蔵王の麓産まれ、スキー場育ち

こんにちは、一つでも多くスキー場を次世代に残そうと取り組んでいる村山と申します。
SNSではmixiの時代からミスターと呼ばれております。
X(旧Twitter)での長文投稿が多いのですが、長すぎて同郷の顔見知りにブロックされ悲しかったのでnoteに長々とアレコレ書いていこうと思います。

まずは自己紹介から始めます。

父親が朝起きたら蔵王が見たいという理由で建てた家からの眺め

私は大阪万博の年に蔵王の麓に産まれました。
かつて父親が蔵王鉱山で働きスキーにはまり閉山後もスキーが出来る環境を模索していた事から私の人生はスキー場と縁の深いものとなりました。
父親は自宅から20分ほどの蔵王猿倉スキー場という小さなスキー場でイントラをしていました。
冬の休日は父と一緒に家を出て夜帰宅するのが日課です。
(後で聞いた所、一人で出かけると母親がうるさいのでアリバイ作りに同行させていたようです)
完全放任主義で12月から3月まで全ての休みをスキー場で一人で滑って過ごしました。
売店のおばちゃんやリフトで働くおじちゃん達に面倒を見て貰いながら、ひたすら滑るうちに目標を見つけたり挫折したり。
人生の厳しさも人の温かさも雪上で幼少期に学んだ気がします。
痛い思いも達成感も自分の決断に対する結果です。
雨に濡れて文句を言っても雨は止まないし、アイスバーンが柔らかくなる事はありません。
あるがままを受入れつつ自分の出来る最大限の努力をする。
急斜面へ行こうと思ったのも自分ならコブ斜面にビビり越しが引けたのも全て自分の行動です。
雪上には多くの学びがあると今でも信じてます。

名古屋の大学を卒業し蔵王のスキー場運営会社へ入社した頃は空前のスノーボードブームでした。
ここで縦社会のスキー界からドロップアウトしていた私はスノーボードの自由さにハマりました。
後にスキーヤーとスノーボーダー双方を理解できる事はスキー場運営に携わる中で大変大きな武器になりました。
小規模なスキー場とはいえ勤務する全てのスキー場できちんと利益を出し続けられたのはスキーとスノーボード双方のバランスを一人で見れた事が大きかったのです。
ゲレンデにどちらの要素がどのくらい足りないかを考え、自分で必要な要素を加える事が出来たからです。

震災をきっかけにして一度はスキー場を離れましたが、心の傷が癒えた頃にまた雪上の仕事へ戻ろうと考え始めました。
同時に幼少期に面倒を見て貰っていた恩返しにスキー場の持続しやすい仕組み作りを考えるようになったのは自然な事だったと思います。

現在は千葉の非メーカー系リフトメンテナンス関連会社に在籍しつつ長野県上田市に事務所を構え、自宅のある山形と3拠点生活を送ってます。
会社ではリフト部品の製作・販売や工事などを受注しています。
個人事業主としては索道コンサルタントを名乗り、本当に最小のコストで運営出来ているのか?あらゆる策を講じてもこれ以上の集客はかなわないのかを問いかけています。

家の近くの小さなスキー場が無ければ今の人生が無かった私は、誰かの近くのスキー場を守りたいと心から願っています。


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