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いつでも「ケロッ」としていたい
私は物事を必要以上に重くとらえてしまう傾向がある。
不安で不安でたまらなくて涙があふれ、でも終わってみたらそんなに不安に思うほどのことでもなかったということを何度も経験した。
だから、私の目標は、いつでもケロッとなれる状態になること。
感謝や謝意といった人間として必要な気持ちは持ち合わせながら、物事をあっけらかんと対処したい。
例えば、誰かに対して不満を抱くとして、今まではそのことを考えて頭の中がもやもや環状線となり、現実以上に事態を重く受け止め、自滅していってしまう。
不満を抱くのは人間だからしょうがないとして、でも寝たらすっかり忘れて、あっけらかんとして、自分のやるべきことに集中して、楽しむべき時は楽しめるような人間になりたい。
私がケロッとできる性格であれば防げたであろう衝突や悲しい別れが何度もあった。
過去のことはもうどうにもできないが、せめてこれから出会ってくれる人には、嫌な思いをさせたくない。
嫌なことがあってもケロッとして、いつも背中に風船をたくさんつけて浮かんでいるような軽やかさを手に入れたい。
私は人より愛情が多い人間だと思っていたが、実際は単なる執着や不安の表れだったのだろう。
「ケロッ」としたい、と最初に思ったとき、心のどこかで「他人への興味をなくすってこと?」と別の自分が言ったので、考えてみた。
でもそういうことではなくて、執着を簡単に手放すことができるということ。
怒りへの執着、他人への執着、ネガティブ思考への執着、相手をコントロールしたい欲の執着。
すべてを手放したら、私自身も解き放たれたような気持ちになれるのではないだろうか。
まずは「足るを知る」こと。
今あるもので私は充分幸せで、何かに執着する必要などない。
そして、何かつらいことや嫌なことがあったとき、ある程度まで片付いたら、それ以上それに固執することは自分を苦しめる「執着」であることを自覚する必要がある。
今まで「それは執着だ」と指摘されることを恐れていた。
今も正直怖い。なぜなら、私自身が執着をするような人間、と思いたくなかったから。
だけど、執着という言葉がある以上、それは人間という生き物において、執着するという現象が起こりうるということ。
大事なのはそれとどう向き合うか、どう扱うか。
「これは執着かもしれない。なぜなら私を苦しめているから。それなら一度抱きしめて、さよならと言おう」
これくらい暖かく自分の感情に寄り添っても、罰は当たらないのではないだろうか。